歌が、聴こえてきた。
俺がここに来るようになって、もうすぐ一ヶ月が経つ。
毎日毎日通っているというのに、使用人たち以外の声を聞いたのは今日が初めてだ。
艶やかな鍵盤の音と、少し鼻にかかった、けれど凛とした伸びやかな声。
なんて綺麗な歌声なのだろう。
もっと近くで聴いてみたい。
そう思った俺は、声のする方へと足を向けていた。
「…あ、」
大きな屋敷の一番隅の小部屋に、彼は居た。
少しばかり眉間に皺を寄せ、まるで女性のような白く美しい指先で鍵盤を撫でる。
瞳を閉じて歌うその姿に、どくん、と胸が強く弾んだ。
こんな人、初めて見た。
年齢は恐らく俺と同じくらいで、つましいけれど質の良さそうな洋服を纏っている。
もしかすると、旦那様のご子息、だろうか。
けれど、そんな話は一度も聞いたことがない。
不思議に思ったけれど、そんなくだらない思考はすぐに消えた。
まるで何もかもを拒絶しているような、遮断してしまっているかの様な、どこか悲しそうに歌っていた彼が、俺をその目に映したから。
突然目が合って、どうていいかわからずおどおどしていたら、がちゃりと音を立てて大きな両開きの窓が開けられた。
見上げると、驚く程可愛らしくて美しい顔がこちらを見ていて。
俺はまた、柄にもなく慌てふためいてしまった。
「…誰?」
「っあ、す、すみません!俺、ここの庭師をさせていただいています、パクチャニョルと言います」
「…ふぅん」
こちらを向いた黒目がちな瞳に喜ぶ暇もなく、すぐに逸らされてしまう視線。
心底興味ないといった様子の彼に、何故か俺はとても焦った。
どうしよう、このままじゃ会話が途切れちゃう。
もっと話していたいのに。
どうしてかそう思った俺は、気付けばわけのわからないことを口走っていた。
「あ、あのっ!お花とか、興味ありませんか?」
ああ、やってしまった。
一体何を言っているんだ、俺は。
早く仕事に戻らなければならないというのに。
「花…?別に、興味ない」
感情を映さない冷え切った瞳に当てられて、なぜだか胸がきしりと痛む。
とはいえ、彼の反応は当たり前だ。
こんな見ず知らずの男、それもただの庭師なんかと、まともに会話してくれるはずがない。
ましてや、もし彼がこの家の子息なら尚更だ。
「そ、そう、ですよね…。花なんか見ても、どうにもならないし…」
「……」
「あ、でも、今の時期だと、十月桜がとっても綺麗なんですよ!って言っても、二番咲なんですけど…」
「…十月桜?」
ぽつり。
呟かれた声は、まるで独り言のようだったけれど。
俺の話に反応を返してくれたのに気を良くして、気付けば俺は「少し待っていてください!」と言い残して庭隅に向かって走り出していた。
「これです、これが十月桜!」
はあはあ、と息を荒くしながら、彼に十月桜の花冠を差し出す。
この屋敷は全体が地面より少し敷居が高くなっており、部屋の一角を占める出窓の下枠は俺の胸元くらいにあるにも関わらず、窓辺に立った彼の視線は遥か上だ。
見た感じ、確実に俺の方が背丈はある筈なのに、その所為で今俺は彼に見下ろされている。
気分はまるで、西洋物語のロミオとジュリエットだ。
「…これ、桜なの?」
俺の手から受け取った花を、食い入るように見つめる彼。
きっと彼の知っている桜と少し違っているからだろう、不思議そうにじっと眺めるその様子がおかしくて可愛くて、つい小さく笑ってしまった。
「全体の三分の二が十月頃から咲き始めるから、十月桜って名付けられているんです。冬桜とも呼ばれてて。まあ、本当はちょっと違うんだけど」
「…へぇ。おまえ、物知りだな」
「え、そ、そんなことないですよ!」
ただの庭師の端くれです!
慌てて弁解したけれど、今までこんな風に褒められたことなんて無かったから、なんだか妙に照れくさくて。
桜の花冠を長い指でくるくると回している彼をもう一度見上げ、ぺこりと頭を下げた。
「あの、急にすみませんでした!それじゃ、俺、もう行きますね!」
“また今度”
そう言いたかったけれど、彼の返事を聞く前にその場を去った。
また会えるといいな。
なんて、一人勝手に心を弾ませながら。
◇
それから俺は、毎日あの部屋に通うようになった。
といっても、窓から室内を覗くだけだけれど。
そしてあの日から、彼はよくあの小部屋に居るようになった。
もしかすると以前から居たのかもしれないが、彼に毎日会えることに俺は喜びを感じていた。
ベッキョンという名前で、やはりこの屋敷の持ち主である旦那様のご子息だということ。
それから、俺と同い年だと言うこと。
彼本人が教えてくれたのはその話だけで、他はあまり多くを語りたがらなかったけれど。
それだけでも進歩したように思えたし、彼を少しだけだけれど知ることが出来たような気がして嬉しかった。
歳が同じだと発覚した日から敬語でなくてもいいと言ってくれたことも、そう思えた一因かもしれない。
とはいえ、まだ俺は彼に対して敬語を使っているけれど。
だけど俺はまだ、彼の笑顔を見たことがない。
「ベッキョンさ〜ん!」
今日も部屋で読書をしていた彼に、窓の外から声をかける。
最近、窓が開いていることが多くなった。
そんな些細な変化にでさえ、俺の心は軽やかになる。
「今日は菫がたくさん咲いたんです!」
俺は毎日一本、その日一番の花を摘んで彼の元に届けている。
これは、あの日からずっと続けていることだ。
彼が、俺が咲かせた花に興味を示してくれたから。
俺が話す草花の話を、いつもじっと聞いてくれるから。
そして、いつか彼が、花を見て微笑んでくれるように。
「すみれ?」
「そうです!すげぇきれいでしょ?!」
ゆっくりと近づいてきたベッキョンさんに、一輪の椿を手渡す。
そっと花に顔を寄せた彼は、小さな声で「きれい…」と囁いた。
「ね、ベッキョンさん。今日は、一緒に庭に出てみませんか?」
「…え?」
「本当の花の姿を、見てもらいたいんです」
やっぱり、一輪では寂しいから。
庭で綺麗に咲いている花たちの本当の姿を見てほしくて。
困ったように眉を寄せるベッキョンさんの手を取って、外へと続く窓を潜らせた。
「ベッキョンさん、たまには外に出てますか?中に居てばっかだと、気が滅入っちゃいません?」
「…俺、体弱いから」
「あ、…」
そう言えば、どうして彼が閉じこもってばかりいるのか、今まで一度も考えたことがなかった。
いや、俺がただ勝手に、彼は好んで室内にばかりいるのだと思っていたのだ。
「あ、の…、ごめんなさい…」
「…」
しゅん、と項垂れる。
どんな言葉を続ければいいか分からなくて、ただ俯く。
本当なら、本来の俺なら、強引にでも目の前の細い腕を引っ張り出しているだろうに。
そう出来ないのは彼が雇い主の子息だからか、まだあまり仲が良いとは言えないからか。
どっちの理由も当てはまって欲しくないな、と自分のことながら他人事のように考えていると、俺を窓の向こうから見下ろしていたベッキョンさんが小さく息を吐いたのがわかった。
「俺、外に出たくないとは言ってないんだけど」
思いがけない言葉にぱっと顔を上げると、何とも言い難い、複雑な表情のベッキョンさんが居て。
だけど彼の真意がいまいち理解出来なくてじっと見つめていると、小さな声で「案内してよ」という一言が降ってきた。
「っ、はい!」
ずっと室内にいたというのに、冷え切った彼の綺麗な手を握りしめる。
いつも花を渡してはいたけれど、この手がこんなにも小さくて柔らかいものだとは知らなかった。
ほんのわずかでも、彼を知れることが嬉しくて。
自然と弾んでしまう声もそのままに、窓から外へと飛び降りてきた彼の手を、ぎゅうと力強く引いた。
「ここ、今の時期では一番好きな場所なんです」
握っていた腕を離して後ろを振り向く。
ちょっぴり驚いたような表情のベッキョンさんは、黙ったまま花壇に近づいた。
「…いい香り」
「でしょ?でしょ?」
「これは、何ていう花?」
「雪椿です。その中でも乙女椿って言わてて」
元々椿の中では遅咲きの方なんですけど、ようやく咲きました。
そう答えている間にも、ベッキョンさんはいつもの様にそっと花に顔を寄せて香りを楽しんでいる。
その横顔が、ひどく綺麗で。
「あ、そうだ!ベッキョンさん、花飾り、付けてみません?」
「え?」
「ちょっと大ぶりですけど、絶対似合いますから!」
普段あまり外に出ないという彼に、思う存分外の空気や楽しさを知ってもらいたくて。
それから少しでも長く、彼と一緒にここに居たくて。
「何色がいいですか?白、赤、薄桃…」
「…じゃあ、赤、がいい」
「え〜、赤ですか?俺のおすすめは桃色なんだけどなぁ」
「…」
「へへ、嘘ですって!」
ちょっぴり怒ってしまったベッキョンさんに笑って見せ、少し離れた所に咲いている赤椿を摘みに行く。
出来るだけ足元の草花たちを踏み潰してしまわないようにと気を遣っていたら、ぬかるんだ土に足を取られて体制を崩してしまった。
「うわっ!」
ばたんっ、と、彼が見ている前で思い切り転んでしまった。
少し日陰になっている所為で、まだ朝露を含んだ土が頬や服にこびりつく。
嗚呼、どうしよう、恥ずかしすぎる。
これじゃあ、格好も何も付いたものではない。
ごまかすように苦笑いを浮かべながら立ち上がろうとすると、不意に後方から笑いを堪えるような声が聞こえてきた。
え?と少し驚きながら振り返ると、
「ふはっ、どんくせ!」
ベッキョンさんが、笑っていた。
「あ、…」
「その長い手足、持て余してんじゃん。大丈夫?怪我してねぇ?」
「や、してないっす!大丈夫っす!」
差し出された綺麗な手を取って、立ち上がる。
もちろん、手に吐いた泥をこれでもかというくらい叩き落としてから。
わざわざ俺が転んだ傍まで来てくれたことに胸が躍る反面、ものすごく恥ずかしくて。
…だけどそれ以上に、
「俺、ベッキョンさんの笑った顔、初めて見ました…」
楽しそうな、けれど穏やかで優しい彼の笑顔が、嬉しくて。
「…ベッキョンさんの笑顔って、人を幸せにするんですね」
なんて、自分でもクサイ台詞を無意識に口走ってしまっていた。
だけど本当にそう思ったし、自然と口を吐いていたのだからもうどうしようもない。
俺の言葉に目を真ん丸にしたベッキョンさんは、ほんのり頬を赤らめ、「馬鹿じゃねぇの」なんて可愛げのない台詞を呟いていたけれど。
「あ、そうだ、花!」
俺が倒れたせいで潰れてしまった野の花たちをそっと起き上がらせる。
花は強いから、こんなことで枯れたりはしないけれど。
「ベッキョンさん、ちょっとじっとしててくださいね」
「え?あ、うん」
膝を折って屈む彼の前に立って、植木鋏で摘んだばかりの椿をそっと髪に差し込む。
彼の柔らかな髪から手を離すのが、なんだかとても名残惜しくて。
乱れた御髪を梳くふりをして、艶やかな漆黒をそっと撫でた。
「ベッキョンさん、知ってますか?」
椿の、花言葉。
そう問えば、彼はふるふると首を振った。
「赤い椿の花言葉はね、“気取らない優美”です」
「…」
「ね、ベッキョンさんにぴったりでしょ?」
そう言って微笑めば、透き通った目をぱちぱちと動かせたベッキョンさんが、途端に耳元まで顔を赤らめた。
「うわあああ、今虫唾が走った!」
「え?!何でっすか!」
「そもそもおまえが花言葉を知ってる時点で寒気がする!」
「え〜?!」
帰る!と素早く踵を返してしまったベッキョンさんを慌てて追いかけながら、今日はたくさん収穫が合ったな、なんて。
罵声にも似た言葉を浴びせられたはずなのに、俺は頬が綻びるのを抑えられなかった。
春椿
今年のGDAぺくちゃんの妾の子感がハンパなくて思わず書いてしまいました。
現代ではなく、明治大正くらいのイメージです。
一応続きを考えたのですが、ベタなパターンしか無いので続かないです^o^
それから、このお話は別サイトのリメイクというかリマスターしたものです。
あれ?と感じた方は、「あっ…(察し)」とスルーしてくださると嬉しいです。笑