※陰間茶屋(遊郭)パロ
ゆっくり、ゆっくりと、けれど着実に沈んでゆく臙脂。
落ち行く夕日と共に、この街には活気が差す。
刻三つ程は眠れただろうか。
見世に出る前にもう一度湯あみをしようと鉛のような体を起こすと、部屋の前から自分を呼ぶ静かな声が聞こえてきた。
それに答えると、ゆっくりと開けられる引き戸。
「…もう起きてたんですね」
そっと顔を覗かせたセフンに微笑む。
おいで、と手招くと、彼は素直に室内へと入ってきた。
「ちょうど今から湯あみに行こうと思ってたんだ。おまえも行こう?」
「…、」
少し着崩れた着物を直しながらセフンにそう声を掛ける。
けれど彼は黙ったまま、甘えるように身を寄せてきた。
「どうかしたの、」
少し癖のある、柔らかい髪。
艶やかで美しいけれど、寝癖なのか元々なのか、所々ぴょこりと跳ねている。
まだ見世に出ていないとはいえ、手入れくらいきちんとしなさいと何度も言っているというのに、彼は一向に言うことを聞いてくれない。
自分に無頓着で居られるのはあと少しの間だけだから、あまり強くは言わないけれど。
ふわりと浮いた後ろ髪をそっと撫で押さえてやっていると、開け放たれた窓の外を見つめていたセフンが、ぽつりと呟いた。
「もうすぐ、紫陽花が咲きますね」
「…そうだね」
しとしとと雨が降り、紫陽花が街を彩る季節。
もう花たちは蕾を結び、艶やかに咲く準備を始めているのだろうか。
「今年も、あの人は来るのかな」
セフンのその言葉に、遠い日の記憶を手繰り寄せる。
毎年この時期に紫陽花を携えて見世にやって来る彼は、いつも美しい朱の傘を差していた。
「…もう会わないよ」
本当は、会いたいのかもしれない。
だけどもう、きっと会うことは無い。
「決まったんです」
「…」
「水揚げの、日取り」
「……そう」
セフナ。
優しく名を呼べば、そっと肩に凭れ掛かって来た。
いつの間にか僕よりも遥かに大きくなってしまった体を、まるで母のように抱きかかえる。
そのままずるずると膝の上に頭を落としたセフンが、ひどく愛おしくて、ひどく哀しい。
水揚げなんて、出来るならこの子にはさせたくなかった。
身売りなど、きっといくつになってもこの子には似合わない。
「ねぇ、兄さん」
何かに耐えるような、声。
ん?と耳を傾けると、僕の首に両手を回したセフンが少し強い力を引き寄せる。
されるがまま彼に顔を近づけると、穢れを知らない美しい瞳がきらきらと輝いて見えた。
ころころと表情を変え瞬くそれは、まるで万華鏡のようだといつも思う。
「明日なんだ、…水揚げの日」
小さく呟いたセフンの手が、そっと僕の前髪を掬う。
「…怖いよ、兄さん、」
怖い。
それはもう、いつからか口にすることを忘れてしまった感情の欠片。
セフンの温かい手が頬に触れるのを感じながら、僕はそっと目を閉じる。
その手に自分のそれを重ね合わせて、ゆらゆらと不安定に揺れるセフンの心音を聞いた。
「ねぇ、兄さん」
哀しいほどに、強い瞳。
それに吸い込まれてゆきそうな感覚を覚えながら、彼の言葉の続きを待つ。
「おれね、兄さんのことが、好き」
添えていた手を掴まれて、掌に柔らかなくちづけを落とされる。
まるで、祈るように。
「僕も愛してるよ、セフナ」
艶やかな髪を撫でながら、今にも泣き出してしまいそうな彼の頬にくちづけた。
袖の雫
先走りすぎた紫陽花。
せふんちゃんの口づけは懇願、イシンさんの口づけは親愛。
ちなみに、紫陽花の彼はクリスです。
ルハンも出したかったのですが…それはまたいつか。