▼ 45
断片的に浮かぶ幼い頃の景色にはいつも凛と宗介がいた。
二人はいつも競い合っていてその日はどっちが早く家まで走って帰れるかってわたしのことなんてそっちのけで走り出してしまって、置いていかれることが怖くて不安で寂しくて声をあげて泣いてしまったのだ。
それに気が付いた二人が慌てたように戻ってきてわたしの右手と左手をそれぞれぎゅうぎゅう痛いくらいに握ってくれた。
「おい、泣くなよ」
「だって置いていかれた…」
「悪かったって」
凛が眉を下げておろおろと謝るのに対して、宗介は唇を引き結んで無言で前を向いていた。
ただ、ぎゅうっと握られる手の温かさは確かにそこにあった。
「……」
「…その、勝手なこと言ってるのはわかってるんだけど」
季節はすっかり秋めいていて宗介の最後のレースだった地方大会からはもう数ヶ月の月日が流れていた。
だからって宗介の心のほうの傷はどれだけ癒えたというのだろう。
子供の頃から大切にしてきた夢を、道半ばで諦めたのだ。
傷を抉っているのはわたしかもしれないと思うけれど、言ってしまった言葉はなかったことにはできない。
宗介の返事をジッと待っていると、彼がふっと息を吐いて話し始める。
「…お前が岩鳶で水泳部のマネやってるって聞いたとき、」
「う、うん」
「すっげー腹立った」
どんな返事が返ってくるか身構えていたら宗介が真面目な顔でそう言う。
「えっ……あの時は別にって感じだったのに…?」
「ダッセェだろ。腹ん中ではずっとむかついてた。お前にも、橘にも、自分にも」
引き結んでいた唇と、硬かった表情がふっと緩んだ。
「自分にも…?」
「ガキの頃から、なまえの傍にいたのは俺と凛だったろ。俺たちがいなくなってお前にだって新しい世界があって当然なのにそれを喜んでやれなかった」
そんな風に、思っていたんだ。
中学生になって水泳部のマネージャーをやらないかと誘われてもかたくなに断っていたことを引き合いに出されるものだと思っていたけれど、そうではなかったらしい。
「地元を離れて東京に行くことを決めたのも、帰ってくることを決めたのも自分なのにその全部が間違ってるみてぇに思えて、お前にも凛にも戻ってきた理由は言わないって決めてたから余計に苦しかった」
リハビリもうまくいってなかったしな、と宗介が目を伏せた。
「…新しい世界とか、よくわからないけど。宗介も凛もわたしにはずっと、大切、だよ。幼馴染だもん。宗介は帰ってきたくなかったかもしれないけど、こうやって昔みたいに話せるの嬉しいよ」
なんて言ったら怒るかな、と独り言みたいに呟く言葉も宗介はちゃんと耳を傾けてくれる。
「怒んねぇよ、俺も、嬉しい」
嬉しいって言うくせに、笑ってくれているのに、どうして宗介の表情が泣きそうに見えるんだろう。
自分から宗介と距離を置いたのに、やっぱり話さなくなったら寂しかった。
だから、こうして向かい合って言葉を交わせることは素直に嬉しい。
本人に面と向かって「大切」だなんて改めて伝えるのは恥ずかしさもあるし、宗介を取り巻く環境が現状と違うものであればもっともっとよかったのにとは思ってしまうけれど。
「肩やっちまったとき、一番に浮かんだのは凛の顔だった」
「うん、」
それは、そうだろうな。
水泳を始めたときからずっと競い合ってきた幼馴染、オーストラリアで一人頑張っている凛といつか一緒に世界の舞台に…と思ってきたのだ。
痛みも苦しみも悔しさも、全部は理解できないかもしれないけれどそれくらいはわかるつもりだ。
「次に思い出したのはなまえだった」
目を伏せた宗介の顔に睫毛が影を作る。
「合わせる顔ねぇな、とか。知ったら泣くかな、とか。柄じゃねぇけど」
「人のことばっかり…」
「だな。自分の怪我なのに他人事っつーか、実感なかったのかもしれねぇ」
実感がないというより、それだけ受け入れがたいことだったのではないだろうか。
高校にあがってからの宗介の記録や成績はあえて調べないようにしていたけれど、こっちに帰ってきてからの泳ぎや身体つきだけ見ても相当トレーニングを積んでいたのだろうということは容易に想像できた。
リハビリをしながらであの状態だったのだから、怪我をする前はどれほどの泳ぎをしていたのだろう。
「だけど、俺は新しい夢を見つけてそれはもう叶った」
「夢……?」
「あぁ、凛とリレーを泳ぐ。…チームを作るなんて俺には向いてないと思ってた。だけど今まで見たことのない景色を、見れたんだ」
そう言う表情が無理をしているようには見えなくて、宗介はやっぱり穏やかに笑っている。
あの日、地方大会の決勝レースで鮫柄の四人が晴れ晴れとした表情でプールに現れたことがすごく不思議だったけれど、チームで泳ぐということが、あの四人でリレーを泳ぐということが、あの時の四人にとって宗介にとって、何にも代えがたいものだったのだろう。
背負っていたものを置いて、水泳を辞める決意をしたことで、新しい夢を達成したことで、彼の心は軽くなったのだろうか。
「なまえが水泳続けてほしいと思ってくれんのは嬉しい。けど、今は正直考えられない」
悪い、と宗介が俯いた。
「どうして宗介が謝るの…」
言葉尻がしぼんで、消え入りそうな声しか出ない。
小さい頃から言葉数の多くなかった宗介が心の内をさらけ出してくれて、向き合って気持ちを話してくれた。
それなのにわたしは宗介になんて声をかければいいのか、わからない。
「まぁ、そのうち気が変わるかもしれねぇけどな」
「…えっ?」
「だからお前がそんな暗い顔する必要はねぇってこと」
未だ開いて膝に乗せていたままだったファイルを閉じて宗介が顔をあげる。
その表情はひどく穏やかだった。
さっきの言葉も、宗介なりの優しさで本心ではないのかもしれない。
ただ目の前で言葉を交わす幼馴染が記憶のどの彼よりも柔らかく目尻を下げて笑うから、わたしも無理矢理にでも笑ってみせた。
「あー…でさ、俺は俺でなまえに言っとかねぇといけないことがある」
「うん、なに?」
「橘に、お前のこともらうって言った」
「えっ」
予想もしていなかったことをポンっと放られて固まっていたら宗介が苦い顔をした。
「あいつが頑固っつーか聞く耳持たないって顔してたからむかついて口が勝手に動いた」
「勝手にって…」
「冗談のつもりだったけど橘は真に受けてた」
こんなことをわたし本人に言ってくるってことは本当に冗談のつもりだったのだろう。
それはちゃんとわかっているのに、真琴に別れを告げられたときに「山崎くんのそばにいてあげて」と言われたことがリンクして、喉の奥がひゅっと鳴る。
「…真琴は、なんて?」
「あいつが先に俺になまえのそばにいろって言った」
「……そう」
おかしいな、こんな話を宗介としたかったわけではなかったのに。
苦い気持ちがせりあがってきてさっき無理矢理あげた頬が下がっていく。
「ただ…なまえと橘は、二人して苦しんでるようにしか見えねぇんだよ」
それは、元々友達だったから、別れたことでもう友達にも戻れないことが哀しいから。
昔みたいに話せない歯がゆさのせいでそう見えるだけ、きっと。
真琴は優しいから、わたしがいつまで経っても暗い顔をしていると彼の陽だまりみたいな心にも影を落としてしまうのだろうか。
別れても、わたしは真琴のことを苦しめているのかな。
そう思うと宗介の言葉に返す言葉が見つからない。
「さっき、こっち帰ってきたとき腹立ったって言ったよな」
「?うん…」
「けどお前が水泳部のマネやってるって、水泳を嫌いなわけじゃねぇんだってわかったことは嬉しかった。なまえがマネやろうと思ったのは、橘がいたからだろ」
断定にも似たような口調で疑問を投げられる。
「…それだけじゃないけど」
「まぁそんな単純なもんだとは思ってないけど。それでも俺は、その点では橘には感謝してる。だから二人して暗ぇ顔されてるとこっちまで気分悪くなんだよ。さっさとヨリ戻せ」
「っな、」
そんな簡単に言わないでよ、と内心思うけれど、宗介がらしくないことを言って、その顔が妙に真剣だからつい口をつぐんだ。
前はわたしが誰と付き合ってようが関係ないって冷たく、追い返すみたいに突き放したくせに。
今は、そんな心配しているみたいな顔をするのだからずるい。
「これでも責任感じてんだよ。俺のせいだろ」
「だから、違うってば…」
別れたことを報告したときも自分のせいだと宗介は言ったけれど、いろんな原因が絡み合っていたとしても最後に決めたのは真琴と、わたし。
もう無理だ、と弱く笑った真琴の表情が今も胸を締め付けるみたいに痛い。
昔は宗介にわたしとのことを否定されるのが怖くて自分から距離を取った。
だけど今は、拒絶された真琴にこれ以上悲しげな瞳を向けられることが怖い。
傷付くくらいなら追い縋るようなことはしたくなかった。
弱い自分がようやく一人で歩いて行く道を見つけたのだから、いまは、この一本道の出口が明るいことを願うしかないんだ。
(2017.12.11.)