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日が落ちるのが早くなってきて、ふと図書室の窓から外を覗くと夕陽がオレンジに色を変えようとしていた。
暗くなる前に帰ろうと荷物を纏めて学校を出る。
真琴と話した後も残って勉強をしていたけれど、コピーした過去問をぼんやりと眺めていたら結構な時間が経ってしまっていた。

真琴の姿がないとホッとしたり、誰かと笑っているところを見ると苦しくなったり、夏休み前に告げられた別れを未だに受け入れられていないみたいに頭の中がぐらぐら揺れている。
受験生なのだから、こういうことに感情を左右されているようじゃ駄目だなぁ。
話したい、話さなくちゃと思っていた進路のことを伝えられてよかったはずなのに、胸につかえていたものはなくなるどころか喉元にせりあがってきたような気さえする。

今日はもう帰ってあたたかいお風呂に入って、早く寝よう。
お風呂は心の洗濯だと言った人は誰だったっけ。
特に疲れることなんてしていないのに、なぜだか重たい身体を引きずるようにして玄関のドアをあけると、リビングから「おかえりー」というお母さんの声がしてホッと息を吐く。

「ただいまー…え、?」
「よ、おかえり」

ローファーを脱いで後ろを振り返ったら、宗介がいた。
確かに玄関にはお父さんのものよりも大きいスニーカーがきちんと揃えて置かれていた。

「えっなんでいるの」
「実家帰ってきてんだよ、三連休だから」
「あーなるほどっていやいや、ここみょうじ家」
「おばさんにばったり会って、誘われて」

この前も宗介と一緒にいるときお母さんと家の前で遭遇したんですけど、ばったり多くない?
てか会ったからってうちまで来るのなんでなの?

「なまえ、早く手洗って着替えてきて。宗介くんご飯待っててくれたんだから」
「うちで食べてくの?!」
「たまにはいいじゃない」
「別にダメとは言ってないけど…」

お母さんに急かされて部屋に通学カバンを置きに行く。
幼馴染だし、昔はよくあったことだけれど心臓に悪いから来るときは来るって言ってほしい。
ていうかせっかく実家に戻っているのに家で食べなくていいのかな?

そんなことを考えながらも手早く着替えてリビングに降りると宗介が食卓にちんまりと座っていた。
185センチもある男子高校生が一人増えると急にリビングの人口密度が上がったような気がする。

確か前にうちでご飯を食べたときはトンカツで、それはわたしは寝ていて食べられなかったんだよね。
きちんと両手を合わせて「いただきます」と言う宗介にはやっぱり違和感しかなかったけれど、お母さんが嬉しそうだからまぁいっか…。

ほのぼのとした母の雰囲気にのまれてなんだか和やかな夕食だったのだけど、わたしはこの機会に宗介に言わねばならないことがある。
学校で真琴には伝えたことを、今日の今日で宗介にも言うことになるとは思っていなかったけれど後回しにしていたツケというやつかもしれない。

「宗介、ちょっと話があるんだけど」
「おう」

お母さんにごちそうさまを伝えて、お皿を流しに持って行くのを宗介も手伝ってくれたからそのときに小声で伝えれば不思議そうな顔をされた。
改めて話がある、なんて彼に言ったのは長い付き合いの中でも初めてかもしれない。



「で、なんだよ話って」
「ド直球だね…」

部屋に招き入れて、宗介がドカッとカーペットに腰を下ろした。
そこは昔から宗介の定位置で、お気に入りのクッションを渡せばなんの躊躇いもなく受け取ってくれる。
ブランクがあったって幼馴染は幼馴染なのだなぁと、宗介や凛といると思う。
ローテーブルを挟んでわたしもちょこんと座るけれど、どう切り出そうか悩む間もなく宗介から話を振ってきた。

「えっと、花火のとき、話聞いてくれてありがとう。けっこう日が経っちゃったんだけど」
「全国大会で会ったけど話す暇なかったしな」
「うん…あのさ、宗介はもう、水泳はやらないの」

自分の膝に置いた手をぎゅっと握りしめる。

「そうだな」

簡潔に答えた宗介は夏に見たときと同じようにすっきりとした顔をしていて、憑き物が落ちたようで良かったはずなのに胸がざわざわとうるさい。

「凛はオーストラリアに行くんだよね」
「あーみたいだな。全国前に七瀬とあっち行って気持ち固めたらしい」
「そっか……」
「なまえは?どうするんだ、決めたんだろ」

どうするんだと聞いてきながらも、多分これは答えをわかっているのだろう。

「東京の大学を、受けようと思います」
「……なんでそんな親とか教師に報告みたいなテンションなんだよ」

花火大会の夜、二人で言葉少なに歩いた帰り道。
履き慣れない下駄の音が心臓に響いて、纏わりつく夏の空気で息が詰まりそうだった。

「この前…話、聞いてくれたでしょ。宗介が背中押してくれたみたいなものだからちゃんとお礼も言いたいって思ってて、なんか、緊張してるかも」

それだけじゃなくて、宗介が夢を叶えるために挑んでいた場所、怪我をして苦しい思いをたくさんした場所。
そこにわたしが行くということを、宗介はどう思うんだろう。

「話聞いてくれて、ありがとう」
「いや…改まって言われるとどう反応すればいいかわかんねぇな」
「あの時、本当に行き詰まってたというか…八方塞がりで。あのね、見てほしいものがあるの」

立ち上がって、参考書やノートが積みあがっている勉強机へと向かう。
押入れの奥から引っ張り出してきた古いバインダーは、再び仕舞いこむことはせずに勉強机のブックスタンドに収まっていた。
そっと引き抜いて、宗介に差し出す。
不思議そうに表紙を見つめる宗介がわたしの顔を見るから、頷くことで開くように促した。

パラ、と宗介の無骨な手がページをめくり、最初のページに挟み込んでいた古ぼけた新聞の小さな記事を見た宗介が、目を見張る。

「なまえ、これ…」
「懐かしいでしょ?小学生のときの大会の記事」
「よくこんなもん取っておいたな」

宗介の頬がほころんで、ふっと笑う。
短い記事に目を通して、ページをめくると、わたしと宗介と凛が三人並んで笑っている写真。
きっと、夏前の宗介にこれを見せることはできなかった。
今も酷なことをしているのかもしれない。
彼の手の中にある写真を見た宗介が懐かしむように目を細めてホッとする。

「…わたし、宗介と凛が楽しそうに泳いでるのを見るのがすごく好きだったんだと思う」
「ガキの頃はよく見に来てたもんな」
「うん。……凛がオーストラリア行っちゃってからあんまり行かなくなったの、覚えてる?」
「覚えてるも何も。大会誘っても水泳部のマネージャー勧誘しても断られまくったからな」

もう地元に戻ってきたばかりの棘のある宗介ではなくて、目尻を下げて笑いながら返事をくれる。
目線は手元のバインダーに落ちているけれど俯いた表情が穏やかだ。

「……ちゃんと見てたんだよ」
「ん?」
「凛がいなくなってからも、中学の部活の大会とか記録会とか、見に行ってて」

ページをめくる手が止まって、宗介がわたしの手書きのメモをジッと見る。
もっと驚いたり責められたりするかなと思ったのに、宗介は静かに「…そうか」とだけ呟いた。

「素直に応援できなくて、ごめんなさい」
「いや、嬉しい。すげーな、このメモ」

当時のことを思い出すと、自分のかたくなさや幼さが恥ずかしくて、まっすぐ応援できていたら何か違っていただろうかと思ってしまう。
これを宗介に見せたのは、わたしの自己満足かもしれない。

「見に来てたんだな、大会。全然知らなかった」
「こっそり行ってたから…」
「あー、他の奴らうるさかったからな」
「えっ気付いてたの?」

周りの子たちにからかわれるのが嫌で、だんだん宗介から距離を取るようになってしまったのだけれど、まさかそういうことに疎そうな宗介が気付いていたなんて。

「俺も結構言われたし。なまえはいちいち気にしすぎだって思ってた」
「そうだったんだ…」
「堂々と見に来りゃよかったのに」
「本当だよね。今更後悔してる」

笑おうと思った顔は我ながら情けなく、口角が上手に上がらなかった。

「このファイルも、実はずっと仕舞ってあって。この前久しぶりに見て、やっぱり水泳が好きだなって」

考えたこと、伝えたいと思ったことを言葉にすることはとても難しくて、宗介に真意が伝わるか不安で心臓が痛いくらいに脈を打つ。


「宗介たちと一緒に泳ぐことはできなかったけど、これからも水泳に関わることがしたいなって、思った」

決意したときはこれだ、と思ったのに言葉にするとまるで子供の夢物語みたいだ。
恐る恐る宗介の顔を盗み見ると唇を引き結んで話を聞いてくれていた。

「それで…それでね、」

次に続ける言葉を聞いたら宗介は怒るかな。
無神経なこと言うなって嫌われるかな。
それでも、

「宗介にも、水泳を諦めないでほしいって思う」

わたしの背中を押してくれたから、それもあるけれど。
水の中で力強く進んでいく宗介をもう一度見たいと思うんだよ。



(2017.11.17.)



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