20.編みかけの明日

「……おいみょうじ」
「なんでしょう瀬見先輩」
「なんでしょうはこっちのセリフな。なんでこんな近くにいんだよ。気が散るし危ねぇからもっと離れてろ」

バシンという軽い音の後に、ドシンというさっきよりも数倍力強くて重たい音がした。
少しずつギアを上げている牛島さんのスパイクが床に叩きつけられる音だ。
部活の全体練習が終わり、各々の自主練が始まった体育館の熱気は収まるどころか高まっている気がする。

牛島さんに球出しさせてください、とお願いしたら選手で人手が足りているからいらないと断られてしまった。
だからみんなのドリンクを持ってきたわけだけど、無意識にいつもより近くを歩き回ってしまっていたらしい。

「若利のスパイク、流れ球でも飛んでったらガチで怪我するぞ」

瀬見先輩はすごく面倒見が良くて、最初は白布とのことを釘刺されたように感じてちょっと苦手だったけど今では尊敬する大好きな先輩の一人。
…現在の白鳥沢バレー部の正セッターは、瀬見先輩だ。
白布がスタメンになるということは、必然的に瀬見先輩が控えに回るということ。
バレーという競技においてそれはどうしようもないこと。

「…おい、聞いてんのかみょうじ」
「聞いてます!瀬見先輩、ドリンク置いておきますね。牛島さんの分も」
「おう。ありがとな」

くしゃくしゃ、とわたしの頭を撫でた瀬見先輩が笑ってくれて、なんだか胸が痛かった。


「みょうじー」
「川西くん、お疲れ様」
「お疲れ。今日も元気に牛島さんの周りうろちょろしてんね」
「え、なんでわかったの?ていうかうろちょろって」

ススス、と近付いてきた川西くんが汗を拭いながらこそこそと耳打ちをしてきた。
川西くんとは先日の体育館裏での一件以来距離が縮まった気がする。
わたしの悩みというかお願いというか、川西くんにとってはどうでもいい話を呆れずに聞いてくれてアドバイスまでくれたのだ。

そうなのです、最近牛島さん観察、始めました。

…と言っても今日みたいに球出しのお手伝いとか、積極的にタオルやドリンクを持って行くとか、それくらいしかできないのだけど。
牛島さんは基本的にはマネージャーとほとんど関わらない。
選手とも必要なことしか話していない気がする。
だけど話しかければ普通に返してくれるし、わたしの頭が足りなくて答えの意図を汲めなかった時は瀬見先輩とか大平先輩が助け舟を出してくれる。
多分、牛島さんは少し天然。
バレー以外のことはわりとぼんやりしている。
今のところわかったことはそれくらいだ。


「もしかして俺の言ったこと真に受けた?」
「うん、相談乗ってくれてありがとう」
「はぁ…マジか…」
「え?なに?」
「いや、程々にな」

何年もバレー部のマネージャーをやってきて、どこまでが近付いていい距離なのかはわかっているつもりだ。

そう、わかっているつもり、だったのだけれど。
牛島さんのパワーは規格外なのだ。
川西くん曰く「うろちょろ」していたら、後ろから「みょうじ、!」って焦ったような牛島さんの声がして振り向く。
球速はトップスピードよりもかなり落ちていたけれど、結構な速さでボールが飛んで来て、わたしの目の前で跳ねた。

「わっ」

咄嗟に手を顔の前にかざしたら、跳ね上がったボールが右手の中指に少しだけ掠った。
テン、テン、とボールが床を転がる音がして我にかえったのと同時に、一瞬静かになった体育館の音が戻ってくる。

「みょうじ!」
「おい、大丈夫か?」
「えっ、はい、すみません」

真っ先に駆け寄って来たのは近くにいた白布で、瀬見先輩も声をかけてくれる。

やってしまった。
こんなことで練習が少しでも止まるなんてあってはならないことなのに。
牛島さんもこっちに向かって来るのが視界の端でわかって血の気が引く。

「ボール当たってただろ、手。見せて」

なんの躊躇いもなく白布がわたしの右手を取って少し強めにさすって異変がないか確認してくれる。

「爪割れてる」
「えっ、あー本当だ…」

指摘されて中指を見れば爪先が割れていて、血が滲んでいた。
さっきまでは驚きで痛みなんて全く感じなかったのだけれど、気付いてしまうと痛い。

「すみません、みょうじ保健室連れて行きます」
「えっ一人で行けるよ」
「いや、利き手じゃん。手当てできないだろ」
「先生いるし」
「職員会議って言ってなかった?」
「…言ってた」

今日は職員会議だから、と顧問の先生が言っていた。
保健医の先生も参加しているだろうし、顧問がまだ体育館に顔を出していないあたりまだ会議は終わっていないのだろう。

他のマネージャーも帰ってしまって頼める人は正直白布くらいしかいない。

「ほら、行こう」
「…はい」

さっきまで握られたままだった右手が、わたしが返事をしたらパッと離された。

「みょうじ、すまない」

牛島さんが声をかけてくれて、その表情が今まで見たことのないもので驚く。

「いえ、わたしが近くにいたから…すみません」

頭を下げて、申し訳なさと不甲斐なさで顔を上げられない。
牛島さんのバレーシューズのつま先を見つめていたら視界が滲んだ。



白布に付き添われて保健室に着くと、やっぱり扉には「外出中、校内にいます」という札がかかっていた。
電気も消えているから中には誰もいないのだろうけれど、一応コンコンとノックをして「失礼します」と言ってから扉を開ける。

「とりあえず洗ったほうが良いかも」
「だな、沁みそうだけど」

保健室内にある水道のところに行き白布が蛇口をひねって、わたしの手首を優しく掴んで流れている水のところに持っていく。
宮城の秋はすっかり冷えていて、水道の水も冷たくて反射的に手を引っ込めそうになってしまった。

「っうー冷たい…」
「もうちょっと我慢な」
「はい…」

たっぷり十秒は流水で洗っただろうか。
その間ずっと白布に手を掴まれていて、わたしの手と一緒に白布の手まで濡れている。
手近なところにタオルが見当たらなくて、箱ティッシュを何枚か抜き取って二人で無言で手を拭いた。

「あー、じゃあそこ座って」
「うん」

そこ、と言って指でしめされた丸椅子に座るとギシっと音が鳴って、消毒液のにおいでいっぱいの保健室に響いた。

簡易的な怪我であれば体育館や部室に置いてある救急箱で処置をしてしまうのだけれど、血が滲んできていて洗わなければいけなかったし、多分白布はわたしの気持ちも汲んで保健室まで連れて来てくれたのだろう。
あのまま体育館にいるのは、居たたまれない気持ちになったと思う。

「爪切るな」
「うん…でもそんなに伸びてないんだけどな…」
「この微妙な伸び具合でもひっかけると痛いんだって。まぁ割れたのは伸びてたからじゃなくて牛島さんのパワーのせいだろうけど」

パチン、と迷いなく白布が爪を切って、脱脂綿に消毒液を染み込ませる。
ピンセットで摘ままれた脱脂綿を見ながらこの後やってくるであろう痛みを想像して思わず眉をしかめた。

「…すげぇ顔になってるけど」
「……だって絶対痛いじゃん」
「まぁ嫌がってもやるけど」 

ですよね、なんてわたしが返事をする前に、ちょんちょんと思いのほか優しく白布の手が動くけれどやっぱりすごく沁みた。

「っつー……」
「なに」
「痛い、です」
「だろうな」

自業自得だし、白布だって自分の練習があるのに中断して丁寧に手当てをしてくれる。
なのに痛いなんて言ってごめんだけど、痛い。
ピンセットを置いて、脱脂綿をゴミ箱にぽいっと捨てて、ガーゼと包帯でぐるぐる巻きにされたらあっという間に右手が怪我人っぽくなってしまった。

「…なんか大げさ」
「じゃないとみょうじはめっちゃ仕事してさっきやらかしたの取り戻そうとするだろ」
「やらかした、よね。やっぱり」

白布が丁寧に巻いてくれた右手のまっ白な包帯をじっと見ていたら我慢していた涙がまた込み上げてきそうだ。

「別にみんなは気にしてないと思うけど」
「でも、牛島さんにあんな顔させちゃったし」
「なんとも言えない顔してたな」
「うん…」

大きな手のひらがわたしの頭に柔らかく乗せられて、髪の毛を梳くように撫でられる。

「大丈夫。みょうじがちゃんと仕事してんのはみんな知ってる」

顔を上げて、白布を見たらその表情が優しくて、さっきからずっと強張っていた身体から力が抜けた気がした。

「…ありがとう」
「おう」

二人で向かい合わせに座っていた丸椅子、白布の膝とわたしの膝が少しだけ触れた。
あ、なんか近いな、と。
そう思ったらすぐに白布の腕が背中に回って、手のひらが背中をぽんぽんっとまるで小さな子をあやすみたいに弱く叩かれた。

「俺も、いつもありがとう」

必然的に顔が白布の鎖骨あたりにあって、トクントクンと白布の心臓の音が聞こえた。
白布の体温が温かくて、身を委ねるみたいに肩に額を押し付けたら背中の手のひらに今度はぎゅっと力が込められた。

「…わたしもぎゅってしていい?」
「…うん」

みんなに心配かけたのにこんなことしてる場合じゃないのかもしれないけれど、だけどちょっとだけ。
二人の体温が溶け合うみたいでひどく心地良くて身体がほどけていく。
引っ込みかけていた涙がまた込み上げてきそうだ。

「俺、今度の練習試合スタメンで出られるかもしれない」
「えっ」
「春高も、絶対出るから」

秋の大会で春高出場を決めた我が白鳥沢バレー部は、チーム力のアップ、個人のスキルアップはもちろんだったけれど如何にエースの力を引き出すか、際立たせるか、ということに注力をしていた。
今いるメンバーでの最善を見極めて無駄のない強化をするというのは、何も新しいことを試さないことではない。
今まで試合に出る機会が少なかった部員にだってチャンスは巡ってくるのだ。

白布にとっては、それが今。


「頑張ろうね」

おめでとうって言葉はまだ早くて、頑張ってじゃあまりに他人事。
自然に唇からこぼれたのは、おこがましいかもしれないけれど一緒に戦うという、いつだって胸にある思いだった。

もう一度ぎゅうっと白布に強く抱き締められて、苦しくて心臓がドキドキと痛いくらいに早まる。

「手、いつもと逆だな」
「逆?」
「いつも俺がテーピングしてもらってるから」
「あぁ、確かに。白布普通に上手だよね、自分でも巻けるんじゃない?」
「そりゃそれなりには。みょうじにやってほしいのは俺の下心だから」
「ふーん、ん?下心…?」

意味を理解してぶわっと顔に熱が集まった。

「だから練習試合のときもよろしく」

ぽんっとまた頭に手を乗せられて、普段滅多にお目にかかれない笑顔を見せられたらこくこくと頷くしかできないよ。

その後、白布は練習に戻ってわたしは半強制的に帰宅を言い渡された。

右手がじんじん痛いし迷惑をかけたことは反省しているけれど、身体が少し地面から浮いているみたいな感覚。
一人で歩く帰り道はすっかり涼しくなっていて、ほてった頬に気持ちいい。
どこからか香る金木犀の香りに秋を感じて、早く冬になって、オレンジコートでボールを操る白布が見たいなと思った。



(2017.10.16.)



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