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「え、凛オーストラリア行っちゃったの?」
「そうなの、元々そのつもりだったらしいんだけど…遙先輩も一緒に行ったみたい」
「えぇ?!」


何がどうしてそうなった。



花火大会の翌日、江ちゃんの家に置いてきてしまった私服を取りに行ったら「お兄ちゃん、遙先輩とオーストラリアに行っちゃったの」なんて言うものだから耳を疑った。
オーストラリアって…そんな気軽に海外に行ってしまうなんて帰国子女は違う。

「ハルが悩んでるみたいだったから連れて行ったのかなぁ…」
「うん、きっと。遙先輩の泳ぎが一番好きなのはお兄ちゃんだから」

ハルと泳ぐために転校して、今度はオーストラリア。
数日で帰ってくるとは言え凛の行動力には驚かされる。
凛も宗介も、なんだかんだ人のことを放っておけないのだろう。

「いつ帰ってくるの?」
「全国大会の前日には会場入りだからそれまでにはって言ってたよ」
「曖昧だなぁ」
「本当にね」

オーストラリアで何をするつもりなのか、凛の考えまではわからないけれど、この旅が二人にとって意味のあるものになることを願うばかりだ。

「なまえちゃんは、昨日宗介くんと話して何かあった?」
「え?」
「顔色いいなぁと思って」

気分転換になったならよかった、と江ちゃんが笑った。

…確かに、昨日の夜は最近のわたしにしてはスッと眠りに入れたし夢も見ずにぐっすり眠れた。
食欲はそんなにすぐには戻らないけれど、食べたくないなって程ではない気がする。
目標が定まったら後はもう努力するだけだ。

「志望校がやっと決まりまして…そのせいかな」
「えっそうなの?」
「うん…東京の大学に行こうかなって」

そう言って昨日と同じように江ちゃんが出してくれた麦茶を飲む。
江ちゃんが大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた後、「そっか…寂しいな」と静かに言った。

「受かるかどうかはまた別だから、東京行きが決まったわけじゃないんだけどね」
「こっちに残る場合もあるの?」
「そうだね。東京に行きたいって言うよりも、行きたい学部がある大学が東京にあるから…って感じだからなぁ。もし落ちちゃったら地元に残るつもり」

松岡家を出る時、江ちゃんが「なまえちゃんと気軽に会えるのもあと数か月かぁ」とわたしが合格することを前提に話してくれた。




それから数日、副部長であるハルが不在ではあったけれど部活はあった。
大会前だから調整期間に入っていて、みんな流す程度に泳ぎ、リレーでの引継ぎを中心に身体を疲れさせないような練習を組んでいた。

ハルが凛に連れられてオーストラリアに行ったというのは、みんなは真琴から聞いたらしい。
凛が真琴と電話をしたと言っていたから、その時に話したのかな。
ハルがいなくても淡々とメニューはこなし、でもみんな努めて明るく振舞っていて、全国大会に向けての調整は上々だ。



「それじゃあ今日の練習は終わり、いよいよ明日は出発だね」

そしてあっという間に岩鳶プールでの練習最終日。
真琴がいつものように練習を締める言葉を言う姿を目に焼き付けなければと思う一方で、うっかり涙腺が緩んでしまいそうにもなるから感情が忙しい。

このプールで泳ぐことがもうないわけではないだろうけれど、それでも、今日と同じような心持ちでこのプールに来ることはもうないだろう。

「荷物の準備して、忘れ物ないようにね。今日はみんな早く寝るように」
「はーい」
「はい!」

渚くんと怜くんがいつものように返事をして、選手陣は更衣室に引き上げた。
その間にプールサイドの片付けをして、いつもならわたしも制服に着替えるために校舎に戻るのだけれど今日はジャージのままでみんなが出てくるのを待つ。

「なまえちゃん着替えに行かないの?」
「うん、あまちゃんに進路の話しに行きたいからついでに鍵もわたしが返そうかなって。江ちゃんは先に帰ってていいよ」
「そっか!じゃあまた明日ね」
「うん、明日ね」

江ちゃんの揺れる赤髪を見送って、ひとりでプールを眺める。


最初はこのプールは使える状態ではなくて。
自分たちだけで整備しなさいって言われて草むしりをしたり補強をしたりしたっけ。
人数が足りないからって陸上部でカナヅチだった怜くんを勧誘して、部が形になってからもいろんなことがあった。

ハル、真琴、渚くん、怜くん。
この四人でメドレーリレーを、全国大会で泳ぐんだ。
誰よりも長い夏を、過ごしているんだ。
それを近くで応援できることは幸せなことだなぁと、まだ西陽が指すプールに瞳を細めた。



なんて、まだ回想をするには早いのに涙腺が緩みそうになっていたら更衣室の扉が開く音が背後からした。

「あれ、なまえちゃん着替えないの?」

ドタバタ、と効果音がつきそうな足取りで渚くんが出てくる。
続いて怜ちゃんと真琴がひょこっと顔を出してそれぞれ意外そうな顔。

「うん、あまちゃんに話があって職員室行くからついでにわたしが鍵返しちゃおうと思って待ってた」
「えーいいの?」
「渚くん、もう少し遠慮ってものを覚えたほうがいいですよ」
「あはは、いいのいいの。鍵預かるね」
「ありがとうございます」

怜くんが申し訳なさそうに眉毛を下げた。
鍵を閉めたのは、最後に更衣室から出てきた真琴だった。
真琴に向き直って鍵をもらおうと思うけれど、やっぱり面と向かって話をするのはまだ少し身構えてしまって、「鍵、もらうよ」としか言えない。

(…きっと、少し前の真琴だったら「俺も一緒に行くよ」って言ってくれたんだろうな)

そんなことを思いながら、大きな手から差し出された鍵を受け取る。

「ありがとう。帰り、遅くならないようにね」
「うん、大丈夫」

心配してくれてありがとう、という言葉は飲み込む。

うまく話せなくて、こんな気持ちを真琴に抱くようになるなんて思っていなかった。
たとえ沈黙だって、真琴と一緒にいる時間は心地良いものだったのに。

「じゃあ、また明日ね。みんなも早く帰ってゆっくり休んで」

三人に手を振って、プールを後にした。
次にここに来るのはいつだろうか。
そのとき、わたしはちゃんと心から笑えるかな。





コンコン、

制服に着替えて職員室の扉をノックする。

「失礼します」と言いながら扉を開ければすぐにあまちゃんがこちらを向いて笑顔を向けてくれた。

先生はいっつも朗らかに笑っていて、まるで凪みたいな人だと思う。
わたしもこういう風になれたらいいのに。
なんて、あまちゃんだってわたしたち生徒には見せない悩みなんかがあるのかな。

「天方先生、鍵お返しに来ました」
「あら、みょうじさんが来てくれるの珍しいわね」

普段はあまちゃんと呼んでいるけれど、他の先生がいる手前「天方先生」と呼ぶとなんだかむずがゆいような気がしたし、この後あまちゃんに話す内容を思うと自然と少し背筋が伸びる。

「先生にお話があって、」

わたしの表情が硬いことに気付いてくれたようで、「よかったら国語科の部屋に行く?そっちなら他の先生もういないの」と提案してくれたからお言葉に甘えて職員室のすぐ隣にある国語科専用の小さい教室に移動した。

あまちゃんに促されてキャスター付きの丸椅子に座る。
キィと音がするけれど、所狭しに積まれたたくさんの教材や年季の入った本たちに全部吸収されるように、ここはひどく静かで落ち着く。

「それで、話って言うのは?」
「はい。進路のことで」

自分の膝の上に置いていた手をぎゅっと握る。
告げた大学名と学部を聞いたあまちゃんは、やっぱりいつもみたいに穏やかに笑っている。

「そう。みょうじさんにはピッタリだと思うわ」

その一言が、胸にストンと落ちて、油断すると涙腺が緩みそうだった。
一人で抱えていたようでいて、周りには自分のことをよくわかってくれている人たちがいるのだと今更ながらに思う。

「志望校が決まれば受験科目も絞れるし、みょうじさんの成績ならまだ安全圏とは言えなくても頑張れば手が届くはず。頑張りましょうね」

目の前のことをひとつひとつ解決して、乗り越えていこう。
どんなに今がしんどくても未来が不安でも、時間は止まってくれないのだから。





「なまえちゃん、あまちゃんに話ってなんだろうね」
「さぁ…部活のことってわけではないでしょうし、進路のこととか」
「あー三年生だもんねぇ。まこちゃん何か聞いてるの?」
「ちょっと渚くん」
「いや、聞いてないよ」
「っていうか、なまえちゃんはまこちゃんの進路のこと知ってるの?」
「うーん、まだ言ってない。俺から言うから、渚と怜は言わないでおいてくれるかな」
「わかりました」
「あーあ、まこちゃんが東京行っちゃうなんて寂しいなぁ」


(2017.08.27.)



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