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「さっきの話だけど」
花火大会の帰り道、街灯の少ない道を歩きながら二人で重たい空気を背負っていたら宗介が口を開いた。
重々しく話し出すものだから思わず身構えてしまったけれど、続けて発せられたのは予想していたものとは違うもの。
「お前やりたいこととかねぇの?」
てっきり真琴とのことを言われるのかと思ったのに、宗介が言わんとしているのは進路のことだった。
「やりたいこと…」
「好きなこととか、勉強したいこととか」
「…ないわけではないけど。決めかねているというか」
「なに?」
サラッと流してしまえばよかったのかもしれないけれど間髪を入れずに聞かれて返事に困ってしまう。
宗介こそどうなの?なんてことは言えずに、隣を見上げたらまっすぐにわたしのほうを見ていて、陰りのなくなった真っすぐな目線が痛くて隠したり誤魔化したり、そんなことはできないと思った。
「……水泳は、好きだなって思ってるよ」
こんなことを自分が言うようになるなんて。
宗介が驚いたようにゆっくりと瞬きをした。
「昔は正直言うとあんまり好きじゃなかったんだけど…」
小さい頃に凛と宗介にくっついてスイミングスクールに通うようになった。
二人よりも遅く入ったから、なんてことが理由にならないくらい宗介たちとの差はあっという間に開いてしまって、二人はめきめき頭角をあらわして行った。
スイミングスクールは生徒のレベル毎にコースが分かれていたのだけれど、凛と宗介は上級者コース、わたしはいつまで経っても初心者コース。
水に顔をつけるのが怖いとかでは全くなかったし優しいコーチと楽しく練習していたのに一向に泳げるようにはならなくて、宗介と凛にも教えてもらったけれど上手に浮くことができなかった。
けれど水泳が好きじゃなかったのは自分が泳げないから、というわけではなくて。
楽しそうに競って泳ぐ二人を見ているのは昔から好きだった。
近くで応援できることが嬉しかった。
なのに、水泳はわたしから凛と宗介を遠ざけたのだ。
凛はオーストラリアに、宗介は東京に。
わたしはこの町で、独りになった。
「だけど高校入って、マネージャーやるようになってからちょっと変わった、かも」
「…そうか」
「人のために何かする、なんて言うと大げさなんだけど。記録取ったり練習の準備したり、そういうの好きだなぁって」
岩鳶に入って真琴に声をかけられて、渚くんが水泳部を作ろうと言い出したときは驚きと、隠していた古傷がジクジク痛むみたいな感覚がした。
家から少し遠い岩鳶高校を選んだ理由は、昔真琴に聞かれたときに「制服がかわいかったから」なんて言ったけれどそんなの嘘で。
本当は宗介が絶対に進学しないという自信があったから。
水泳部がなかったから、だ。
そんなこと知り合って間もない真琴に言えるわけがなかった。
それでも水泳部のマネージャーになってと頼まれて断り切れなかったのは、心のどこかで心残りがあったからだと思う。
関わらないことで宗介への気持ちを絶ったつもりになっていたけれど、凛や宗介との関係がなかったことになるわけではないのだ。
小さなこの町で過ごした十数年間はどんなに目を背けてもわたしの中では大切で消えないものだった。
そのことに気付けたのは最近のことで、考えるキッカケをくれたのは進路を決めるためというのもあるけれど、宗介がこっちに戻ってきて、真琴との距離が出来たから、だと思う。
宗介にこんな話をする日がくるなんて思わなかった。
中学校に上がってすぐに宗介から水泳部のマネージャーをやらないかと誘われて、かたくなに断っていた過去があるから、高校で水泳部に入ったことを話すときも怯えながらだった。
岩鳶SCの廊下で詰め寄られたことがすごく前のことに感じる。
「それなら、水泳に関わること、やったらどうだ?」
「…わたし泳げないよ」
「知ってる。泳げなんて言ってないだろ」
そうだろうけど。
わたしは江ちゃんと違って筋肉に詳しいわけでも、メニューを組めるわけでもない。
「わたしに、できることなんてあるのかな」
水泳がどうとか、大学がどうとか、一点だけを指して零れた言葉ではなかった。
人のために何かするのが好きかもだなんてさっき宗介に言ったくせに、なんの取り柄もないわたしに、何かできることがあるのだろうか。
明るくない未来への道のりに、また足元がすくむような感覚がして、履き慣れない下駄が鳴らすカランコロンという音が遠く感じる。
話をしながらも足は止めずに、ゆっくりと真っ直ぐ伸びた道を進む。
まるで時間は止まらないと言われているかのようだった。
重たくなってしまった空気をどうにかしなければと宗介の方へ向き直ったのと同時に、頭のてっぺんに宗介の手がぽすっと乗せられた。
ぽんぽん、とぎこちなく手のひらが動くのがわかる。
「え、」
「……また泣くのかと思ったから」
「…泣いてない」
「なまえはそればっかりだな」
そんなことないよ、と言った声は我ながら消え入りそうだった。
やりたいことがないわけではない。
だけど、自信がない。
あぁ嫌だな、こんな自分が。
なんて考えた一瞬後、瞳に膜を張っていた涙がぽろっとあふれた。
「い、いひゃいんですけど…宗介さん…?」
視線を彷徨わせているわたしの頬を宗介が思いっきりつまんだのだ。
堪えていたものが崩れて、痛みもあってぽろぽろと両目から涙が零れた。
「ほら、泣いた」
「これは宗介のせいだよ…いじめっこか」
けっこうな強さでつねられて真面目に痛くて、頬にあてられた宗介の手を掴んでひっぺがした。
両手で宗介の左手を剥がしたら、逆にわたしの手を宗介に包むように捕まえれる。
大きくなった手のひらは、知らない人のものみたいに感じた。
また驚いて宗介を見上げれば、ひどく真剣な表情でこちらを見ているから何も言えない。
「……誰だって、多分そうだ。やりたいことを自分が実際にできるのかなんて、わからない」
宗介は言葉数が多い人じゃない。
いつも必要な言葉を、必要な時に、ストレートに伝えてくれる人。
だけど今は、ひとつひとつ言葉を選びながら話している。
「できるかどうかじゃなくて、やってみろよ。決めかねてるってことは考えてるもんがあるんだろ」
ぎゅっと、掴まれた手に力が込められる。
「なまえには後悔しないでほしい」
「…っ」
「自分のこと信じてやれるのは自分だけだ」
まるで自分に言い聞かせるみたいに宗介が痛々しく微笑む。
らしくない表情に、わたしまで痛くて返す言葉を必死に探すけれど何を言っても違う気がした。
水泳を辞めると決めた宗介が、わたしにこんな言葉をかけてくれるなんて、彼がここまで辿り着くのにどれだけの苦悩があったのだろう。
全部を理解することはきっとできない。
だけど、わかりたいって思うよ。
「やりたいことがあるんなら苦しいくらい向き合ってもがいて、手に入れろよ」
いつだったか、ずっと水の中にいるみたいに、息が苦しいと思っている時期があった。
空気のようにいつも一緒にいた幼馴染が遠い場所へ行ってしまって、ひとりは心細くて下ばかり向いていてうまく呼吸ができない、そんな感覚。
水の中では生きていけないけれど、うまく息継ぎをする方法なら見つけられるだろうか。
わたしにもできること、あるのかな。
ひとりでも歩いて行けるかな。
漠然と足元の見えない道をやみくもに進むのは怖かった。
だけど、光に向かって進むしかない。
「宗介、」
「ん?」
弱々しく読んだ名前に優しい声が返ってくる。
宗介にこんな事を聞くのは残酷だろうか。
「東京ってどんなところだった?」
(2017.07.18.)