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別れて数日が経って、真琴は部活の時はごくごく普通にわたしに話しかけてくれる。
そう、部活の時、は。
朝は時間をズラしているから教室に着くまで会うことはないし、同じ教室内にいても話そうと思わなければ一日顔を見ずに放課後を迎えることは難しくなかった。
友達の「今日橘くんと話してなくない?」という疑問に曖昧に笑い返す。
別れたんだ、の一言が言えないのはまだわたしがその事実を受け入れられていないからだろうか。
言葉にしたら、また泣いてしまいそうだった。
地方大会が終わって期末テストも終わったら、すぐに夏休みになる。
普通であれば長期休みは嬉しいものだし、クラスメイトとは顔を合わせないけれどわたしと真琴はそうはいかない。
毎日のように部活はあるし、しかも少人数の我が水泳部では話しにくいなんて言っている場合ではないのだ。
頭ではそうわかっている。
だけど。
「友達でいて」と真琴は言ったけれど、そんなにすぐ切り替えられるものでもない。
今まで真琴とどう接していたっけ。
部活の時間になってもどんな顔をして話せばいいのかわからなくて、わたしからは話しかけられずにいた。
「なまえ、タイムお願いしてもいい?」
「っ、うん」
「なまえちゃんよろしくー!」
「はーい」
いつも通りと意識すればするほどわからなくなって、少しの違和感に渚くんたちが気付いていないわけないのにみんなも変わらず接してくれることがありがたい。
地方大会が終わり全国大会出場が決まって、岩鳶水泳部の雰囲気は悪くはなかった。
リレーのタイムが伸び悩んでいることと、わたしと真琴の関係以外は。
「なまえちゃん、どう思う?」
江ちゃんがリレーのタイムと個人のタイムをグラフ化した紙をずいっとわたしに突き出しながら言う。
「うーん…個人のタイムは良くなってるのにね」
「そうなの!モチベーションだって高まってるはずなのになぁ。みんなになんて言おう…」
「事実は事実として伝えて、あとはコーチにも相談だね」
みんなにタイムのことを伝えたら、反応はそれぞれだったけれどきっとみんな心配しているのはハルのことで、思い出すのは地方大会のフリーでプールに足を付いてしまった姿だ。
凛と言い争いになったらしいけれど、メドレーリレーではいつも通りのハルの泳ぎだったから忘れかけていた。
ハルがブレたら、きっとみんなも揺らぐ。
それくらいハルの泳ぎは自由でまっすぐで、みんなの支えだ。
こういうときは真琴に任せるのが一番かな…と頼りの人物の顔をちらっと見上げたら、真琴はハルのことを気遣わし気な顔で見つめていて、声をかける様子はない。
普段なら、明るい声でみんなを励ますのに。
…おかしいな、と思っていたらわたしの視線に気付いた真琴がこっちを見た。
(目、慌てて逸らしちゃった…いくらなんでも不自然だったかも)
色素の薄い柔らかい瞳をまっすぐに見ることは、今はまだできそうにない。
「じゃあ、わたし先に行くね。江ちゃんまた明日」
「うん、また明日ね!」
短いミーティングを終えて、みんなが着替え終わるのを待たずにプールを後にする。
今日は進路指導室に置いてある資料を見せてもらう約束をあまちゃんとしているのだ。
江ちゃんにその話をしたら「受験生かぁ…」と寂しそうな顔をされた。
コンコン、
ノックをして指導室の扉を開ける。
急いで来たからか、あまちゃんはまだ来ていなかったけれど鍵はかかっていなかった。
先に開けておいてくれたのだろうか。
教室の棚にぎっしり詰まっている大学の入学案内や、分厚い過去問題集を見回して、漠然とした不安に駆られる。
進路をどうするか、というのは三年生になってから何度も話題に上がっていて、不確定なりに進路調査票だって提出しているし、友達と「どうする?」「まだわかんないね」って言い合って、まだずっと先のことのような気がしていたけれど毎日は確実に過ぎていって、選択の日は近付いている。
(…未来が見えない、なんて)
ハルが将来のことを悩むみたいに、きっと誰だって自分の未来は不安だ。
ただ彼は水泳の才能があるから、人を惹きつけるから、周りが期待をしてしまってそれが疎ましく感じているんだろうな。
わたしは、どうしたいんだろう。
昔から感じていた、水泳がなくなったら幼馴染である凛や宗介と離れてしまうという気持ち、
それが今、真琴や水泳部のみんなに対しても同じように湧いている。
だからって今更水泳をやろうなんて思っているわけではもちろんないけれど明確な指針のないまま、ただ勉強だけはしておかなくちゃと机に向かう日々。
ネガティブなことばかり頭の中をぐるぐる回って、膨大な資料を前にただ立ち尽くしてしまう。
あまちゃんが来るまでのそう長くはない時間を、暮れていく西日に照らされながらぼんやりとやり過ごす。
「みょうじさん、待たせてごめんなさいね」
ガラ、と扉が開く音がして反射的にそちらを向けばあまちゃんと、その後ろに今はあまり会いたくない人が立っていた。
「橘くんも資料見たいって言うから連れて来ちゃった」
「あ…そうですか」
真琴は特に驚いた様子もないからわたしがいることを知っていたのだろうか。
「どこか気になる大学はあった?」
「え、っと。すみません、わたしも来たばっかりでまだ…」
なんて嘘だけれど。
「そう。あと三十分で最終下校時刻だから…十五分後にまた来るわね」
「えっ先生どこ行くんですか?」
「どこって職員室よ」
そりゃそうだ、と自分で心の中でツッコミを入れてしまう。
だけど今の状況で真琴とここで二人きりにされるのは勘弁してほしい。
真琴だって嫌だろうし、と思ったのに。
「また来てもらうのは悪いんで、俺たちが職員室行きます」
「あら、いいの?じゃあお願いしちゃおうかしら」
真琴がそんなことを言うものだから(いや、今までだったらわたしだってその意見には賛成なんだけど)あまちゃんはいつもみたいにふわふわな笑顔を残して職員室に戻って行ってしまった。
…別れてから二人になるのは初めてだ。
何か言ったほうがいいのかな、と思うけれどこんな状況で何を?
お互いの進路の話は今までぼんやりとしたことはあったけれど、実際にどうするのかは知らないし、まだ心の整理が付いていないのに正直それどころではない。
わたしが身動きを取れずに、むしろ呼吸をするのにも精一杯だなんて情けないことを考えていたら、真琴はオープンキャンパスの資料がまとめられているファイルを手に取った。
真琴から塩素のにおいがする。
帰ったらまたすぐにシャワーを浴びて、家族で食卓を囲んで蘭ちゃんや蓮くんと遊ぶのかな。
こんなこと考えているって知ったら別れたのに鬱陶しいと思われるだろうか。
…少なくともわたしは自分で自分がうざったくて仕方ない。
うじうじ悩んで、落ち込んで、それでいて何もできなくて大切な人を傷付けて、遠ざけられて、わたしは気まずいって思うけれど、真琴はきっとそれ以上に嫌な気持ちでここにいるのかもしれない。
一緒にいることに限界を感じて、別れを告げられたのだから。
塩素のにおいに混じる真琴の香りが大好きだったな、なんてもう伝えることはないであろうことを思うとまた鼻の奥がツンとした。
「わたし、帰るね」
「えっ?資料いいの見つかったの?」
「ううん。今日はもういいや、真琴はゆっくり見て行って」
って言ってもあんまり時間ないか。
顔を見ずに少し早口で言えば真琴がまた何か言おうとしたのが空気でわかったけれど、気付かないフリをして進路指導室を出た。
最後まで真琴の目は見られなかった。
カバンの持ち手をぎゅっと握って、唇を噛みしめて早歩きで廊下を急いだ。
そうしないと泣いてしまいそうだった。
好きだった、のになぁ。
伝わらなければ意味のないことを言葉にせずに胸に落としたらやっぱり痛くて、相変わらず降り注ぐ夕暮れの日差しが目に染みた。
(2017.03.29.)