▼ 5.Fall in love with Love
ヴィクトルに手を引かれて、勇利くんと入ったお店はカツ丼屋さんだった。
「なまえちゃん、おしゃれなお店じゃなくてごめんね」
勇利くんが申し訳なさそうに謝ってくれるけれど、行く当てもないのにわたしをグイグイ引っ張るヴィクトルを宥めてくれたのだからむしろありがたかった。
「全然!わたし本場のカツ丼って食べてみたかったんです」
「カツ丼に本場も何もないと思うけど…」
「なまえはカツ丼、知ってるの?」
「うん。すごくおいしいんだってユーリがよく話してたか、ら」
ユーリ、と今まで何回口に出してきたかわからない幼馴染の名前を出したら、なんだか胸に違和感を感じた。
「なまえちゃん?」
「あ……えっとカツ丼、勇利くんは試合に勝たないと食べられないですよね?今日は思う存分食べられますね!」
「そんなことまで知ってるの?なんか恥ずかしいなぁ」
少し頬を赤くしながら照れたように話す勇利くんを見て、この人は本当にわたしより八歳も年上なの?と思う。
だけどリンクの上ではしっかりリードしてくれたし、衣装を着てスケート靴を履いたらスイッチが入るのかな。
三人分のカツ丼を頼んで、今回のNHK杯のことや昨シーズンのニッポンでの生活について話をした。
「ユリオが長谷津にいる間、なまえ寂しかったんじゃない?」
「わたしはわたしで練習があったから…」
「ユリオも練習が終わった後はよくボケーっと携帯眺めてたよね。なまえちゃんのSNS見てたよ」
…なんだかさっきからユーリの話ばっかり。
「ロシアにいるときも携帯よく見てるけど…ニッポンから帰ってきたばっかりのときはさっきの、優子さんって人と連絡取ってたみたい」
むすっと、自分でしてしまったのがわかって少し俯いた。
こういう子供みたいなところが我ながら嫌い。
正面に座るヴィクトルと、その隣に座っている勇利くんが顔を見合わせていて、恥ずかしさが増した。
「なまえはかわいいね」
「っな、に急に」
「だってかわいいんだもん、ねぇ勇利?」
「僕に振らないでよ…」
憧れのヴィクトルにかわいいね、と言われたんだから本当は喜ぶところのはずなのに、子供扱いされたみたいで羞恥心しかない。
カーッと顔が赤くなるのがわかって両手で頬を抑えた。
冷え性だから、自分の手の冷たさが心地良い。
変な空気になっていたところにタイミングよくお店のお姉さんがカツ丼を持ってきてくれた。
勇利くんが「ありがとうございます」と日本語でお姉さんに言っているのがかろうじて聞き取れる。
「おいしそう!写真撮ってもいい?」
「もちろん!あ、お姉さんに三人で写真撮ってもらおうよ、勇利頼んでもらえる?」
ヴィクトルの発案で、勇利くんが店員のお姉さんを呼んでくれた。
なぜかわたしの隣の席にヴィクトルが移動してきて、お姉さんが「チーズ!」とシャッターを押す直前に肩を組んでグッと引き寄せられた。
突然のことに驚いたけれど、昔から人との距離が近い人だし…ってあれ、さっきからわたし、変なの。
大好きなヴィクトルにご飯に誘ってもらえて(二人きりじゃないけれど)、かわいいねなんて褒められて、一緒に写真を撮れたうえに彼の手が肩に触れているのに。
どうしてこんなに冷静なんだろう?
出来立てほかほかのカツ丼、お箸はあんまり上手に使えなくてスプーンで食べたんだけど、とろとろの卵とカツの衣とご飯がよく絡んですごく、すごくおいしかった。
勇利くんが幸せそうに頬張る姿を見て、ユーリにも食べさせてあげたいなぁと思った。
「なまえちゃん、おいしかった?」
「うん!とっても。自分でレシピを見て作ったことはあったんだけど、本物は初めて食べたから感動しました」
「そっかぁ、ならよかった。ヴィクトルが無理矢理連れて来たみたいなものだから安心したよ」
「えぇ、勇利ひどいなぁ?なまえが泣きそうな顔してたから一緒に逃げてあげたのに」
「ちょっと、ヴィクトル…」
「だって勇利もそう思ったでしょ?何かあったならお兄さんたちに話してごらん」
泣きそうな顔なんて……してたのかな。
「…たしかに、ちょっと寂しいなぁとは思ったけど」
「うん」
「……優子さんと話すユーリ見て、いい加減ユーリ離れしなきゃなぁって」
「それだけ?」
「どういう意味?」
「なまえはユリオを優子に取られたと思ったんでしょ、それって本当に家族愛?」
「だって、わたし好きな人いる、し」
「ふぅん。好きな人って誰?」
「い、言えない」
「誰かは言わなくていいから。どんな人?」
「えぇ……」
目の前にいるあなたです、なんて、そんなこと言えるはずもなくてヴィクトルの隣にいる勇利くんに視線で助けを求めるものの苦笑いで流されてしまう。
勇利くんは口を挟むつもりはないみたいだ。
困ったな、いつもならヴィクトルのストッパーをしてくれるユーリが今はいない。
「えっと…すごくかっこよくて、話せたら嬉しくなる…憧れの人かなぁ」
「ふぅん。じゃあなまえはユリオのこと、どんな風に思ってるの?家族って言葉は使わないで言ってみて」
まるでひとつずつ紐解くみたいに、難解なパズルのピースを当てはめていくみたいに、ヴィクトルの質問に答えていく。
ヴィクトルはいつもみたいに口角を上げて、目を細めて笑っているのに少し怖い。
こんな風に誰かに自分の気持ちを話すのは苦手だ。
「ユーリは…」
狭いフィギュアスケートの世界、性別は違ったけれど小さい頃からずっと一緒にいた。
ノービス時代から突出した才能のあったユーリは元々の性格のせいもあって少し浮いていて、わたしはわたしで同世代で仲の良い女の子がいなかった。
「一緒にいるとすごく安心して、隣にいてくれたらぐっすり眠れて、」
あっこれ言っちゃいけないのかな?
ぐっすり眠れると言ったら勇利くんが「え?!」と驚いたように声をあげて、ヴィクトルはやっぱり微笑んでいる。
「たまにケンカもするんだけど…ユーリがニッポンにいるときなんて全然連絡くれなくてロシアに帰ってきてからちょっと口利かなかったりしたんだよね」
「そうなんだ…」
「うん。なのに帰国してからは携帯ばっかり見てて、なんでかなって…思ったらニッポンにガールフレンドができたみたいで」
改めてひとつひとつ話し始めたら悲しくなってきた。
あ、やばい、ちょっと泣きそうかも。
「なまえちゃん…さっきも言ったけど、勘違いしてるよ」
「そうだねぇ、ガールフレンドってまさか優子のこと?彼女、既婚者だよ」
「え?あんなに若いのに?」
「うん、子供もいるしね」
そう言って優子さんと三人の女の子、それとユーリが一緒に写っている写真を見せてくれた。
「なまえが気にしているのが優子のことなら、不要な心配だね」
「心配っていうか…」
「嫉妬?こんなにかわいい子にヤキモチ妬いてもらえるなんて羨ましいなぁ、ユリオ」
疑問形なのに、確信しているような言い方に驚いた。
ヤキモチ?
わたしがユーリに対して?
幼馴染離れできないにも程がある。
わたしが何も言えないでいたら、ヴィクトルは諭すよう目線でこっちを見ていた。
「ねぇなまえ。なまえは愛について考えたことはある?」
「そんなの、ないよ」
「恋愛っていうのは綺麗な感情だけじゃないんだよ。自分のものにしたい、自分を見てほしい、手の届くところにいてほしい…なまえにはまだ難しいかな?」
「……」
「ユリオにガールフレンドなんてできないと思うよ」
ヴィクトルが食後のお茶を一口飲みながらゆったりとした口調で話す。
「なまえにボーイフレンドができないのと同じ理由で、だよ。意味わかる?」
そう言いながら首を傾けて、ニコリと綺麗にヴィクトルが笑ったのと同時に。
携帯の着信音が鳴って、会話が途切れた。
「あれ、オレの携帯だ。ちょっとごめんね。もしもーし?」
画面に表示された名前は見えなかったので電話の相手は誰かわからなかったけれど、至極楽しそうに話している様子からきっと親しい人なんだろう。
張り詰めたような空気が一気に弛緩して、思わず息を吐いた。
「あはは、なに怒ってるの?はいはい、言われなくてもそろそろ帰るよ。電話代わる?」
チラッと、ヴィクトルがわたしを見る。
首を傾げたら楽しそうに目を細めるだけで、「そう?じゃあ切るね」と言って切ってしまった。
「ヴィクトル?電話、誰だったの?」
「んー過保護な王子様?」
「…なにそれ」
「そろそろ帰ろうかぁ。なまえも頭がパンクしそうだし」
また子供扱いされた、と無意識に眉間にシワが寄ったみたいで、ヴィクトルに笑われた。
「かわいい顔が台無しだよ」
昔は、ヴィクトルとこんな風に話せなかった。
ロシアにいた頃とニッポンに滞在した後で、彼の纏う空気が変わったことも原因かもしれないけれど、それだけじゃないのかもしれない。
世界中が恋をする皇帝。
わたしもその一人、だったはずなのにな。
「ヴィクトルって案外お節介だね」
「そう?まぁ昔から二人のこと見てきたからねぇ、拗れそうなら少しくらい軌道修正してあげたいなって。そういう勇利はなんで付いてきたの?」
「なまえちゃんとヴィクトル二人だと不安だからだよ!土地勘ないのに走り出すんだもん」
「アハハ、ありがとう」
(2017.02.02.)