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どうして昨日宗介のことを止めなかったのだろう。
メドレーリレーの選手たちがプールサイドに入場してきて、真っ先に目に入った不自然な赤紫色は、宗介の肩の怪我が現在進行形で良くないものなのだと示していた。
声にならなかった悲鳴は喉の奥につかえたように苦しくて、思わず口を手で覆う。
もう昔のようには泳げないと言われて、それを「ある程度は泳げる」と勝手に解釈した。
だけど、あんなの、本来ならば泳いでいいはずがない怪我だ。
応援席の手すりを掴む手に力を入れても、奥歯を噛み締めても、なんの意味もない。
どうして昨日、もっと強く宗介を止めなかったのだろう。
宗介と一緒に入場してきた凛や愛ちゃん、御子柴くんはやけにスッキリした顔をしていて。
昨日宗介は「凛には言うな」と言っていたのにあの様子だと凛は全部聞いたんだろう。
それなのに凛は宗介がリレーを泳ぐことを認めたってことだ。
わたしには窺い知れない、チームでのやりとりがあったんだろうか。
隣にいる江ちゃんの存在を、江ちゃんがわたしの肩をとんとんと叩いたことでようやく思い出した。
「なまえちゃん、大丈夫…?」
「あ、江ちゃん…うん、」
第一泳者の選手たちがプールに入ると会場の熱気がまた上昇する。
真琴がスタートの体勢をとって、さっきまでの歓声が嘘のように静まった。
わたしはどこも痛くないし、岩鳶を応援しなければいけない。
でも頭ではわかっていても心と体がついていかなくて、心臓がどくどくうるさくて、血液が全部逆流しているみたいに痛い。
みんなを応援しないといけないのに、視界がぼやける。
ただ、無事に泳ぎ切ってくれますように、と祈るように両手を握りしめることしかできなかった。
岩鳶高校は一位でゴール、全国大会への切符を手に入れた。
江ちゃんと抱き合って流した涙は、もう何に対しての涙なのか自分でもわからない。
レースが終わって、みんなもプールサイドで抱き合って喜んでいる一方で、鮫柄の四人は悔しさを滲ませながらもお互いを称えあっているように見えた。
チームとしての岩鳶を応援していたのは当然だし、優勝してくれてみんなの頑張りが実を結んだことは本当に嬉しい。
だけど、宗介と凛が二人で笑いながらプールを眺めているその姿だけで胸が締め付けられた。
肩の怪我、どうして宗介なの?
なんで?
チームメイトの優勝を祝う気持ちと、大切な幼馴染の怪我が信じられない気持ちで、もう頭の中はぐちゃぐちゃだった。
昨日は「大丈夫」って言っていた。
けれど、どう見たって大丈夫じゃない。
赤紫色の肩、レース中の失速、右肩を押さえている宗介をみんなが労わっている。
「なまえ!」
「真琴…おめでとう。すごいね、優勝…全国大会だよ」
レースが終わって、応援席まで戻ってきた選手を迎えたときは自然に笑えた、と思う。
だけどそこから言葉が続かなくて、また胸が詰まって涙が出そうになる。
それを見た真琴が困ったみたいに眉を下げて笑った。
「…山崎くんのとこ行ってあげたら?心配でしょ」
「……え?」
まさか真琴から今、宗介の話題を出されると思わなくて戸惑っていたら優しく背中を押される。
「さっきまでプールサイドにいたから、まだ廊下にいるんじゃないかな」
「でも、」
「大丈夫だから行って」
いつもみたいに穏やかに笑ってそう言う真琴にまた涙が溢れてきそうで、この涙は真琴には見せちゃいけないやつだと思った。
「ごめんね、あとでちゃんとお祝いさせてね」
「うん、いってらっしゃい」
本当に、真琴はどれだけ優しいのだろう。
甘えてばかりの彼にはいくら感謝と謝罪をしても足りないと、宗介を探しに走りながら考えた。
この時の真琴がどれだけの決意を抱いていたのかなんて、知る由もなかった。
応援席から通路へ続く階段を、足がもつれそうになりながらなんとか駆けおりる。
メドレーリレーは最後の種目だったから、全てを終えて片付けをする学校や大会運営の人たちで廊下もかなり人が多くて通りにくい。
鮫柄の応援席に戻る階段のところにいたら会えるだろうか。
けどさっきまでプールサイドにいたって言っていたから、プールの出口?
とにかく立ち止まっていても仕方ないから人混みをかきわけながら歩いていたら、向こうから目立つ赤髪が見えた。
こっちに歩いてくる。
「なまえ!」
「凛…あの、」
「宗介なら医務室だ、行くぞ」
グイッとわたしの二の腕のあたりを掴んで返事も聞かずに歩き出す。
さっきまでレースをしていたライバル校のマネージャーを引っ張って歩く凛の姿はなかなか異様なようで、周りの人も不思議そうにわたしたちを見ていたけれどそんなの、いまはどうでもよかった。
小走りで辿り着いた医務室の扉は、開けてはいけないパンドラの箱みたいだと思った。
宗介に会って、なんと言えばいいだろう。
再会してからずっと感じていた気まずさなんて比にならない。
わたしは宗介に何かできることがあるのだろうか。
「…なに神妙な顔してんだよ。入るぞ」
だけどそんなことお構いなしに凛はなんの躊躇もなく、その扉を開けてしまった。
宗介は、医務室の丸椅子に座っていた。
扉が開いたことに気が付いて視線をこちらに向けて、凛の後ろからわたしが顔を出したら驚いたように目を見開く。
どんな顔をしたらいいのかわからなくて、無理矢理に口角をあげた笑顔はきっとぎこちない。
わたしよりもずっと大きくて逞しい幼馴染のことを見つめて、どうしてこんなにも脆くて危うげだと感じるのだろう。
会わなかった二年という月日はあっという間で、だけどとても長くて、いろんなことが変わってしまった。
宗介が、こっちを見上げる。
意識しないと呼吸がうまくできない。
「心配かけてごめん」
「…ううん」
謝るなんて宗介らしくない。
弱々しい口調も、苦笑いも、全部宗介らしくない。
いつだって凛と肩を並べて競い合って、わたしのことなんて見向きもしない、そんな宗介しか知らなかったのに。
「…病院、」
「え?」
「病院行くんだよ、今から」
「あ…そっか、そうだよね」
「付いてきてくれるか」
宗介から飛び出した言葉に思わず耳を疑う。
付き添いって、全然いいけど、むしろ頼ってくれて嬉しいけど、普通は顧問の先生とかコーチが一緒に行くもんじゃないのかな。
わたしなんかがいいのかな。
「い、いいの?わたし邪魔じゃない?」
「邪魔だったら頼まねぇよ。…一緒に来てほしいから言ってんだ」
そんな風に言われたら断れるわけがなくて(断るつもりなんてなかったけれど)、鮫柄の引率の先生に許可を取って、岩鳶のみんなにも事情を話しに戻ることにした。
会場入り口のタクシー乗り場で宗介と待ち合わせる約束をしたら、わたしの手を宗介が取る。
「えっな、に?」
「あー…いや、なんか、」
「うん」
「…離れがたい」
真琴に「あとでお祝いさせて」なんて言っておいて、宗介を優先するようなことしたら怒るかな。
ううん、きっと優しいから何も言わずに送り出してくれる。
やけに熱い宗介の手を、そっと離すよう促しながら、今日何度目かわからない涙を堪えた。
(2016.10.17.)