30

夜眠れないというのは今に始まったことではない。
枕が変わると眠れないとか明日のレースへの緊張だとかそういうのではなくて、いつからだったか寝付きは悪いし眠れても夢見が悪い。
プールに一人で取り残されている夢だとか、レースに出ても身体が全く動かない夢だとか、地元に帰って幼馴染に軽蔑される夢だとか。

同室の凛はどこかへ出かけ、一人で部屋に残ってさっさと寝ようとしたものの眠気は全くやって来ない。
ベッドで寝転がっていても嫌なことばかり浮かんでしまい、掛け布団を取っ払ってスニーカーを突っかけた。

部屋の鍵をしっかりジャージのポケットに入れて人気のない廊下を歩き、でかいホテルに見合ったでかいエレベーターに重い体を滑り込ませる。
特に用もないのにどこに行くつもりなのかは自分でもわからなくて、ぼんやりと階数表示のランプが動く様子を見ていたら少し降りたところでエレベーターが止まり扉が開いた。

「…宗介」
「……」
「おい、乗らないのか」
「えっ乗るよ…!ちょ、ハル閉めるボタン押さないで…」

飛び込んできたのはなまえと七瀬の姿で、なまえに名前を呼ばれたけれど咄嗟のことに頭が付いていかなくて返事をできずにいたら七瀬が乗ってきた。
一人では広く感じたエレベーター内だったが、一気に酸素が薄くなったように感じる。
俺は奥の隅に寄りかかっていて、なまえは俺の前の階数ボタンのところに立った。
背中を向けられていることに少し苛立つ。
舌打ちを飲み込んで、早く下に着けとまた階数表示を睨みつけるように見た。
どれだけ見たってエレベーターの速度は変わらないと言うのに…むしろ少し減速し、また途中階で止まってしまった。


「失礼いたします」

ホテルマンがタオルのたくさん詰まったワゴンを押して乗ってきて、張り詰めているように感じたエレベーター内の空気が少し緩む。
ワゴンがかなり場所を取っていて、なまえが俺のほうに後ずさるようにして下がってきた。
俺にぶつからないようにこちらに視線を寄越したなまえと少しだけ目が合ったけれど、すぐに逸らしてしまった。


と、そのとき。

ホテルマンが押していたワゴンが少しバランスを崩して、高く積まれていた真っさらなタオルがなまえのほうへ倒れた。

「なまえ…!」

小さく叫んだのはほとんど反射で、柔らかいタオルが頭の上から降ったところで怪我なんてしないのに、体が勝手に動いていた。
けれど、伸ばした右腕は鈍い痛みが肩に走ったせいで、なまえの元へ届く前にだらりと下がる。

タオルはバラバラと床に落下した。

「宗介…?」

なまえがこっちを見る。
ホテルマンが謝りながら素早い動きでタオルを拾い上げていく様子を、右肩を抑えながら見ていることしかできない。

ズキズキと、痛む。
抑えていても一過性のものではない痛みは呼吸を浅くさせた。

「宗介、ありがとう。大丈夫…?」
「あぁ…」

なまえが覗き込むようにして、俺の前に立つ。
さっきまで怯えたような顔をしていたくせに、いや、そんな顔をさせていたのは自分なのだけれど、こういう時に真っ直ぐ見てくる瞳から逃げたいと思ってしまう。
明らかに様子のおかしい俺になんて言葉をかければいいのか、困惑している顔だ。

ホテルマンはもう一度謝りエレベーターを降りて行った。

「治ってないのか?肩」
「ハル…」

また重たくなった空気を七瀬の言葉が揺らす。
なまえの前でやめてくれ、と思うけれどきっとなまえは気付いている。
前から、気付いていた。
だからいま七瀬の言葉を制止しようとしたんだ。

「…なんのことだ」
「この前偶然貴澄と会った、そのとき…」

誤魔化しても仕方ない。
けれど肯定することもできない。
貴澄、あいつ。
病院に定期健診で行ったとき、声をかけられて思わず逃げるようにその場を去ってしまったけれど口止めしておくべきだったか。
狭い田舎街で、誰が誰とどこで出会うかなんてわからないのだと再認識して舌打ちをする。

ようやくエレベーターがロビー階に着き、扉が開く。
さっさと降りようと足を踏み出したら後ろから七瀬に低い声で呼び止められる。

「待て」
「別に試合に支障はねぇ、凛には絶対に言うな」

そう言い捨てれば七瀬は何も言わず俺のことを追って来なかった、のだけれど。

「……」
「…なんで付いて来るんだよ、なまえ」
「えっいや、わたしもこっちに用事が…あって…」
「用事って?七瀬と一緒に行くんじゃなかったのかよ」
「ううん、ハルとは偶然会っただけだよ」
「はぁ?一人でこんな時間にどこ行くつもりだ」
「…ちょっと、売店に」

後ろから足音を殺して付いて来ていたなまえに耐えかねてこちらから話しかけてしまった。
この前会ったときに俺に構うな、と啖呵を切ってしまった手前、顔を合わせづらいし話すなんてごめんだと思っていたのに。
話してみたら意外とスムーズに会話ができることに自分で驚く…幼馴染の成せる業だろうか。

いくらお互いに気まずいと思っていても、こんな時間に女一人で歩かせるわけにはいかない。
はぁ、と我ながら少しわざとらしい溜息を吐いて、「行くぞ」と声をかけたらなまえがきょとんっとした顔。

「宗介も売店行くんだったの?」
「俺は…外の空気吸いに」
「…そっか。ねぇ宗介」
「なんだよ」
「わたし、宗介とちゃんと話したい」

足を止めて、振り返る。
なまえがさっきのエレベーターと同じように俺のことを真っ直ぐ見上げる。

「売店は?いいのか?」

話なんて、きっと触れられたくないことで、だからなまえだってこんな風に改まったように切り出したのだろう。

「…別に欲しいものがあったわけじゃないから。本当はなんとなく眠れなくて」

なまえが自分のTシャツの裾をぎゅっと握る。
避け続けていても、こいつはきっと会うたびにこういう顔をするのだろう。
泣きそうなのを我慢して、唇を噛んで、声を震わせて。
それは、もしかしたら俺となまえを繋ぎ続ける理由になるのかもしれない。
だけどそんなの、望んでいない。

「そうか…俺も」
「え?」
「寝れねぇんだよ、ここんとこ」

なまえの腕を取って、歩き出す。
突然の俺の行動に驚いたのか少し足がもつれていたようだけれど、速度はそこまで速くないから自分で立て直して無言でされるがままに付いてきた。

どこか落ち着いて話せる場所、そんなところは限られていて。
俺の部屋…いやいや、凛がいるし、いなかったらそれはそれで問題だ。
メインロビーに広い共有スペースがあったけれど、あそこも人通りが多くて知り合いが通る可能性が高い。

「宗介?どこ行くの?」
「あー…どっか話せるとこ、ねぇかと思って」
「えっ」
「?なんだよ」
「話、してくれるの…?」

自分で言い出したくせに心底驚いていますって表情をされて、俺ってそんなにこいつに冷たかっただろうか。
…構うなとか、放っておけとか、突き放してばかりだったからか。

「だったら、えーっと、どうしよう。話す場所…あっ大浴場の近くにちょっとしたスペースみたいなとこがあったけど、そことか、どうかな?」

なまえが慌てたように手をぱたぱたと動かしながら言うから、その手を制するように取って歩き出した。

「じゃあそこで」
「うん、…宗介?」
「なんだよ」
「…肩痛くないの?大丈夫?」

大丈夫か、と聞かれたら全然大丈夫なんかじゃない。
問いかけてきたなまえの小さな手にぎゅっと力が込められて、同時に心臓も掴まれているかのようにギシギシと痛んだ。
肩も、胸も、もうずっと前から痛くて仕方ない。


(2016.09.24.)


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