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「あー颯斗くんのお兄ちゃんとその彼女だー!」
「えぇ?!」
「あはは、お兄ちゃんでーす」
「ちょっと貴澄!彼女ってとこ否定してよ」
「お兄ちゃん、彼女いたんだぁ」
「は、颯斗くん、彼女じゃないよ?」
だから、そんな照れたようなかわいい顔をしないで…!
貴澄と一緒にプールサイドに入ったら、真琴の生徒さんたちが一斉にこっちに駆け寄ってきて口々にそんなことを言うものだから慌てて訂正を入れる。
颯斗くんとは初対面なのに、碌に挨拶もできていない。
「こらーみんなプールサイドは走らない」
「あ、橘コーチ!」
「颯斗くんのお兄ちゃんとその彼女なんだってー!」
「わー!違うってば!」
わたしが否定していても真琴はそれを見て苦笑い。
「みんなー、このお姉ちゃんは僕じゃなくて橘コーチの彼女だよー」
「ちょっと貴澄…!」
「えーなまえが否定してって言ったんじゃんーそれに本当のこと言わないとみんな素直で良い子だから信じちゃうでしょ」
真琴の様子を伺うとやっぱり苦笑いだけど、子供達の頭を撫でている様子が少しホッとしているように見えるのは気のせいだろうか。
「なんだー橘コーチの彼女かー」
子供達が納得、というような表情で手を振って帰って行った。
「橘コーチまた絶対来てね」と言う少し寂しそうな笑顔がキラキラしていて、それに返事をする真琴の顔も優しい表情で、なんだかこっちまで胸が温かくなった。
…と、同時に、少し寂しい、なんて思ってしまった。
真琴と常に一緒にいたいとかなんでも共有したいとか、そういうんじゃない。
お互い依存し合っていたわけでもない。
でも、真琴は知らないうちに知らない世界を見つけていて、それはきっと喜ぶべきことなのに。
子供達に手を振る真琴の背中が大きいなぁと思った。
なんてことを思っていたら、貴澄がにやにやとした表情で見てくる。
「…なに……?」
「いやぁ?心配してたけど必要ない心配だったかなぁって思っただけ」
心配してくれたのはありがたい。
電話でもさっき会った時も、さりげなく気遣ってくれて貴澄は優しいなぁと思った。
けど、口角をあげてこっちを見てくるからなんだか悔しくなって腕をつねってやった。
「痛いよー」なんて言ってるけど声が笑ってるし相変わらずにやにやしている。
「なまえ。ごめん、片付けとかコーチとの引き継ぎがあるから待たせるかも。先に帰っててもいいよ」
「え、待ってるよ?」
「んーでも本当に遅くなると思うから…」
たぶんこれは本当に待たせるのを申し訳ないと思ってるやつだ。
…一緒に帰りたいなぁっていうのが正直な気持ちだけれどここは素直に先に帰るべきかな。
「そっか、わかった」
「帰ったら連絡するよ」
「…ちょっと僕もいること忘れないでよー?」
ぷんすか、という効果音が似合いそうな声で言う貴澄にまた和やかな笑いが起きた。
真琴たちにバイバイをして一人で帰ったけれど、今日の帰り道はいつもよりも足取りが軽かった。
帰り際に挨拶をした吾朗ちゃんにも「なんか良いことあったか?」なんて言われてしまった。
わたしと入れ違いになるようにハルがプールサイドに来ていて、ハルにまで「よかったな」なんて言われて、わたしってそんなにわかりやすいのかな?
ハルは蘭ちゃんと蓮くんを連れてきていたみたいで、今日はいろんな人に会えてそんなことも幸せだなぁと思った。
子供たちが着替えに行って、なまえも先に帰り、プールサイドには俺と貴澄と、嫌そうな顔をしているハルだけが残った。
貴澄と仲が良かったはずなのにどうしてそんなに面倒だって顔をしているんだろう。
颯斗くんの水嫌い克服のことを相談していたこともあって、その件については「良かったな」と言ってくれた。
「真琴、今日で最後なんだって?真琴のおかげで颯斗が泳げるようになった、本当にありがとう」
普段飄々としている貴澄に改まってお礼を言われて少し照れる。
コーチの手伝いなんて、自分で申し出たはいいけれど指導法を学んだわけでもないし、何ができるかなって悩みもしたけれどやってみてよかったと素直に思えた。
水泳を続けていてよかった。
泳いでいるときや、子供たちと接しているときは余計なことを考えなくて済んで、忙しくしていればなまえと山崎くんとのことも曖昧なままでいられて、逃げるためにやっているのかと自分で嫌になりそうな日もあったけれど、子供たちのおかげで水泳が好きだという気持ちをもう一度思い出せた。
「今度地方大会に出ることになったんだ、凛と山崎くんも」
だから、地方大会のことも山崎くんの名前も自然と口から出てきたのだけれど。
貴澄が屈託なく笑って発した言葉に俺とハルも耳を疑った。
「宗介肩治ったんだね!」
「え?」
「この前、病院で会ったんだよね。だけど大会に出るなら治ったってことだよね。なまえにも悪いことしちゃったなぁ」
「ちょっと待って、なんでなまえが出てくるの?」
頭がついていかない。
「なまえにも宗介の怪我の話したら知らなかったみたいでけっこう動揺してたからさ、けど治ったなら本当よかったよ」
ケラケラ笑う貴澄が「またね」と去っていく後ろ姿を、ハルと見送ることしかできなかった。
「治ったんだろ」とハルは言うし、まぁそうなんだろうけれど。
俺が考えたところで治っているならそれまでだし、だけど何かが引っかかって、なぜか頭に浮かんだのは県大会のときに山崎くんに詰め寄られるなまえの姿だった。
(2016.09.10.)