いっときの日

「いち…じゅうき…?」

広い早乙女学園、まだ教室の場所を把握できなくて移動教室の道のりを急いでいたら、廊下に教科書が置き去りにされていた。
誰の落し物だろう?と裏表紙を見ると、大きな文字で「Aクラス 一十木音也」と書いてある。

「いちじゅうきおとやくんかぁ、変わった名前だなぁ」

Aクラスか、隣のクラスだけど知らないなぁ。
それにしても「音也」なんて、この学園の生徒にぴったりな名前だなぁ。
音楽をするために生まれてきたみたい。
アイドルコースかな、作曲家コースかな…と思案しながら教科書をパラパラめくってみると、音符のキャラクターが所々に落書きされていた。

「ふふ、なにこれ」

今はやりのゆるキャラかなぁ。

…と、思わず1人でにやけていると授業開始5分前の予鈴が鳴った。

「わわ、やばい!授業始まっちゃう…教室どこ…!」

教科書は…あとでAクラスに届けに行けばいいか。
とにかく授業に遅れないように、日向先生かっこいいから怒ると迫力すごいんだよね。
慌ててどこにあるのかわからない教室に向かって走り出そうとすると、後ろから声をかけられた。

「あーちょっと待ってー!」
「え?」

わたし?と振り返ると、赤い髪の男の子がものすごい勢いで走ってきた。

「ねぇ、ここに教科書落ちてなかった?!」
「きょ、教科書ってこれですか?」

男の子のあまりの勢いに驚いて思わずどもってしまったけれど、なんとかさっき拾った教科書を差し出す。

「あぁ、そうそう!よかったーありがとう!」

はぁー焦ったぁーと笑う彼は、よっぽど焦って探しに来たのか、少し息が弾んでいた。

「いえいえ、ってのんびりしてる場合じゃないよ!いちじゅうきくんは次どこの教室?」
「え?」
「え?」

一瞬の沈黙。
わたし何か変なこと言ったかな?

「これ、いっときって読むんだ」
「え、そうなんだ」

うわぁー恥ずかしい、っていうか失礼だね、名前間違えるなんて、ごめんね…とまくしたてるように謝ると、目をまん丸くして驚いたあとに、あはは、と声をあげて笑われた。

「そんなに謝らないでいいよ。俺も他の人がこんな名前だったら読めないもん」

もう、なんだろう。
一気に廊下に流れている空気が暖かくなるような、明るくなるような、そんな笑顔。
聞かなくてもわかる、あぁこの人はアイドルコースの生徒だって。


「いっとき、おとやくん」
「うんっ」

もっと話したい、一十木くんはなんの楽器が得意なの?どんな歌を歌うの?
ぶわっといろいろな疑問が浮かんだとき、今度は授業の開始を告げる本鈴が鳴ってしまった。

「わわ、チャイム鳴っちゃった…!」
えっと、また今度お話しようね!

話をしたいのは山々だったけれど、入学して間もないのに日向先生に駄目な生徒だと認識されるのは避けたい。
一十木くんに教室の場所を聞いて、すぐ近くだと言うことが判明したので、慌ただしく挨拶をして別れた。


Aクラス、一十木音也くん。
同じ学園に通っているなら、きっとまたすぐに会える。


さっきよりも少し早く感じる胸の鼓動を、右手で抑えて、廊下を走った。









「リンちゃんごめん!教科書ありました!」

バタバタ、と教室の扉を開けて担任のリンちゃんに謝罪を入れる。
今後気を付けるのよ、と朝からかわいらしいリンちゃんにもう一度「ごめんなさい」と謝って自分の席についた。

「音也くんよかったですね〜教科書どこにあったんですか?」
「うん、廊下に落としてたみたいで女の子が拾ってくれてたんだ」

那月に答えながら、はぁーよかった、と思わず机に突っ伏すと、「オトくん!」とリンちゃんにまた怒られてしまった。


「しかしその女子も授業には間に合ってないのではないか?」

授業中に私語なんてしないマサが珍しく口を挟んできた。
やっぱり授業に遅れる、ということが気になるのだろうか。

「そうなんだよね。教室の場所わかってなかったし。大丈夫かなぁ…あっ」

自分が思った以上に大きな声が出てしまい、両手で口を押えた。
教卓からリンちゃんがジトッとした目線を送ってきて、教科書で顔を隠してごまかす。


(…そういえば、名前聞きそびれちゃったな)

クラスも知らない。
コースも知らない。


けれど、同じ学園に通っているなら、きっとまたすぐに会える。

さっきよりも少し早く感じる胸の鼓動は、廊下を走ったからではないと思う。
彼女の驚いたような顔を思い出して、おもしろいような、こそばゆいような、表現できない気持ちが胸を込み上げてきた。


次会ったときに名前を聞こう。
音楽のことを話そう。

焦った表情しか見ることができなかったから、次は笑ってほしい。





次は、次は、と思う気持ちは、もう明日を向いている。


(2013.01.10.)
1月10日、木曜日
いっときの日!


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