10.三月中旬

※ 8.二月十四日の一か月後くらいのお話です。



「ねぇ万里聞いてる?」と言われた声と「なまえこのあと二人で二軒目行こうよ」と遠くから聞こえた声が重なった。
振り向いたのは反射で、生返事ばっかしていた俺が急に反応した様子に隣にいた女が驚いていた。

「え、何?」
「いや知り合いいたかも」

なんだ、と気の抜けたような声を出すこいつには最初から興味はなくてしつこく誘われるのを断るのが面倒になってきていた。
聞いているかと何回言われたかわからないけれど、そのたびに聞いてる聞いてると適当に相槌を打ちながらそろそろ帰りてぇなとその度に溜息を飲み込む、そんな相手。

「友達?挨拶したぁい」

いやなんでだよ、彼女気取りか。
それには返事をせずにさっき声が聞こえてきたほうへ視線を向けて「なまえ」と呼ばれた人を探す。
ただ同じ名前なだけかもしれないけれど、今日はなまえは学生時代の友達とご飯だってと至さんに聞いていたからもしかしてと思ってしまったのだ。
学生時代の友達が女子だけとは限らない。

「わたしもう帰るよ、明日朝早いんだ」
「じゃあ送るよ、家どこだっけ」

家どこだっけということは今はそこまで親しくないのだろう。
二人で抜けようと言ったのを断られたくせにメンタル強ぇな。
「いやいや」とその男に渋い反応を返していたのはやっぱり俺の知っているなまえさんで、考えるより先に身体が動いていた。

「悪い、今日もう解散な」
「えっ」
「てか誘うのも今日で最後にして。もう行かねぇから」

呆けている女を置き去りにしてなまえさんのところに足を動かす。
「ちょっと!」と服の裾を引っ張られたけど「悪い」ともう一度伝えたら諦めてくれたみたいで理解が早くて助かった。
同じ学部だからとないがしろにできずにいたけれど多分もう誘われねぇだろうな、俺がこの後にとる行動を見たら余計に。
プライド高そうだし。

そんなことを考えながら早足で向かうと困っているなまえさんに周りの女友達も「しつこい男は嫌われるよ」と助け舟を出しているところだった。

「なまえさん」

俺が呼びかけるとそのあたりにいた数人が一斉にこっちを向く。
振り向いたときになまえさんの髪がふわっと風に揺れた。
そこだけ切り取られたワンシーンみたいに見えるんだから、惚れた相手というのは厄介なもんだなと思う。

「え、万里くん?どうしたのこんなとこで」
「こんなとこも何も俺の大学こっから近いんで」
「そっか。バイト帰りとか?」

大学が近いとかバイト帰りとかってワードで自分がまだ学生なことが突きつけられるみたいだ。
全部事実だからこそ悔しい。

「まぁそんなとこ。なまえさん飲み会っすよね。至さんに聞いた」

俺が至さんの名前を出すとさっきまでなまえさんに話しかけていた男が気まずそうに下を向いた。
なまえさんに彼氏がいることは知っているらしい。
その人の名前が至だということも。
それに気が付いたのはなまえさんも同じようで少しホッとしたような顔をされる。
安心できたのならよかったけれど同時に苦い気持ちが胸に広がるような気がした。

「帰るなら送ります」

多分普段なら大丈夫だよと俺も遠慮されたと思う。
遠慮されても譲らなければなまえさんが折れてくれるだろうけど。
今日は隣にしつこい男がいたこともあって「うん、ありがとう」と頷いてくれた。
この男に少し感謝かもしれねぇなと思いながら近くにいたなまえさんの友達だという人たちへの挨拶も忘れない。

「どうも。なまえさんの…至さんのことみんな知ってるんすか?」
「うん。彼氏と同じ寮に住んでる子なの」

そう言いながら俺のことを紹介してくれる。

「えー大学生?若いねぇ」
「まぁ、はい」
「てかイケメン!至さんと言いその寮どうなってるの?」

あはは、となまえさんが笑っていて居心地が悪い。
容姿を褒められるのには慣れているけれど若いという言葉にぐっと胸に詰まるものがあるなと思っていたらなまえさんがふわふわと笑いながらとんでもないことを言った。

「万里くんは中身もイケメンなんだよ」

ね?なんて上目遣いで見上げるのはやめてほしい。
酔っ払っているわけではないだろうけれど酒が入っているせいかいつもより表情が緩くて心臓に悪い。
飲んだ後のなまえさんに会うのなんて初めてで、こんな姿も全部至さんは知っているんだろう。

「ねって言われても肯定しにくいっす」
「やだ照れてるかわいい〜」
「そうなの、万里くんって大人っぽいしかっこいいんだけどかわいいところあるんだよ」

初対面の人にかわいいと言われ、なまえさんにそれを思い切り肯定された。
勘弁してほしい。

「はいはい。帰りますよ」
「えへへ、うん、帰ります」

……だからふにゃふにゃ笑うのはやめてくれ。
さっき男友達に送ると言われたときはわりとしっかりした態度で断っていた気がするんだけど、俺のこと信頼しすぎじゃねぇの。
まぁ信頼してもらえるように接してきたつもりではあるけど。
みんなにじゃあね、またね、と挨拶をするなまえさんを眺める。
かわいいのはどっちだ、なんて誰にも言えない言葉を飲み込んだ。



電車で数駅のところにあるなまえさんの家に行くのはもちろん初めてだった。
家に上がり込むわけでもないのに柄にもなく緊張する。
最寄り駅の改札をなまえさんと並んで出て「こっちだよ」と案内されながら歩くのが不思議だ。

「駅から遠いんすか?」
「ううん、近い。駅からの近さだけは誰にも負けない」
「誰にも」
「うん」

何言ってんだこの人。
もしかしてけっこう飲んだんだろうか。
足取りとかは全然しっかりしてるけれど、飲むと余計にかわいくなるらしい。
そんなこと知りたくなかった。

駅を出てすぐのところに、前に偶然会ったときにも入ったチェーンのコーヒーショップがあった。
外の手書きの看板は時期的に桜のドリンクの絵が描いてある。
もう三月も中旬を過ぎて桜の木もほころんでくる季節。
俺の気持ちは一向に進まないのに、季節は平等に進むのだと物寂しくなる。
明日は早いと言っていたし「信頼できるかわいい万里くん」の体裁を崩すつもりはないから、さっきの男みたいに二軒目行こうなんてことは言えないけれど、これくらいなら許されるだろうか。

「なまえさん」
「ん?なぁに」
「なまえさんって酒飲んだあと甘いものいける人?」
「うん。デザートとか全然食べられるよ」

なんで?と見上げてくる顔に苦しくなるのにはもう慣れた。

「なんか奢ります。テイクアウトにするんで家で飲んでください」
「えっいいよ、そんな」

ふわふわと緩い空気をまとっていたのに年下の俺に奢られそうになると断るというのはいつもと変わらない。

「いや、俺バレンタインのお返しできてなかったし。もっとちゃんとしたもの返せたらよかったんですけど」
「そんなのいいのに。わたしがあげたかっただけだもん」

至さんを通して渡されたチョコレート。
甘いはずなのによく味がわからなかった。
苦い、くるしい、どうしたらいい、好きなのに。
答えの出ない問答をずっと繰り返している。
口の中で気が付いたら溶けてなくなるチョコみたいに俺の想いもなくなったらいいのに。

「俺も、何かあげたいから。だから奢られてください」

気持ちのひとかけらも伝えられないならせめてこれくらいさせてほしい。
なまえさんが寂しそうにしていたら遊びに誘うし、何か食べたそうにしていたら付き合うし、困っているなら手を差し伸べる。
だけどそこになんの気持ちも透けないようにする、だから。

こんなことしかできないけれど、それでも好きなんだ。
諦めているのに消えてくれない気持ちは苦くてなまえさんのくれたチョコレートでも払拭なんてしてくれなかった。

「……うん、じゃあごちそうになろうかな」
「え、」
「えっなに?やっぱりなし?」
「いや。え、いいんすか」
「万里くんがいいならぜひ」

さっきまでのアルコールによるふにゃふにゃともまた違う柔らかい笑顔。
少し眉が下がった笑い方に胸がぎしぎしと軋む。

「万里くんが門限とか大丈夫なら店内で飲む?」

腕につけた華奢な時計を見ると「あっでももうすぐ閉店時間だ」と発した声が残念そうに聞こえた。
残念な気持ちと、ホッとする気持ちがないまぜになって自分でも苦笑いがもれそうになる。
もっと話したい、いろんな表情が見たい。
だけどこれ以上想いを募らせるようなことはごめんだった。

「じゃあやっぱテイクアウトにしましょう」
「うん。ありがとう」

街灯の明かりから店内の照明の下に入るとなまえさんの頬はまだ少し赤い。
どれくらい飲んだんだろうか。
俺が居合わせなくてもうまくあの男の申し出をかわせたのか不安になる。
飲みの帰りは連絡してください、なんてそんなことを気安く言える仲ならいいのに。

「なまえさん何飲みます?」
「万里くんと同じの」
「……じゃあこの期間限定の、トールでいい?」
「うん」

本当はブラックが飲みたかった。
だけど多分なまえさんは限定の桜のドリンクのほうが良いだろうなと思って顔を覗き込むと「それ飲んでみたかったの」って。
そんな防御力ゼロみたいな顔で笑わないでほしい。

駅から家まで近いと言っていた通り、ほんの数分で着いてしまった。
なまえさんがマンションのエントランスに入っていくのを見送ろうと立ち止まると、なまえさんも一緒に足を止める。

「入ってください」
「うん。送ってくれてありがとう」
「いえ」

俺がそうしたかっただけだという言葉を飲み込む。
何度も何度も言いたいことを押し込んで、もう会いたくないと思うこともあるけれどやっぱり顔を見たら嬉しい。
なまえさんのことが好きだ。

「万里くん」
「はい」
「それ飲み終わった?」
「あーいや、まだ残ってます」

飲み切っていたら空のカップを捨ててくれようとしたのかとしれない。
だけどまだ残っていると伝えると「そっか」となまえさんの顔がほころぶ。

「わたしもまだ残ってるからもうちょっとお話しない?」
「……明日早いんじゃないんですか」
「あ、万里くん聞いてたんだ。あれ嘘だから大丈夫だよ」

あいつには嘘をつくのに俺とはもう少し話そうと言ってくれるのか。
別にそこになんの意味がないことはわかっているのにそんなことを思ってしまう自分が嫌になる。
他意なんてないんだから、俺だって「じゃあそうしましょう」とサラリと言うべきところなのに唇を噛んでしまった。
なまえさんがそんな俺の顔を見上げながら眉を下げる。

「勘違いとかお節介だったらごめんなさいなんだけど」

そう少し言いにくそうに発せられた声に肩が揺れた。

「何か話したいこととかあるのかなって」
「……は?」
「いや、わたしにってわけじゃなくて。なんとなくもやもやしてそうな顔してるから、何かあったのかなって」
「どんな顔っすか……」
「悩んでるみたいな顔」

悩んでいるわけではない、と思う。
なぜなら悩んだって仕方がないからだ。
なまえさんにそんなことを言われてしまったのは自分の気持ちが滲み出たせいかもしれない。
一緒にいればいるだけ想いが募るような気する。
何も言わない俺の顔を覗き込むように首を傾げたなまえさんから思わず視線を逸らした。
なんにもないですよって、平気な顔と声で言わなきゃなんねぇのに。

「言いにくかったり言いたくなかったら言わなくても良いけど、一緒にコーヒー飲むくらいならわたしにもできるかなって」

まだ中身の残っている紙コップを持つ手に無意識に力が入る。
勘違いだったらごめんね、となまえさんがもう一度言ってその声を聞きながら無性に泣きたくなった。

「……なまえさん」
「うん?」
「じゃあ、お言葉に甘えてこれ飲み終わるまでここにいてもいいですか」

もちろん、とまたふにゃふにゃとした顔で笑うなまえさんのことを諦めたい。
だけど隣にいられる時間が少しでもあるのなら、それを手離したくないとも思ってしまうんだ。



(2023.03.18)



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