46.どうしたらいい?

「本当に明日帰るの?俺を置いて?」
「帰るよ、飛行機のチケット取っちゃってるもん」
「無理すぎる…日本発ったときよりも寂しいかもしれない……」

狭いホテルのワンルーム、シングルのベッドで及川がごろんごろんと大きな身体を丸めてうめいている。
ホテルまで送ると言ってくれたけれど、部屋の前で「はい、さようなら」となるはずもなく、及川にじっと見下ろされて「……部屋入る?」と言ってしまったのは仕方がないと思う。

「ベッドちっちゃ」
「シングルだからね」
「まぁなまえ一人ならこれで十分か」
「岩ちゃんは狭いかもね」
「うん。俺もきゅうくつだけどわがままは言わないよ」
「…ん?」
「シャワー借りてもいい?」
「………いいけど、家帰らないの?」

ものすごく間を空けてしまったけれど及川はにこにことベッドを占領しながらわたしの言葉を待っていて、そんな顔をされてダメなんて言えない。

「帰ったほうがいい?」
「ちゃんと自分のベッドで寝ないと身体が休まらないんじゃないかなって思う」
「そんなやわじゃないから大丈夫」
「えー…」

わたしが渋ることなんてわかりきっていたように楽しそうに笑っていて「身体休まるんなら泊まってもいいってこと?」と言うから顔が熱い。

「そういうわけじゃ、」
「うん。とりあえずシャワーの許可はもらったから入ってくるね」

鼻歌を歌いながら歩いている姿は昔と変わっていないようなのに、シャワールームに向かって行くなんて日本にいた頃ではありえないシチュエーションに喉の奥のほうがぎゅっとなる。
部屋の隅に備え付けられているソファに身を沈めてみても落ち着かない。
及川がシャワーなんて浴びに行ってしまったから一人で手持無沙汰だ。
明日アルゼンチンを発つことは変わらないからパッキングしようにも身支度を整えるまでは仕舞えないものが多い。
とりあえずもう着ない服や使わないであろうガイドブックをスーツケースに入れた。

……本当に泊まるつもりなのかな。
合宿所で別々の部屋で寝泊まりするのとはわけが違う。
考え事をしながらのろのろと手を動かしていたからかシャワーが止まった音にも気付かなかった。

「おいか、わ……ちょっ、と」

髪が濡れたままシャワールームから出て来た及川は、下はさっきはいていたチームのジャージをはいていたけれど上半身は何も着ていない状態だった。
ぐるんっと及川から顔をそらす。

「Tシャツは?風邪引くよ」
「えーだってさっきまで着てた服また着るの嫌じゃん」
「着替え持ってないの?」
「ないよ、泊まるつもりなかったもん」

けろっと言うだけならまだしもすたすたと近寄ってくるのはやめてほしい。

「なまえはシャワー浴びないの?」
「……浴びる」

ベッドの上に出しておいたパジャマを両手でぎゅっと持って「入ってくる」と伝えたら及川が「うん」とだけ返事をする。

「ちゃんと上着てね」
「はーい」

念押しするように振り返りながら言ったら至極軽い調子で返された。



シャワーから戻ったら疲れて寝てたりしてくれないかな、なんて一瞬思ったけれどそれはそれで…わたしだって寂しいと、思う。
どうしよう、けど確かにもう遅いし帰ってと追い出すのも…狭いベッドでも少しでも寝てもらったほうがいいかもしれない。
そもそも中学のときの合宿とはわけが違うし本当に泊まらせていいものだろうか。
いろんな考えが巡るものの何か言いアイディアが浮かぶわけでもなく、とにかくちゃんと寝てもらおうということは決めてシャワールームを出た。

「…なまえ、ドライヤーは」
「こっちに置いてきちゃって」
「あーそっか。俺使ったそういえば」


そういえばって。
ちゃんとTシャツを着てわたしが出るのを待っていたらしい及川の髪はしっかり乾いていて、ホテルに備え付けのドライヤーで乾かしてもふんわり柔らかそうだ。
セットしていない髪の毛、久しぶりに見たなぁなんて思っていたら「こっちおいで」とベッドの淵に座らされた。

「髪の毛乾かしてあげる」
「えっわたしブローわりと命がけなんだけど」
「何それどういうこと?めちゃくちゃ物騒じゃん」
「寝る前のブローで次の日のセットの出来が左右されると言っても過言じゃない」
「……俺には荷が重いかもしれない」
「せめて前髪は自分でやらせてください」
「なまえの女子力がいつの間にか高くなってて驚いてるよ俺は」
「昔そんなにずぼらだった?」

及川からドライヤーを受け取って、前髪と根本を乾かしながら話す。

「そうじゃないけど、会わない間になんかちょっと大人になってて緊張する」

こんな状況だし、とベッドであぐらをかきながら及川が言う。
自分の膝に肘をついて、頬杖の体勢でこっちを見てくる表情が穏やかで緊張しているなんて嘘じゃないかと思う。
わたしだって考えもしていなかった展開にどうしたらいいのかわからない。

「なるほどね。そうやって手でとかしながら乾かせばいい?」
「うん。そんなにやりたいの?」
「彼女の髪乾かすって男のロマンじゃない?」
「……初めて聞いたけど」
「やってもらったことない?」
「うん」
「俺もやったことない」

お互い初めてってなんか嬉しいねと笑った表情がゆるんでいて、普段からにこやかな人だけどはにかむみたいでくすぐったい。
及川がわたしの肩に手を置いて前を向かせてからドライヤーのスイッチをオンにした。

「ていうか彼女になった覚えはないです」
「え?!聞き流してくれたから既成事実作れたと思ったのに」
「既成事実って」

思わず笑いがもれたら及川は「なんだそっか」なんてぶつぶつ言っている。
彼女、かぁ。
お互い好きで、何か問題がなければ付き合うんだろうなぁ普通は。
及川の手が何度も髪をすく。
大きくてあたたかい手だと思う。

「…なんか眠くなりそう」
「髪乾かしたら寝る?」
「うんー…ちょっともったいない気もするけど」
「もったいないって?」
「及川疲れてるのに来てくれたから。でも及川の手あったかくて気持ちいい」
「……そう」

大体乾いたんじゃないかなぁと自分の頭に手をやると及川の手とぶつかった。

「あ、ごめん」
「うん」

カチ、という音でドライヤーの風が止まってぶつかった手が体温に包まれた。
さっきあたたかいと思った及川の手は直接触れると熱いくらいで、硬い手のひらや指先が自分の手のひらと合わさって多分わたしの手も熱い。

「及川?」

背中を向けていて後ろから手を掴まれたから変な体勢になりながら振り向く。
一度手が離されて腰のあたりに及川の両手が添えられたかと思ったらひょいと抱き上げられてベッドの上で向かい合わせになるように座らされた。
腰に置かれた手がそっと離れて、わたしの両手をきゅっと優しくまた包む。

「なまえ」
「うん」
「俺、日本に帰るつもりないんだ」

あくまで今のところはって話だけど、と付け足すように言われるけれどこんな状況も及川の言うことも現実味がなくてよくわからなかった。

「……ここにずっと住むの?」
「まだわかんないけど、そうなるかもしれない」

及川の指がわたしの手の甲を落ち着かないようにさする。
それだけの覚悟を持ってここに来て、そう言えるくらい充実した日々を送っているってことなのだろう。
だったらそれは喜ぶべきことで、わたしがとやかく言うようなことじゃない。

「だから多分こんなこと思っちゃいけないんだけど」

まっすぐこっちを見ていた瞳をうつむけて及川が伏せたまぶたをきゅっと一度つむる。
その全部がなんだか絵になって映画みたいで、自分の目の前で起きていることなのにスローモーションかのようにゆっくり感じた。
まぶたが持ち上がって目と目が合う。
及川の表情が泣きそうなものに変わっているけれど、多分わたしも同じような顔をしている。

「やっぱりなまえが好きだし、なまえが同じ気持ちでいてくれるならそばにいたい」

手を引かれて及川の腕の中に閉じ込められた。
ホテルのせっけんのにおいがする。
はぁ…と頭の上で及川が大きく息を吐いた。

「……及川にとってのいちばんはずっとバレーボールだよ。わたしのことなんて考えないで」
「なまえのこと考えないなんて無理」
「じゃあ今すぐ日本に戻ってきてって言ったら戻ってくる?」

抱き締められながらこんなこと言うなんて我ながらひどい女だと思う。
及川は小さな声で「…それはできない」と言う。
別れ話みたいな内容だ。

「うん。わたしもそんなこと思ってない」
「思ってないのかよ」

おい、と及川が声のトーンを下げた。

「言ったでしょ、バレーを好きでいてって」
「バレーは好きだよ。じゃなきゃ仕事にしようなんて思わない」
「うん…わたしのせいで及川がバレーを犠牲にするようなことが少しでもあったら嫌だよ」
「……なまえのそういうとこも好きなんだよなぁ」
「お互いめんどくさいね」
「めちゃくちゃね」

一瞬ふたりとも黙ってしまって、同じタイミングで弱く笑う。
めんどうでも報われなくてもこれがわたしたちなんだろうな。
日本の裏側の小さなホテルの狭いシングルベッドの上で、想いは同じはずなのに向いている方向が違う。
ただぎゅうと抱き合うだけでキスもしない。
目を閉じると及川の心臓の音しか聞こえなくて、ここがどこなのかわからなくなる。
わたしは明日にはここを出てそうしたら次いつ会えるのかわたしたちの関係はなんなのか、そんなこともわからない。

「日本で待っててなんて言えないし、アルゼンチンに来てとも言わないけど」

でも、と続ける及川の手がすがるみたいにわたしのパジャマをぎゅっと握った。

「なまえのことも諦めたくない」

俺どうしたらいいんだろうなんて弱々しい声を出すから気持ちがひっぱられてわたしも泣いてしまいそうだった。



(2022.01.08)



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