40.ずっと青いまま

及川は卒業式が終わったらすぐにアルゼンチンに行くらしい。
一晩経って情報を並べてみても全然現実味がなかった。
アルゼンチン、かぁ。
海外リーグへ移籍なんていうのは日本代表の選手ではたまに聞く話だけれど、高校を卒業してすぐになんのツテもない日本人がやっていけるものなんだろうか。
言葉とか、日常生活とか、そういうのすら想像がつかない。

最後に会った日、また家まで送ってくれた及川の顔を見上げてもなんと声をかけるべきかわからなかった。

「えっと…気を付けてね、体調とか怪我とか。治安も日本より悪そうだし」
「うん。ありがとう」
「……あと…」
「うん」

及川は静かに微笑んでわたしの言葉を待ってくれる。

「ありがとう、誘ってくれて。…わたしも、最後に及川と会えてよかった」
「そっか、ならよかった」
「頑張ってね」
「うん」
「応援してる、ずっと」

並べた言葉は月並みなものばっかりで何を言っても足りない気がする。
お互いに「またね」と手を振って別れたけれど「また」がいつ来るのかなんてわからなかった。




三月の中旬に何回か設定されていた登校日は、久しぶりに会う友達と顔を合わせることができると楽しみにしていた。
あと数えるほどしか来ない校舎に足を踏み入れると妙に感慨深い気持ちになる。
卒アルにメッセージを書き合っているうちにもうすぐ卒業なのだと少しずつ実感がわいてきた。

「なまえ、なんかあった?」

そう言われたのは廊下でばったり会ったスガにだった。
会うのは春高から戻ってきて以来だったから二か月経っていて、それまでは毎日のように顔を合わせていたからなんだか変な感じがする。

「え、なんで?」
「上の空。さっきから」

少し立ち話をしていただけなのにそんなに態度に出ていただろうか。
受験の結果について話していて会話はちゃんと頭に入っているんだけど。
わたしとは別の地元の大学を受験していたスガは、教育学部に進学するらしい。
大地も旭も無事に進路決まったってさ、と言われたこともちゃんと覚えている。

「そうかな…」
「うん。大学生ブルー?」
「なにそれ」
「マリッジブルー的な」
「そんなの初めて聞いた」

俺も、と笑うスガの顔を見たらなんだかまた鼻の奥がツンとする。
全然泣くところじゃないのに。
及川が海外に行ってしまうということは自分の中でうまく消化できていなくて、上の空だと言われる心当たりがあった。
だけどよりによってスガの前でこんな顔をするなんて最低だと自分でも思う。
力なく笑い返したらスガが眉をひそめた。

「ごめん、でもなんでもないよ」
「そんな顔で言われて信じると思う?」

ちょっと来て、と有無を言わさないスガの雰囲気に頷いてついていく。
通りかかった購買で「ミルクティーでいい?」とあたたかいペットボトルを買ってくれてそんな優しさにも胸が痛い。

「はい」
「…ありがとう」
「全然。俺が連れて来たんだし」

スガと一緒に来た屋上は陽射しが気持ちいいけれど風が冷たい。
渡されたペットボトルを両手で持ってフェンスに寄りかかるようにして座る。
何も言えずにいるわたしの隣でスガが「あー…」と言葉をもらした。

「なまえはさ、いつも俺がしんどいとき声かけてくれただろ」
「そう、かな」

そうしたいと思っていたけれどいつだってできていたかはわからない。
だけどスガは「そうだよ」と青空みたいな顔で笑う。

「俺も、話ならいくらでも聞く」

無理にとは言わないけど、と付け足すのがスガらしくて優しくてあたたかい。
陽だまりみたいな人だと思う。
ペットボトルをぎゅっと握って言葉を探すのをスガはそれ以上何も言わずに待っていてくれた。

「あのね、たとえば」
「うん」
「スガの友達が、遠くの大学に行くって急に言ったら……」

どうする?というのも変だなと言葉に詰まる。
どうもこうもない、行くのだという事実を聞かされた、それだけだ。
最後まで言えなかったのにスガはうーん…と返事を考えてくれているみたいだった。

「そうだな…それぞれ事情とか理由とかあるんだろうけど…わざわざ地元離れるってことはその人なりの覚悟みたいなのがあると思うんだよ」
「…うん」

覚悟、その通りだと思う。

「だから会えるうちに会って、出発するときに背中押せるようにするかな。あとはいつでも戻って来いって懐の広さを見せる」
「男らしいなぁ」
「まじ?褒めてる?」
「うん、すごく。……わたしもスガみたいになれたらいいのに」

きょとんとしたあとに眉を下げて苦笑されてしまった。

「俺けっこう女々しいよ」
「そんなこと、」
「いま言ったのは綺麗ごとっていうか、建て前?本音と建て前ってやっぱ違うじゃん」

仲良かった奴が遠くに行くとか寂しいよな、と言われてやっぱりスガはすごいと思う。
話すといつも心が軽くなる。

「寂しいなら寂しいって伝えたほうがいいと思う。相手だって悪い気はしないだろうし」
「そうかな……困らせそう」
「困らせちゃいけないの?俺なら寂しがってくれないほうが悲しいかも」

ほら女々しいだろ?なんて笑うからつられて笑おうとしたけれど表情がうまく作れない。
春高ぶりに顔を合わせて、本当はスガとだってちゃんと話をしなくちゃいけないとわかっていた。

好きだと言ってくれて嬉しかった。
わたしもスガのことが大好きだなと思う。
穏やかに笑うスガがすぅと息を吸って、ゆっくり吐いた。

「俺が遠くに行くって言ってもそんな顔してくれる?」
「え……?」
「俺もなまえも地元残るけどさ、今までみたいに会えるわけじゃないし。俺はそれが嫌だなって思うよ」

俺のことも考えて、と言われたのは寒い冬の日で、スガに言われたことを何度も思い返してそのたびに息苦しいようなむずがゆいような気持ちになった。
返事はまだしていなくて、春高が終わってから会っていなかったから仕方がないかもしれないけど先延ばしにしているようで申し訳ないなと思っていた。
スガが困ったように眉を下げる。

「ごめん、結局自分の話だ」
「…ううん。わたしも、ごめん」

バレー部のこと、みんなのこと、スガのこと。
三年間ずっと考えていない日なんてなかったような気がする。
飛雄が入ってきてからスガのことが気にかかって二人で話す時間が増えた。
フラットな立場でいなければいけないのにそれができなかったのは、中学での後悔を繰り返したくなかったからだと思う。
自分の力で立ち上がって前を向いて、今は遠くに走り出そうとしている及川の背中が浮かんだ。
中学の姿じゃない、十八歳の大きな背中。
及川にできなかったことをスガにと思っていたわけじゃないけど、仲間として力になりたいと、そう思ったのだ。
スガのことが大切だし大好きだって思う。
だけどスガの伝えてくれた想いと同じかと聞かれたら頷けなかった。

返事を、しなくちゃいけない。
今ここで言わなくてもいいのかもしれないけれど、次にいつ二人でこんな風に話をできるかわからない。
こんなことスガに言いたくないし励ましてくれたのに優しさを無下にするみたいだろうか。
だけどなかったことになんてできるわけがないし不誠実なことはしたくなかった。

「卒業しても、みんなで会おうね」
「おう」
「あの、わたしスガにちゃんと返事しなくちゃって思ってて…」

スガが何度か瞬きをしたあとに眉を下げて微笑んでいる。

「スガ言ったでしょ、俺のこと考えてって。考えてた、ずっと。多分誰より」
「…そっか」
「スガが…春高で鴎台戦のあとにここに来た意味があったって言ったとき、」

飛雄がこのチームでもっと勝ち進みたかったと言ったときにスガは大粒の涙をぼろぼろこぼしながらそう言った。
きっといろんな思いがあったと思う。
笑顔でいたって、できることがあると言ったって、勝つために必要なことだと割り切ったって、頭で理解していても心が追い付かないことってある。
だけどスガは飛雄の気持ちの変化とか成長をそんな風に受け止められる人で、すごく強い人だと思った。

「わたしもね、スガがそう言ってくれて、同じこと思った。スガがそう思ってくれるなら続けた意味があったなって」
「…なまえのおかげも大きかったよ」
「……そういう風に思ってくれてるのも嬉しくて、マネージャーやっててよかったって本当に思った」

言いたくないけど、傷付けたくないけど、言わなくちゃ。
これからも友達でいたいから。

「スガのこと大好きだよ。三年間一緒に部活できてよかったって思う」

でもね、と続けた声が涙で揺れる。
わたしが泣くのは違うのに。

「好きって言ってくれて嬉しかったけど、スガの気持ちにはこたえられないです」

ごめんなさいと消えそうな声で伝える。
俯けた視線のなかにスガの手が見えて、いつかと同じように握りしめられていた。
その手を解くことは今のわたしにはできない。

「……そっか、わかった」
「ごめんね…」
「うん、ちゃんと言ってくれてありがとな」

とてもじゃないけど顔を見ることができないのにありがとうと言う声はいつもと同じように明るくて、わたしが気に病まないようにしてくれているんだってわかる。
スガはそういう人だ。

「わたしも、ありがとう」
「おう。そんな顔すんなー」

ぎゅっと唇をかんでいないと泣いてしまいそうだった。
あのさ、とスガが続けた言葉になんとか顔をあげると目が合う。

「違ったらごめん。もしかして、さっき言ってた遠くに行く友達って及川?」
「……なんでわかるの?」
「なんとなく、青城との練習試合のときから特別なんだろうなって思ってたから」

中学の卒業式でのことも話していないのにどうしてわかってしまうんだろう。
特別って、スガの目にわたしと及川はどう映っていたの。

「大学って地元離れる奴けっこういるし、だけどそんなに悲しいってよっぽど大事な人なんだろうから」
「そう、なのかな」
「及川どこ行くの?東京とか?」
「それが、アルゼンチンに行くらしくて」
「は?!アルゼンチンって、またなんでそんなとこに」
「入りたいチームがあるんだって」
「アルゼンチンのプロリーグってこと?すげーぶっ飛んでるな」

スガが本当に驚いたように大きな声を出すからこっちは妙に冷静になってしまった。

「やっぱりぶっ飛んでるよね?規模が大きすぎて自分がビックリするのが正解なのかもわかんなくなってた」
「いやそれはビックリするだろ。何年くらいで戻ってくんの?」
「…わかんない」
「聞いてないってこと?」
「うん、けど多分及川も決めてないみたいだった」

いつ戻ってくるの?と聞いて、ずっと戻って来ないよって返事だったらどうしようと思ったら聞けなかった。
情けない顔をしている自覚はあって、スガにこんな話を聞いてもらうのは無神経だと思うのに甘えてしまっている。

「さっきの話だとさ、」
「うん」
「なまえ、寂しいんだろ。及川が遠くに行くの」
「……そうみたい」

もごもごと口籠りながら言ったらスガがなんだそれと笑った。

「困らせたくないって思う時点で、大事ですって言ってるようなもんだよ」
「大事…」
「うん、違う?てかここでそうだって言ってくれなきゃ俺フラれたこと納得できないかも」

スガへの返事に、及川の存在が影響していないと言えば嘘になるのかもしれない。
多分及川はずっと頭の片隅とか胸の奥のほうに小さく、だけどたしかに存在していた。

「後悔しないようにしてよ。俺も、もううじうじ言わないからさ」
「スガがうじうじしてるのなんて見たことないよ」
「いやーなまえがいないとこでだいぶしてたよ」

知らなかっただろ、と笑う表情は少しだけ泣きそうに見えて息が苦しい。
全く気付いていなかったわけじゃないのにスガの好意に甘えていたのはもうずっと前からだったかもしれない。

「スガ」
「ん?」

わたしは弱々しくしか笑えないけれど、呼びかけたら優しい返事をくれるスガのことがやっぱり好きだし、間違いなく大切だなぁと思った。

「好きになってくれてありがとう」

ふたりで泣きそうになりながら情けない顔で笑うのがなんだかわたしたちらしい。
何を話すでもなくすっかり冷めてしまったミルクティーを、スガは缶コーヒーを飲んでから教室に戻った。



(2021.09.10)



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