▼ 39.北川第一中学校
「ちょっと何その表情…及川が制服で行こうって言ったんでしょ……」
「うん、わかってる。言い出したのは俺だけど」
待ち合わせは北一の近くのカフェにした。
中学時代は寄り道なんてできなくて横目に見ていたお店だったから楽しみにしていたのに、現れた及川が人の顔を見るなり顔をしかめるものだから文句くらい言いたくなる。
「烏野の制服、やっぱりかわいくて悔しい」
褒められたんだろうけどそんな眉間にシワを寄せて目をそらしながら言われても素直に喜べない。
青葉城西の制服は白いブレザーにベージュのチェックのスラックス、シャツが青いブルーってなかなか着こなせる人はいないんじゃないだろうか。
ダッフルコートも指定なのかな、及川によく似合っている。
「かわいくて悔しいって日本語おかしくない?」
「烏野の奴らは三年間このかわいい制服着たなまえと学校通ってたのかと思うと悔しい」
「丁寧な説明ありがとう」
かわいいのは制服、形容詞はわたしにかかってない。
だけどまだわたしと同じ高校がよかったと思ってるんだなぁと思うとさすがに恥ずかしい。
なんで思ったことをそのまま言葉にできるんだろう。
「及川も制服似合ってるよ」と伝えたら嬉しそうにお礼を言われた。
当たり前でしょくらい言われるかと思ったけれど謙遜しないのが及川らしいなと思う。
「先生たちに連絡してないけど大丈夫かな」
「あー…まぁ軽く見学くらいなら卒業生ですって言えば大丈夫でしょ」
待ち合わせていたカフェで頼んだものを飲みながら聞いたら「軽く見学」と目を合わさずに言う及川に首を傾げる。
進路の報告をしに行くと思ってたんだけど、部活のコーチとかに会うつもりはないんだろうか。
「ごめん、俺実は進路決まってすぐに挨拶行ったんだよね」
「えっそうなの?」
「うん」
「わたしわざわざ報告するほど立派な進路じゃないんだけど…地元の大学だし」
「まぁ顔出したら喜んでくれると思うよ」
今日も部活やってるはずだし、と言って手にしていたマグカップをかたむけた。
懐かしい校門を通り抜けて、来客用のスリッパにはきかえて足を進めた校舎は静かだった。
春休みだから部活をやっているグラウンドや体育館のほうからは声が聞こえてくるけれど、用務員室に行くまで誰にも会うことはなくて二人で話すときも小声になってしまう。
受付窓口で用務員さんに声をかけて、来客の用紙に記入をして入館証を受け取る。
制服だから校舎内をうろうろしていても不審には思われないだろうけれど、首にかけてから職員室に向かっていたらちょうど廊下の向こう側からバレー部の先生が歩いて来た。
及川と顔を見合わせてタイミングの良さに少し笑ってしまう。
「先生」
「ん、おー及川!とみょうじか、久しぶりだな」
「お久しぶりです」
「みょうじは卒業してから全然顔見せないからどうしてるかなと思ってたんだよ」
「すみません、この通り元気です」
「そうかそうか、今日はどうした?」
「進路決まったので報告…と思ったけど及川はもう伝えてあるってついさっき聞いて」
ちらっと横目で見上げたら及川は「あはは」なんて笑っている。
「及川は何回か相談しに来てたからな」
「相談?」
「ちょっと先生、俺の話はもう聞き飽きたでしょ。ほら、なまえの輝かしい進路を教えてあげなよ」
「何その煽り方……」
肘で人のことをつんつんとつついて妙な話の持って行き方をするのはやめてほしい。
全然輝かしいとかじゃないんですけど、と前置きをしてから大学と学部を伝える。
「地元残るんだな。またいつでも顔見せにおいで」
「はい、ありがとうございます」
「春高の話とか高校のことも聞きたかったんだがこれから職員会議なんだ」
慌ただしくて悪い、と言いながら先生が時計を見る。
「及川は準備どうだ?なんか困ったら連絡しろよ」
「色々ありがとうございました。なんとか進んでます」
「そうか。じゃあまたな」
「忙しいときにすみません」
手をあげて廊下を進んで行く先生に二人で頭を下げた。
「職員会議だって、春休みなのにそんなことやるんだね」
「長期休みも先生たちは丸々休みってわけじゃないらしいからね」
「そっか。職員室行っても他の先生には会えなそうだけどどうしよっか。体育館行ってみる?」
体育館、と及川に言われて頷いたけれどよく考えると中学の体育館に足を運ぶのは卒業式以来だ。
三年も経っているんだからもう時効、なのかなぁ。
校舎を出て、バレー部が使っている体育館へ行くためにスリッパからローファーにはきかえた。
きっと何度も数えきれないくらい一緒に通った道。
遠くから聞こえる運動部の掛け声とか、土を踏みしめる足音とか、隣にいる及川の横顔とか。
そういうの全部があの頃に戻ったみたいな感覚にさせる。
だけど体育館の近くに行っても聞こえてくるはずの声やボールの音がしなくて、重たい扉を引いて覗き込むように中をうかがっても誰もいなかった。
「あれ、誰もいない」
「今日部活休みだったのかな。珍しい」
「どうする?」
「…入ってもいいのかな」
「悪いことするわけじゃないしね」
ボールは片付いていたけれど、ネットとポールは出しっぱなしになっていた。
連日この体育館はバレー部が使っているということだろう。
三年前と同じだ。
土足では上がれないからローファーを脱いだけれど靴下だけだと床の冷たさが伝わってきて少しそわっとした。
「変わってないね、当たり前かもしれないけど」
「だね。三年しか経ってないし」
三年しか、と言った及川のほうを見る。
たった三年だけどあの頃とはやっぱり違う。
目線がすっかり高くなった及川がわたしを見下ろして「ちょっと話しよっか」と言う。
それに頷いて体育館のステージのほうへ歩く及川に付いて行く。
ひょいっと壇上にあがって腰をおろした及川にわたしもならう。
ステージからおろした足をぶらぶらと揺らして、体育館の真ん中にあるネットとボールを眺める。
こんな風に体育館で何もせずに過ごすことなんてないから不思議な気分だ。
北一に来たいと言ったのはなんとなく思い付きだったけれど、こんな機会でもなかったら来れなかっただろうからよかったかもしれない。
二人でとりとめのない話をしているうちに時間が経っていたらしくて、チャイムが鳴ってハッとした。
「わ、もうこんな時間だ。そろそろ出たほうがいいかな」
「最終下校まではまだあるけど…そうだね」
携帯で時間を確認したら及川も自分の腕時計に目線を落とす。
三日間空いているから会おうと言われた、今日がその三日目。
決して暇なわけではなさそうなのにオフの日をわたしに使ってしまってよかったんだろうか。
さっき先生に「準備は進んでいるか」と聞かれていたから、卒業後の進路のために何かしら動いているんだろう。
その進路をまだわたしは教えてもらっていない。
「なまえといると落ち着く」
「えっどうしたの急に」
「春休みに会えて嬉しかったなって。丸二年会ってなかったから穴埋めには足りなかったけど」
「…ごめん?」
「うん」
足りなかったから大学生になっても会ってよ、とかそういうことを言われるかと思った。
そしたらなんて答えたらいいのか、答えは用意できていなかったけれど流されるように頷いてしまうような気がしていた。
だけど、及川の口から出て来たのはわたしが考えもしていなかったことで。
耳から入った情報を理解するのにちょっと時間がかかった気がする。
「俺、卒業したら海外に行くんだ」
理解が追い付かなくて及川の顔をまじまじと見つめる。
海外、というのがちょっと旅行でとか短期の留学なんてニュアンスじゃないことはわかってしまった。
「海外の大学ってこと…?」
「ううん、海外リーグ」
って言っても何かアテがあるわけじゃないんだけど、と言う横顔は少年みたいだ。
楽しみで仕方ないって顔。
「だから…最後になまえとの時間がほしかった」
最後と言われても全然ピンとこない。
ただ、同じ宮城で同じバレーボール部に所属してどこかで偶然会うかもしれなかった高校三年間とは違う。
甥っ子の付き添いで来ていたバレーボール教室で偶然会ったり、及川がロードワークのついでにうちのほうまで足を伸ばしたり、そういうことももうない。
「最後……」
「そんなおおげさなことじゃないけど。たまに帰って来るだろうし」
冬になりかけの頃、及川と話した時には進路は決まっていたようだった。
春高の最終予選があったのはその少し前だったのにいったいいつから準備をしていたんだろう。
「…そ、っか。びっくりした」
「なかなか言い出せなくて。引き延ばしてたみたいでごめん」
ごめんなんて、謝られるのもおかしい。
「ううん。海外リーグって、どこ行くの?」
「アルゼンチン。入りたいチームがあるんだ」
「あるぜんちん…」
「日本の裏側」
場所はわかるよ、と言ったら笑われた。
まるで修学旅行で沖縄に行ったと話したときに同じような空気で、頭に浮かべる地図が日本から世界に広がっただけなのにどうしてこんなに途方もない気持ちになるんだろう。
「…いま、暑いのかな」
「気温?うん、多分。日本と反対だからね」
「そっか」
どうしよう、何か言わないと泣きそうなのに何も浮かばない。
何か言わなきゃ、どうしよう。
回らない頭ではそんなことしか考えられなくてじわじわとせりあがってくる悲しさとか寂しさとかじゃ表せない気持ちが涙に変わりそうで焦る。
及川はただ静かにわたしの隣にいてくれた。
話を聞いて、最終下校のアナウンスが入ってようやく立ち上がる。
足に力が入っていないのが自分でもわかった。
上手く笑える気がしない。
「なまえ?」
「うん」
嘘だよ、びっくりした?と言ってくれるとでも思ったんだろうか。
驚かせてごめんねと言われてこらえていたものがぶわっと溢れてしまった。
「え、」
「ご、ごめん…あれ、なんでだろ」
自分の意思では止められそうにない涙がぼろぼろとこぼれる。
及川がそんなに寂しい?とちゃかしてくれてたらまだよかったのに、何も言わずに大きな手が頭を優しく撫でるから余計にまぶたが熱い。
数回頭を撫でて引っ込められた手を目で追うと、きゅっと唇を噛みしめている及川と目が合う。
「泣かれるとは思わなかったな」
「ごめん……」
「ううん」
「…いつ出発するの?」
「来週の水曜日」
「えっ、」
そんなにすぐ?という言葉は飲み込んだ。
「卒業式終わったらすぐ行くんだ」
「そっか」
「空港来てくれてもいいよ」
いつもの軽い口調なのに、目尻を下げて真面目な声のトーンで言われると喉の奥がぎゅうぎゅう締め付けられるみたいに痛い。
「来週の水曜日、うち登校日だ」
「なんだ、そっか」
「うん」
もし予定が空いていたら、見送りに行くよと言えただろうか。
(2021.09.02)