14.君の世界で息をさせて

ドキドキなんてかわいい擬音どころじゃなく心臓がうるさい。
茜さんになまえちゃんの出勤日を聞いて自分のスケジュールと照らし合わせてから二週間。
やっとまろんに来ることができた。
お店の扉を開けるのにこんなに緊張するのは初めてかもしれない。
年季の入った、それでいて手入れされている扉を引くとチリンと小さな鈴の音がしてお客さんが来たことを知らせる。
その音に反応したお店の従業員さんが振り向いて「いらっしゃいませ」と言うなんてことのない一連の流れ。
それでこんなに落ち着かない気持ちになるのは相手がなまえちゃんだからだ。
カウンター内にいる茜さんも声をかけてくれていつも通り感が嬉しい。

「真琴くん」
「こんにちは…久しぶり、なまえちゃん」
「うん、久しぶり」

なんだかすごく照れくさくて変な感じだ。
奥の席に案内されてメニューを見ずにカフェラテを頼んだらふわっと変わらない笑顔を向けてくれる。
今日は他のお客さんがいるしあんまり話せそうにない。
深くかぶっていた帽子を外して、眼鏡はそのまま、かばんから次回作の原作小説を出して机に置いた。
読む気になるとは思えなかったけれど手持無沙汰でブックカバーをつけた表紙をめくる。
茜さんがいれてくれるコーヒーもカフェラテも好きだけどなまえちゃんのが飲みたいなとカウンターの中にいる小さな背中を見ていたらエスプレッソマシーンを操作しているようで、もしかして、と頬がゆるみそうになる。
なまえちゃんが運んできてくれたカップを丁寧な動作で机に置いた。
なんだか全部に緊張している。

「元気だった?」
「うん。見ての通り。真琴くんも元気そうでよかった」

会いたかったなんて言えないし、久しぶり元気だった?とありきたりなことしか言えなくてもどかしい。
しばらくここに来ることができなかった理由はなまえちゃんもわかっているはずで、そのことはこの前電話でも話したけれど本当は目を見てちゃんと伝えたかったけれど、それができるならきっととっくにアイドルとファンという関係じゃなくなっている。

「何かの空き時間?」
「うん。またスタジオ戻るよ」
「そっか。じゃあ休憩時間ゆっくり過ごしてね」
「ありがとう」

はにかむような笑顔に胸がぎゅっとなる。
これだけで最近の出来事も、この後の仕事も乗り越えられるような気がする。
ぺこ、と頭を下げたなまえちゃんは店員さんの顔をしていて、最近俺たちは握手会やサイン会をやっていないからまろんでしか会えないんだよなぁと思ってしまう。
普通ならプライベートで会うことすらできないのにどんどん贅沢になっている。
事実ではないにしろスキャンダルが報じられてしまって、俺たちの周りは一層そういうことに厳しくなった。
事務所から恋愛禁止だとは言われていないけれど付き合う相手や出入りする場所には気を付けるよう言われている。
万が一にもなまえちゃんに迷惑がかかることなんてないようにしないといけないとわかっているのに、もっと話がしたいしその声で俺の名前を呼んでほしいと思ってしまう。

少しだけ行動に自由が戻って来たからと言って俺となまえちゃんの関係に変化があるわけでもなく、アイドルとファン…むしろ喫茶店の客と店員さんになっていた。
俺たちの活動内容も少しずつ変わって行って、デビュー時はCDリリースのたびに行えていた握手会やサイン会はやらなくなってしまった。
ファンの子に会えるのは年に一度のライブツアーと、たまにある歌番組の観覧、それから何かの舞台挨拶とか。
直接顔を合わせる機会がなくても手紙やSNSのコメントは読んでいる。
昔から変わらない応援をくれていた子で、この前の騒動で離れていってしまった人もいる。
きっかけがなんであれ、そういうことは珍しくないと思う。
なまえちゃんは、俺とまろんで会ってから手紙をくれなくなった。




「……」
「旭どうしたの?」
「聞かないでくれまだ心の整理ができてない」
「みょうじさんに彼氏ができて落ち込んでるんだよ」
「え……?」

みょうじさんって、もしかしなくてもなまえちゃんのことだ。
まろんで旭と郁弥、それからハルとご飯を食べようと集まったら旭が見るからに落ち込んでいて溜息を吐くから「どうしたの」と投げかけたら理由を答えてくれたのは郁弥だった。
のそり、とつっぷしていた顔をあげて旭が重たい口を開く。

「この前…郁弥と買い物してたんだ」
「う、うん」
「そしたらなまえちゃんが、男と手を繋いで歩いてた……」

はぁ…と口に出すのも嫌だと言うように旭が両手で顔を覆った。

「ショックすぎる…」
「いつまでうじうじしてるわけ?この前連絡先聞かれたっていう後輩の子とはどうなったの」
「そんなにすぐ切り替えられるほど俺は軽い男じゃないんだ…」
「あーもう鬱陶しいなあ」

旭は、多分モテるんだと思う。
昔から旭の周りには人が集まるし、自然と気が配れるし、旭といると楽しい。
中学生の時は女子と喋れないと嘆いていたけれど大学生になってからはそんなこともないようだった。
旭が前からなまえのことを気に入っていることはわかっていて、俺が抱く感情は終着点なんてないものだから旭となまえちゃんがもし付き合うことになったとしても仕方ないよなぁ、なんて考えたことがないわけではない。

だけど、そっか、他の人と。

もう大学二年生だし彼氏がいたってなんの不思議もない。
今までもいたのかもしれない、俺が知らないだけで。
ズキズキと胸が痛い理由はわかっているけれど三人に気付かれないように口角をあげる。

「旭ならすぐ良い人見つかるよ」

なんて、無責任な言葉がするっと出て自分の心が灰色になるような気がした。

「…真琴は大丈夫?」
「え……何が?」
「旭のはちょっとした憧れって言うか、本気で好きだったわけじゃないだろうけど。真琴は違うんじゃない」

みょうじさんのこと、と郁弥が言ったのは旭が席を外している時だった。

「違う、って」
「僕は真琴が他のファンの子と話すところ見たことないけど、みょうじさんはなんか特別なんだろうなって感じしたよ」
「……特別」

郁弥の言葉を否定しても肯定しても、別にどうなるわけでもない。
俺となまえちゃんの間には明確な線引きがあって、だんだんと俺の中で曖昧になってきてしまったその境界は結局のところなくなるものではないということは元々わかっていたことだった。

「そう、だね。でも今の職業を選んだ時点で色々覚悟はしてて。ファンの子を裏切れないし」
「…裏切るって何?彼女を作ること?好きな子がいるってこと?」

郁弥が形のいい眉をひろめた。

「全部、かな」
「聖人にでもなるつもり?恋愛すること自体は悪いことじゃないと思うけど」
「真琴が言っているファンの子って言うのは、今はなまえのことだろ」
「ハル?」
「なまえのことが好きだなんて言ったら、多分なまえは真琴ともう会わない」

じっと俺たちの話を聞いていたハルが、俺がずっと考えていて恐れていることを口にする。
すごいな、郁弥もハルも。
凛にも何も言わなくてもバレてしまっていて、隠さなきゃいけないのに俺ってそんなにわかりやすいんだろうか。

「真琴のファンでいてくれているなまえを傷付けることになる…かもしれない」

なまえちゃんが好きになってくれて応援したいと言ってくれたのはSTYLE FIVEの橘真琴だ。
その好きに恋愛感情が含まれていないことなんてわかっていて、アイドルとファンとして出会ったのだから侵してはいけない領域というものがある。
俺の気持ちを伝えることでなまえちゃんが困惑したり傷付いたりなんてことがあっては絶対にダメだ。
伝えるつもりのない想いはいつか消えてなくなるまで俺だけの秘密として抱えておくつもりでいた。

「良いファン、ねぇ。旭どう思う?」
「何?なんの話だよ」

戻って来た旭に郁弥が投げかけるけれど話の流れを知らないから不思議そうに首を傾げる。
なまえちゃんに彼氏がってショックを受けている旭にそんなこと今聞かないほうがいいんじゃ、と思うのに返事を待ってしまう。

「僕たちと真琴とハルって住む世界が違うと思う?」
「はぁ?何を今更」
「アイドルと一般人が仲良いのっておかしいかな」
「おかしくなんてねーだろ。真琴もハルも、アイドルっつー肩書の前にひとりの人間だし友達だ」
「うん、僕もそう思う。じゃあ友達じゃなくて恋愛は?」
「恋愛ぃ?あー…まぁバレねぇようにとかは大変なんだろうけど」

そこで旭が言葉を区切って顎に手を当てた。

「好きになっちまったんなら芸能人も一般人もないんじゃねーの。同じ人間だし」
「僕、旭のそういう馬鹿でまっすぐなところは結構好きだよ」
「馬鹿は余計だしまっすぐなところは、ってなんだよ!強調すんな!」
「要は考えすぎないほうがいいってこと」
「郁弥……」
「あ、たきつけてるつもりはないよ。決めるのは真琴だから」

ファンの子だからというのも二の足を踏むには十分すぎる理由だったのに彼氏ができたのなら余計に俺の出る幕なんてない。
なまえちゃんが俺を応援してくれているように、俺だってなまえちゃんが楽しく幸せに過ごしてくれることを願っている。
ファンの子には幸せでいてほしい、その生活の一部に俺が関わることができたら、俺の歌がみんなを勇気づけることができていたら、こんなに嬉しいことはない。
これが俺とファンのみんなとの正しい距離の在り方。


だけど、郁弥と旭の言ってくれたことは想いを閉じ込めている硬い殻を溶かして穏やかに染み入るみたいだった。



(2021.08.21)



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