8.二月十四日

忙しすぎて死にそうだ。
いや、スケジュール的にどうってこともあるけれどなまえに会えなくて心が擦り切れそうってそういうこと。
今年のバレンタインは人生で一番楽しみにしていたと言っても過言ではない。
なんて言ったってかわいいかわいい彼女がいて、その子と付き合っていることは社内で知れ渡っているから本命チョコは渡されずに済む。
大好きな子からチョコをもらえて余計なものはもらわない。
なんて平和なことだろうか。
部署の女性陣から男性社員への義理チョコくらいは仕方がないと思うことにしよう、お返しも全体からだと思えば気のつかい方が段違いだ。
そう思って実は年明けくらいから楽しみにしていた。

なのに。
劇団のバレンタイン公演の主演が決まった、これは良い。
主演の特別興行と並行して行われるバレンタイン商戦のプロジェクトメンバーに入れられてしまったのだ。
上司から告げられた時は貼り付けている笑顔が引きつりそうになった。
ふざけんなよ、主演やるってだけでも大変なのに新規立ち上げメンバーって何をどうスケジューリングしても地獄しか見えないんだけど。
長期スパンの仕事ではないけれど、バレンタインといったら商社の業績にも多大な影響があるイベントだ。
毎年恒例である百貨店への出店担当とかならまだしも、今季初めて立ち上げる香水企画と連携して行うようつらつらと話す上司の口をふさいでやろうかと思った。
好き勝手言うのは自由だけどただでさえ抱えている案件が年度末が近いこともあってパンクしそうなんですけど?
部下の仕事量ちゃんと把握してくれてます?
……なんてことは言えるわけもなく、劇団に入っているのは俺の意思だし会社員に仕事の拒否権なんてないから腹をくくって引き受けた。

香水を調香してくれることになった化粧品会社との打ち合わせは想像以上におもしろかった。
MANKAIカンパニーの劇団員をイメージした香水を作るということで全員分の事細かなプロフィールは俺が作った。
一緒に生活している団員たちのことを改めて深く考えて他者に伝える機会なんてそうそうないし監督さんや本人たちにチェックしてもらうのは少し気恥ずかしいものがあったけれど。
結局劇団にも大きな利益になりそうな仕事に繋がったのだから心の中で文句を言った上司には感謝だなと思う。
香水のサンプルが出来上がるまでに展示会について案を詰めていく。
もちろんその間にも公演の稽古があって、平日は遅くまで残業の日が続いたから他の出演者には申し訳ないけれど稽古は土日に朝から晩までと言うことがほとんどだった。
そうなると、なまえと会う時間は本当になかった。



「至さんゾンビみてぇになってるけど」
「……万里か」
「忙しそうっすね」
「うん。忙殺とはこのことかって実感してる」

寮にいれば平日俺の帰りが遅いことも土日は稽古漬けだということも知っている。
談話室で倒れ込んでいる俺に声をかけてきた万里も例外ではないはずだ。
社会人は大変っすねと言う声には哀れみのようなものが混ざっているけれど会社での話は万里にあまりしなくなった。
きっかけはハッキリしていて、こいつがなまえのことを好きなのだろうと気付いてしまってからだ。
なまえのことも、万里の前では口にしないようになった。

「ただ面倒なだけの仕事とは違うし楽しいは楽しいんだけど」
「へぇ。仕事と名の付くもんは全部嫌っつーわけじゃねぇんだな」
「え、嫌ですけど」
「でも会社に行ったらなまえさんがいるなんて羨ましいですよ、いいですねオフィスラブ」
「オフィスラブって」

羨ましいと言ったのは監督さんで、それにつっこんだのは万里だ。
思わず万里の顔を見たらなんてことのない顔をしようとして失敗していた、口元歪んでるけど。

「万里くんはないの?キャンパスラブ!」
「ねーよ、そんなん」
「でもバレンタインまだ先なのにチョコもらってきてたよね」
「先輩に押し付けられただけだっつの。密さんが彼女のフリしてくれたから多分もう平気」
「そっか、総監督としてこんなこと言うのもあれだけど恋愛禁止ではないからね」

至さんもなまえさんがいるし、と悪気なく言っているんだろうけれど俺も万里も今めちゃくちゃ気まずい。
万里が「わかってる」と言った声がいつもよりも硬くて、こいつまだなまえのこと好きなのかなとか思ってしまった。



「至くん、公演とバレンタインの催事お疲れ様でした!」
「ありがとう」

今年のバレンタインは日曜日だった。
諸々落ち着いたのはすっかり夜も更けた頃で、寮では恒例の打ち上げも行われたけれどお開きになって速攻でなまえの家に来た。
一人暮らしのなまえの家に迎え入れられて、思わずコートも脱がずにぎゅっと抱き着いた。
せっかくかわいい部屋着なのに汚したらごめんと謝りはしたけれどしばらく離してあげられなくて玄関で何やってんだろう。
気が済むなんてことはなかったけれど、腕の中のなまえを解放して部屋にあがるとワンルームの中央にあるローテーブルの上にちょこんと紙袋が置かれていた。

「なまえ、これ」と聞くとはにかみながらバレンタインチョコですと期待していた返事が返ってきて「お疲れ様でした」なんて差し出されたからもう一度抱き締める。
ありがとうと伝えた顔はゆるみまくっていたと思う。

「開けてもいい?」
「え、いいけどお腹いっぱいじゃないの?打ち上げあったんだよね」
「うん。でも見たい」

なまえの前ではかっこつけていたいと思っているし実際廃人モードの俺はまだ見せたことがないけれど、二人でいると甘えてしまうから徐々に情けない俺もバレている気がする。
見たいと言った俺に嬉しそうに頷いてくれて、だけど目の前で開けられるの恥ずかしいからコーヒーいれてくるねとキッチンに行ってしまった。

明らかに既製品ではない紙袋から小さな箱を取り出す。
綺麗に巻かれたリボンをほどくのはもったいない気もしたけれど無音カメラでこっそり写真を撮ってから箱を開けたらなまえが焼いてくれたらしいチョコレート色の焼き菓子が宝石みたいに詰まっていた。

「……食べるのもったいなさすぎる」
「え?」
「あ、おかえり。コーヒーもういれたの」
「うん。インスタントだから…」
「聞こえた?今の」
「もったいないって?」
「うん」
「聞こえちゃいました。喜んでくれるのは嬉しいけど食べてくれたらもっと嬉しい」

は〜今の何、かわいすぎでは?
心の声がもれないように必死だよこっちは。

「大事に食べるよ」
「ありがとう」
「こちらこそ」

本当に嬉しそうに笑ってくれるから、チョコレートも嬉しいけれどこうやってなまえと二人で過ごす時間が俺にはめちゃくちゃ大事で体力ゲージが一気に回復したのを感じる。
隣に座ったなまえを引き寄せてしばらく触れ合えていなかった分を埋めるように抱き締めた。
ピンク色の唇にキスを落としたら少し甘いような気がして「なんか甘い」と思ったことをそのまま伝える。

「あ、わかる?バレンタイン限定のチョコの香りがするっていうリップ塗ってみたの」
「…へぇ」

何それ、そんなこと言われたら全部食べつくしたくなるんですけど。
そんな下品なことをなまえ相手に言えるわけもなく、色もかわいいねと褒めてもう一度キスをした。

「至くん、疲れてるのに来てくれてありがとうね」
「全然。俺がなまえに会いたかったから」

俺も良い大人だし外泊しても誰にとがめられるわけではないけれどスーツも通勤カバンも何もないし今日は一旦帰ることにした。
明日月曜だし、泊まるとなまえに負担かけちゃうし。

「あのね、あとこれ…万里くんに渡してもらえないかな」
「…は?」

なまえの口から万里の名前が出たことで体温が下がったような気がして、聞き返した声も低いものになってしまった。

「何これ、チョコ?」

俺にくれたのとは違う、有名チョコレートショップの小さな紙袋。
手作りじゃないみたいだけどそういう問題ではない。

「うん。ちょっとだけなんだけど、前に遊んでもらったから」

前って、二人で遊園地に行った時のことろうか。
もう何か月も経つけど。
それともあの後も二人で会ってた?

俺にチョコを渡してくれと頼むということはなんにも後ろめたいことがないという証拠なんだろうし、なまえの表情もいつもとなんら変わらない、俺の大好きな顔で微笑んでいる。

「友チョコってやつね」
「うん。友達っていうか弟みたいな感じだけど」
「はは、伝えとくわ」

なんて、そのまま伝えたらどんな顔すんだろ。
寮に返って「なまえから」とだけ告げて紙袋を差し出したら万里の顔が哀しそうに歪んだ。



(2021.02.21.)


バレンタインだっていうのにほんのり不穏ですみません…
万里くんは別のお話で幸せになってほしい




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