ex. 星明かりの温度

「橘くんお誕生日おめでとう」

朝、下駄箱で会ったクラスメイトに声をかけられて反射的に笑顔を返した。

「ありがとう」と言う声はいつも通りだっただろうか。
ほしい言葉をくれる人は今もすぐ近くにいるのにもう前みたいに話すことはできない。
毎朝起きては学校に行きたくないと思うし、学校に来たら教室までの足取りは重たい。
それなのに夜眠る前に瞼の裏に浮かぶのは一人だけなんてどうしようもない。

ガラ、と教室の扉を開けるとクラスメイトが口々に「おめでとう」と言ってくれて、みんなよく覚えているなぁと祝われること自体は嬉しい。
ただ誕生日と言えどなんてことない平日なことには変わりないから、自分の机に着いて教科書やノートを用意して一限の授業に備えた。

ふと、斜め前の席に目をやる。
……いや、正直に言えば何気なく見たわけではないけれど。
もう習慣になってしまっているんだ。
朝教室に来てなまえを探すことが。

小さな背中はいつも通りだけれど、やっぱり少し痩せた気がする。
髪の毛は伸びた…なんて、こんな風に見ていることがバレたら嫌われるかな。

「なまえ、おはよー」
「おはよう、ゆうちゃん」
「今日寒くない?」
「もう十一月半分終わっちゃったもんね」

なまえの席の前は彼女と仲の良い女子生徒で、席替えの時に「前後だ」と喜んでいたっけ。
なまえがその子の後ろでよかった。
もしも逆で、なまえが前の席だったら俺がなまえを見ていることがすぐにわかってしまう。
……もしかしたら、振り向いて話すなんてことをしないかもしれない。
ってこれはさすがに自意識過剰か。

欲しい言葉をくれていた人は近くにいるのに、もうずっとまともに顔を見ていないし俺に向けた声も聞いていない。



「……」
「…あ、」

お昼休みが終わりそうなタイミングで空の弁当箱を持って教室に戻る途中、なまえと出くわしてしまった。
「あ、」なんて発してしまったから何か声をかけないと不自然だと思うけれど、こういう時に上手く回らない頭が嫌になる。
久しぶりっていうのもおかしいし、こんにちはじゃ他人行儀だ。
ただの部活仲間だったらお疲れ様、とかなんだろうか。

廊下を歩いていたなまえと階段を降りたところで会ってしまって、教室まではこの廊下を進むしかない。
別々に戻ることもできるけれどなんとなく動き出せなくて、立ち止まってしまったから何か言わなければと思うのに俺が何も言えずにいたら、気まずそうに視線を俯けていたなまえが俺のほうを見る。
これだけで心臓が掴まれたみたいに痛い。

「教室戻らないの?」
「え、あ、うん。戻るよ」
「うん」

ぎこちないやりとりをして二人で歩き出す。
予鈴はとっくに鳴っていてすぐに戻らないと授業に間に合わない。
廊下を並んで歩くのなんていつぶりだろう。
なまえがいるほうの肩に変な力が入っているような気がして、普段なんの意識もせず歩いているのに今は右手と右足が一緒に出そうだ。
教室に戻るまでの道のりがすごく長くて酸素が薄く感じる。
ぐっと握り込んだ手が汗ばんで何か話そうにも喉がひりつくみたいで声にならない。

「…真琴、今日誕生日だよね」
「う、うん」
「おめでとう」

なまえはまっすぐ廊下の向こう側を見て背筋を伸ばして歩いていて目は合わないし声はかたい。
おめでとうとこんなに無表情で言われたことが今まであっただろうか。

「…ありがとう」

しぼり出した返事はなまえの耳にちゃんと届いたようで、夏までは俺を見上げて微笑んでくれた唇はきゅっと引き結ばれていた。




……嫌な夢を見た。
もう二年も前のことなのに忘れた頃にたまに見る、高校三年生のときの夢。
十七歳の誕生日は一緒に過ごして、十八歳の誕生日は実際にはおめでとうの言葉なんてもらわなかったしその日は会話すらしなかった。
今日、二十歳の誕生日に見た夢がこれって我ながら縁起が悪い。
腕の中にはすやすやと眠っているなまえがいて、肺の空気を全部入れ替えるように大きく深呼吸をしてから確かめるように名前を呼んだ。

「…なまえ?」

二人で狭いベッドで抱き締め合って眠ることが日常になりつつある、大学二年生の秋。
十一月にもなると空気は冬のにおいがし始めていてタオルケットと毛布をかぶっていても一人では寒い。
今日みたいになまえが泊まってくれて一緒に丸まっていると不思議なくらい暖かいんだから人肌ってすごいと思う。
時計を確認すると明け方の三時だった。
普段なら俺だって寝ている時間で、なまえの瞼はしっかり閉じられている。
大学生になってからなまえは外で会う時しっかりと化粧をするようになったから普段よりも幼く見える小さな顔を遠慮なくジッと見つめる。
シャワーを浴びた後のまっさらな頬に指を滑らせると少ししっとりしていて、睫毛は何も塗っていなくたって長い。
名前を呼んでも頬を触っても起きないのを良いことに、あちこちに向いている前髪を手で払って頬にキスをする。
……起きない。
なまえの頭の下にあった腕をそっと引き抜くと案の定しびれていた。
腕枕って実は全然楽な体勢じゃないのにやりたくなっちゃうんだよなぁ。
眠っている時も少しでも近くにいたいと思ってしまう。
俺の腕に小さな頭を乗せたなまえが幸せそうに笑ってくれると苦しいくらいに胸がいっぱいになる。
隣にいる俺が体勢を変えても起きる気配がなくて、鼻のてっぺんと頬にもキスをしたけれど起きなくてだんだんおもしろくなってきてしまう。

「なまえ―…」
「ん…」

あ、起きた?と思ったら一瞬眉を寄せて唇をもにょもにょと動かしてからまた穏やかな寝息を立てて眠ってしまう。
熟睡だ。
ベッドに入ったのは日付が変わる前だったけれど、ちゃんと寝たのは多分一時間前くらい。
…疲れさせちゃったのは俺だしなぁ。
なまえの鎖骨の下につけた赤い痕を指でなぞる。
見えるところにつけたことはないし、そんなにたくさん残したこともないけれど朝起きて鏡を見たなまえがはずかしそうにしているところを見たいと言ったら怒られそうだ。
なまえの髪を梳かすように撫でると、指の間を柔らかい髪がすり抜けていく。

時々、不安になることがある。
俺の気持ちは重すぎないだろうか、なまえは俺のことをちゃんと好きでいてくれているだろうか。
何があったわけでもなまえの態度が変わったわけでもなくて、ただ漠然と考えてしまう。
好きだよと伝えれば好きだよって返してくれるのに。
幸せが手のひらを零れ落ちていかないか、悪いほうに考えてしまうのは昔からの癖かもしれない。

丸い頭に添うように何度か手を滑らせる。
起きないで、と思いながら唇を重ねた。
二回、三回と合わせるとまたなまえが細く息をはいた、呼吸がしにくかったのかもしれない。
ぷっくりとした下唇を食べるように自分の唇で挟んで、柔らかさを堪能したところでぺろっと舐めてみる。
これ以上したら俺のほうがやばいなぁと思って顔を離すと、「まこと…?」と小さな声で名前を呼ばれた。

「ごめん、起こした?」

起こした?なんて白々しい、起きないでと思いながら心のどこかで声が聞きたいと思ってやっていたところはある。
なまえが俺の胸に顔を埋めて「うん」とだけ言う。
素肌になまえの息がかかってくすぐったい。
顔が見えなくなってしまったから後頭部を撫でる。

「まこと、眠くないの」
「目、覚めちゃったんだ」
「そう……」

まだまどろみの中にいるようで話し方がたどたどしい。

「あったかい…」
「うん。くっついてるとあったかいね」
「真琴の体温、すきだなぁ」

体温に好きも嫌いもないと思うけれど、なまえが好きだと言ってくれるならなんでもいいか。
頭のてっぺんに唇を落とすと俺と同じシャンプーのにおいとなまえのにおいが混ざった香りがする。
腕の中でなまえがあくびをかみ殺したのがわかった。

「……明日一限やだなぁ」
「うん」

大学の授業は学年が上がるにつれて必修科目が減る。
まだ二年生の俺たちには必修で受けなくてはいけない授業がいくつかあって、明日なまえは一限がその授業なのだ。
一度くらい休んでも単位に影響はないだろうけれどそんなこと言えるわけもない。

「…くっついていたい」
「え?」
「一日真琴とこうしてたいなぁ…」
「…うん俺も」

ぎゅうっと抱き締める腕の力を強くしたらなまえの鼻がつぶれたらしく「痛い」と小さく聞こえた。
なまえがもぞもぞと動いて、俺と顔の位置が同じになるように身体を上にズラしてくれる。
重たそうなまぶたがいつも以上になまえの笑顔を甘く見せて、もう寝ないといけないのに寝かせたくないなんて思ってしまった。
額と額を合わせると薄く笑って目が細められる。
少しだけ顔を傾けてキスを落として、何度も何度も飽きることなく合わせてついばむように柔らかさを味わって、なまえの中に入り込むと暖かくて心臓がぎゅうとなるのにホッとする。
俺に応えるように舌をちょん、と動かすなまえにまた愛しさが増す気がした。
もっと、と思う未練を残して顔を離すとはぁ…と真っ白な胸が上下して寝起きなのにやりすぎたかなと表情をうかがう。

「なまえ?」
「ん……」
「ごめんね、眠いのに」
「ううん、真琴のキス好きだよ」

そう言うとなまえの唇が俺の頬に触れた。
口にしてほしいなぁと思ってしまうけれど、どうやら続きがあるようだから遮らずに言葉を待つ。

「さっき、夢見ててね」
「うん」
「高校生のときの夢」

ぽつぽつとこぼすような小さな声を拾う。

「真琴にフラれたときの、帰り道の夢。夕方だったはずなのに真っ暗で何も見えなくて真琴もいなくなっちゃって」

高校三年の夏、俺はなまえのことをフッた。
好きだったのに「俺と別れて」と言うしかその時の俺には選択肢がないような気がしていたんだ。
逃げた先のほうがずっと苦しくてどこまでも続く暗闇を歩いているみたいに息苦しかったあの頃の話を俺たちはあまりしない。

「ひとりでそこからずっと動けなかった。だからね、今起きたら真琴が隣にいてすごく、なんか、安心した」

離れているからって寂しさで呼吸ができなくなるわけじゃない。
人間は多分そこまで弱くない。
だけど距離を置いた過去があるから、いま隣にいて触れ合えることの愛おしさがわかる。
体温を分け合って不安が溶けてなくなるくらい抱き締め合えることの喜びを噛みしめることができる。

「なまえ、」

ぶり返した風邪のように時折やってくる寂しさは朝になれば消えているだろうか。
だったら朝までこうしてひとつになって丸まっていよう。
話してたっていいし眠ってしまったっていい。
悪い夢なんて見ないように隙間を埋めるように触れてキスをしてお互いの存在を確かめ合おう。

不安になっても、怖くなっても、夜中に目が覚めても、隣になまえがいたら大丈夫だと思える。
なまえに真琴と呼ばれるたびに大丈夫だって、そう思うんだ。
だから俺も名前を呼ぶよ。
「なぁに」と俺の好きな声でくれる優しい音に胸のなかのぐちゃぐちゃが消えていく。
電気は全部消してしまっていてカーテンだって閉めているからうっすらとしか表情は見えないけれど狭いワンルームのベッドで抱き締め合える、それだけでこんなに満たされる。
二人だけの空間は他の誰も触れられなくて、広い世界の中の長い人生のほんの一瞬の宇宙のひとかけらみたいなこの時間を丁寧に愛していきたい。

「そばにいるよ」
「ん」
「俺もさっき、目が覚めて腕の中になまえがいて、」

嬉しいとか、安心したとか、好きだなと思ったとか。
その全部を表す言葉が見つからなくて口ごもる俺を見るなまえの瞳がゆらゆらと揺れている。

「…幸せだなって。この時間がずっと続けって思った」

腕の中のなまえをぎゅうぎゅうに抱きしめた。
このまま夜に溶けて消えてもいいと思ってしまうけれど二人で迎える朝の柔らかい陽射しのあたたかさを、俺たちはもう知っている。



(2020.11.17.)

橘真琴くんお誕生日おめでとうございます。




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -