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「…うちの高校、行事多くない?」
「この間、遠足あったばっかりなのにね」
春から夏に変わる季節の少し強い日差しの中、広いグラウンドに学校指定のジャージと体操服に身を包んだ全校生徒が集まる。
生徒たちの頭には、縦割りで決められた色とりどりのハチマキ。
校長先生の長いありがたーいお言葉を聞いて、各軍の応援団長の選手宣誓と体育祭実行委員長の開会宣言が終わったら、
岩鳶祭一日目、体育祭が始まります。
一年生女子が出場必須の競技は大縄跳びと借り人競争だけで、人によってはリレーだったり応援合戦だったりがあるけれど、そんな運動神経を持ち合わせていないわたしは必須競技だけの参加だ。
午前と午後にひとつずつしかないけれど、わたしは保健委員の手伝いがあって少し慌ただしい。
せめて自分のクラスの男子が出る競技は見たいなぁ、と思っていたけれどシフト表を見ていたらどうやら難しそうだ。
橘くん、運動神経も良さそうだなぁ。
…応援、したかった、かも。
なんて。
女の子たちに騒がれる橘くんの姿が容易に想像できて、なに考えてるんだろう、とすぐに頭の隅に追いやった。
保健室からかろうじて見えるグラウンドの様子を眺めていたら、ノックもせずにガラッと扉が開かれた。
「みょうじー手ぇ怪我した、手当頼んでいい?」
「井上くん。転んだの?」
「いや、綱取りで競ってさー」
ほら、と両掌を見せてくれる井上くんの手は確かに赤く血が滲んでいた。
「うわ、痛そう……」
「軍手しとくべきだったわ」
手ぇ洗ってきた?と聞けば肯定が返ってきたので、コットンに消毒液を含ませてポンポンと消毒していく。
掌だから絆創膏貼らないほうがいいかなぁ、と逡巡していると、手当をしていた井上くんの手が、ピンセットを掴んでいたわたしの右手を掬った。
「え、」
「…みょうじさ、彼氏いないよな」
「うん、いないけど、え?」
「好きな奴は、」
わたしの困惑なんて見ないフリをして井上くんが言葉を続ける。
…続けようとした。
井上くんの言葉に被せるようにして響いた短いノックの後、ガラッと保健室の扉が開いて体操服姿の男子生徒が入ってきたことで井上くんが言葉を呑み込む。
「あれ、みょうじさんと井上くん……?ごっごめん!」
「橘!違うから!あーみょうじ、手当ありがとな」
咄嗟に踵を返そうとした橘くんを井上くんが引き留めたかと思ったらそそくさと保健室から出て行ってしまった。
取り残されたわたしと橘くんの間には妙な空気。
「た、橘くんも怪我したの?」
「え?!あぁ、うん…ちょっと擦りむいちゃって」
そう言って肘のあたりを指差す。
さっきの井上くんと同様、洗ったかと聞けば橘くんからは「洗ったほうがいいの?」との返事。
しっかりしているように見えて抜けているのかもしれない。
「傷口に砂ついちゃってるから水で流したほうがいいよ」
肘だと自分から見えにくいだろうから、と橘くんを水道まで連れて行って傷口を流す。
消毒をして大きめの絆創膏を貼れば手当は終わり。
「ありがとう」
「いえいえー橘くんも綱取り?」
「いや、俺は棒倒しで…」
男子の競技はハードだねぇ、と救急箱を仕舞いながら話していたら、橘くんが「あのさ…」と言いにくそうに切り出す。
「みょうじさんと井上くんって付き合ってるの?」
「え?!付き合ってないよ!さっきのは、その、手の怪我だったから」
さっきから橘くんがこっちを見ない。
いつも通り穏やかな声だけれど、心なしか早口。
歯切れが悪くなるのはしょうがない。
わたしだっていきなりあんな、手を掴まれた、それだけって言ってしまえばそれまでだけれど、あんなことをされた理由がわからない。
「…よかった」
「へ?」
「じゃあ彼氏は、いる?」
橘くんは俯いていて表情が見えない。保健室の外から聞こえる応援の歓声が遠く感じた。
「…ごめん、やっぱりなんでもないから気にしないで!」
わたしが返事をする前にガタンと立ち上がって、そのまま顔も見ずに「手当ありがとう」と言って保健室の出入口へと一歩踏み出した。
待って、と言おうとした口は動いてくれなくて。
でも気が付いたら彼のTシャツの裾を引っ張って引き留めいて、驚いたように橘くんがつんのめる。
「いないよ、彼氏」
借り人競争、というのは借り物競争の人バージョンといえばわかりやすいだろうか。
お題には「もの」ではなく「ひと」…例えば「数学の先生」などが書いてあるらしい。
入学したばかりで決して校内に友達が多いわけではないのに大丈夫だろうか…と不安しかないけれど、そんなことを言っていてもレースは始まる。
スタートラインに立つと、クラスメイトたちの応援の声が聞こえた。
「なまえー!頑張れー!」
パンッと乾いたピストルの音と共に走り出す。
短い直線距離を走って、お題の書かれた紙を引っ掴んでおぼつかない手つきで開く、と。
(えぇぇ……)
どうしよう、紙を見たまま一瞬固まってしまう。
我に返って周りを見渡すけれど、お題に沿う人物なんているわけがない。
他の子たちがどんなお題を引いたのかわからないけれど、みんなもまだ「借り人」できていないようで、次第に声援の声も大きくなっていく。
「なまえー!」
「みょうじ、とりあえず誰か連れてゴールしろ!ゴールすることが大事だ!」
とりあえずって何?!
誰かって誰?!
「みょうじさん、頑張れー!」
急がなければと思えば思うほど焦ってしまい、周りをキョロキョロ見渡す。
そのとき耳に飛び込んできた声のほうを振り返ると、声を張り上げている橘くんがいた。
まだ橘くんのことよく知らない。
けど、いまこの紙に書いてある言葉に当てはまるのは橘くんだって、そう瞬間的に思った。
「橘くんっ一緒に来てもらえるかな…!」
無意識に握りしめていた紙はグシャッとなっていたけれど、橘くんはすぐに察して応援席から出てきてくれた。
とにかくゴールしなければ終われないから橘くんと走り出したのだけど、実況のアナウンスがまた余計なことを言い出す。
『トップを走っているのは一年一組のみょうじさんとー!借り人された橘くんだー!けど二人とも手を繋いでくださいね!繋いでないとゴール無効ですよ!』
「えぇ?!」
「そんなルールあったの?!」
「みょうじさん、」
驚いたのも一瞬で、橘くんにすぐにちょっとかしこまった声色で名前を呼ばれる。
少し走る速度を落として橘くんを見上げると困ったように眉毛を下げて、手を差し出してくれた。
「ご、ごめんね…失礼します」
差し出してくれた橘くんの大きな手を取ったら周りから悲鳴に近い歓声が聞こえて思わず繋いだ手をぎゅっと強く握ってしまった。
橘くんファンの全校生徒のみんな、ごめんなさい…!
そのまま半分引っ張られるような状態でグラウンドを走り抜け、一番にゴールテープを切った。
「橘くん、いきなりごめんね…ありがとう」
「いえいえ、役に立てたならよかったよ」
普段運動なんて体育の授業でしかしないから、少し走っただけなのに息が上がる。
心臓がバクバク言っているのは走ったせいか、繋いだ右手から伝わる橘くんの温度のせいか。
…と、そこでようやくゴールテープを切った後も手を繋いだままだったことに気が付いた。
「あっごめんね!」
パッと勢いよく手を離したら、橘くんも繋ぎっぱなしだったことに気が付いていなかったようで「え、あ、俺もごめん!」と二人で謝り合ったから少し笑ってしまった。
「ねぇ、その紙なんて書いてあったの?」
離した手の反対側の手で握りしめてしまっていたお題の書いてある紙を指差して聞かれる。
そりゃあ気になりますよね。
自分が駆り出されたんだもん。
「えっと、クラスの男子、って……言うのは嘘で、」
うん?と不思議そうに眉を下げる橘くんの顔を直視できなくて、言葉を続けることもできなく、無言でぐしゃぐしゃになってしまった紙を橘くんに差し出す。
見ていいの?と断りを入れてくれる。
優しいなぁって思うけど、紙を開いた一瞬あと、柔らかく笑っている表情が固まった
「これ、本当?」
曖昧に笑い返すと、グラウンドの反対側で次のレースのスタートを知らせるピストルの音がまた鳴った。
「好きな人」なんて言葉に当てはまるかはまだわからない。
それでもいちばん近いところにいるのは、目の前で顔を赤く染めている橘くんだって、そう思ったんだ。
(2014.11.08.)