10.うたかたの夜

今日はなまえちゃんと練習の日、と少しわくわく…なんて言ったら多分また凛に怒られるけれど、仕事終わりにまろんに行ける日はいつもよりも頑張れる気がするのは多分気のせいではない。
何回か練習を経て、家でも空いた時間に練習を続けていたらコーヒーはスムーズにいれられるようになった。
何事も楽しみながらやるって大事だよなぁと思いながら閉店時間ギリギリにまろんの扉を開けると、店内は落ち着いていたけれど旭と郁弥がいた。

「おー真琴じゃねぇか!一人で来るの珍しいな」
「仕事帰り?お疲れ様」

扉を開けたら二人がいて、会えて嬉しい気持ち半分、練習どうしようという気持ち半分。
映画の役作りのための練習でまだ未公開の情報は友達だからってあんまり人に言っていい話ではない。
なまえちゃんも茜さんもそのことをわかってくれているから、旭にも練習のことは話していないようで。
屈託のない笑顔で旭が「飯食ったか?」と同じテーブルに招いてくれてメニューを開いて渡してくれた。

「ご飯はケータリングが出たからもう食べたよ」
「そうか。じゃあコーヒー?」
「あー…いや、うん」
「どっちだよ」
「真琴だってたまには他のメニュー頼みたい時くらいあるでしょ、ゆっくり選ばせてあげなよ」

旭の気遣いも郁弥の優しさもありがたい。
ありがたいのだけど。
チラッとなまえちゃんのほうを見たら、なまえちゃんも少しだけ困ったように眉を下げていた。
旭たちは閉店時間を過ぎてもお店にいることがあるから今日はもしかしたら練習はできないかもしれない。

「なまえちゃん、」
「いらっしゃいませ、真琴くん」
「こんばんは」

お冷とおしぼりを持ってきてくれて「お決まりですか?」と聞かれたときに多分変な空気になったことに旭が気付いた。

「えっと…」
「……お前ら今日どうした?」
「どうしたって?」
「いや、なんか変じゃねぇか?な、郁弥」
「僕に振らないでよ」

幸いもう他にお客さんは残っていなかった。
ラストオーダーももうそろそろという時間で新規のお客さんが来ることもないはずだし、二人のことは信頼している。
隠していて不信がられるほうがよくないなと思った。

「実は……最近なまえちゃんにコーヒーのいれ方とか教えてもらってるんだ」
「は?」
「まだ情報解禁になってないから秘密なんだけど、今度撮影する映画の役でカフェ店員をすることになって」
「あぁ、なるほど」
「なるほどって一人だけ理解すんな!」
「真琴、家事全般すごかったじゃん。みょうじさんに泣きついたってところでしょ」
「泣きついた…否定はできないけど……」

なまえちゃんも聞いているところなのに…恥ずかしくてコホンとわざとらしく咳ばらいをする。

「それで、なまえちゃんがいる日で俺が来れる日だけ開店前か閉店後に教えてもらってて。今日もその日」
「ふぅん、まぁ僕たちのことは気にしないで練習したら?」
「てか練習でいれたやつ飲ませてくれよ」
「えっいいの?いつも余っちゃって練習用のコーヒー豆とはいえもったいないなぁと思ってたんだ」
「おう。真琴は練習できて俺らはコーヒー飲めて一石二鳥だな!」

早速やろうぜー!となぜかやる気満々の旭がテーブル席からカウンターに移動して、それに溜息をつきながらも付き合う郁弥はなんだかんだ良いコンビなんだよなぁ。
なまえちゃんがきょとんとしていたけれど「…そういうことみたいだから、今日もよろしくお願いします」と言ったらいつものようにはにかんでくれた。



「コーヒーはもう大丈夫だと思うから、今日からラテアートの練習をします」

念入りに手を洗ってから持ってきたエプロンを腰に巻くとそれだけで旭が「雰囲気出るじゃん」と褒めてくれたのに、なまえちゃんの言葉に眉をひそめた。

「ラテアートぉ?真琴が?」
「…大丈夫なの……?」
「ちょっと二人とも野次は入れないで」
「野次じゃねぇよ、心配してんだよ」

俺の家事のダメっぷりを知っている二人が目を細めて「大丈夫か」と言うけれど、さっきなまえちゃんが言ってくれた通り俺だって少しは成長しているんだからな。
そんな会話の様子を微笑まし気に見られて少し恥ずかしかった。
だけど「まずやってみるね」と、なまえちゃんはひとつずつ丁寧に教えてくれるから、一言一句、一挙手を逃さないようにする。
シャンと伸びた背筋から喫茶店の仕事が好きなんだろうなぁというのが伝わってくる。

「で、このもこもこになった牛乳の泡をゆっくりそそいで…こうなります」
「俺もやったことあるけど、その泡作んのがむずいんだよな」
「僕できるけど」
「えっ郁弥できるの?」
「うん。しばらくやってないけど多分まだできるよ」
「まじかよ、すげーな!じゃあみんなでやろうぜー」
「えっ」
「旭には負けないよ」
「勝ち負けとかじゃ…俺の練習は……」

勝負事になると急に人の話を聞かなくなるのは中学生の頃から変わっていない。
旭も郁弥もどっちがうまくできるか勝負だ、と言い始めて座っていたカウンター席からキッチンに入ってくるけれどデカい男が三人も入ったらスペースはぎゅうぎゅうだ。
押し込められた俺となまえちゃんは目を合わせて思わず苦笑い。

だけどカップとミルクピッチャーを手にしてエスプレッソマシーンの前に立った郁弥の手元を見たなまえちゃんが驚いたように声をあげた。

「え、桐嶋さん上手ですね」
「友達でこういうの得意な奴がいるんだ。家にエスプレッソマシーンとかあって」
「家に?すごいね」
「コーヒー好きらしくてよくカフェ巡り付き合わされる」
「もしかして彼女さんですか?」
「違うよ、男友達」
「でも遠野は郁弥にべったりだよな」
「遠野さんっていうんですね」
「そう。霜学の水泳部」
「今度なまえちゃんも水泳の大会見に来いよ、霜学も鷹大も出るやつ」
「旭はみょうじさんに良いとこ見せたいだけでしょ」
「ぅおい!郁弥!!」
「うるさいよ旭」

ちょっとだけ疎外感というか、俺のためになまえちゃんが時間を作ってくれているのにと心の中で思う。
それが聞こえたわけでは絶対にないのにすぐになまえちゃんはくるっと俺の方を向き直ってくれた。

「真琴くんは真琴くんで練習しよっか」
「うん、なんかごめんね」
「なんで?全然、楽しいよ」

なまえちゃんの、この本当に楽しいって感じに目尻を下げてとろけるみたいに笑う表情が昔から好きだった。
握手会の短い時間だとなまえちゃんの言葉を一方的に聞くだけで終わってしまったり、質問してくれたことに端的に答えて数回の会話のキャッチボールだけで終わってしまったり。
俺から何か話題を振ることもあったけれど決められた時間の中での会話じゃ物足りなかった。
…当時はそこまで明確に思っていたわけではないけれど、こうやって話せるようになるとあの頃はあんな短いやりとりだけでよく話せていたなぁと思う。

「わ、真琴くん牛乳こぼれる!」
「えっうわ…これどっちに回すんだっけ…!」

牛乳を入れたミルクピッチャーをスチームして温めているときになまえちゃんとのことをぼんやりと考えてしまって気が付いたらぼこぼこと牛乳が沸騰しかけていた。
慌ててスチーマーを止めようとしたけれど焦ってしまってスチーマーのダイヤルをどっちに回せば止まるんだっけ?!と慌てている間にピッチャーから牛乳があふれてしまう。

「わ、真琴くん、こっち…!」

見かねたなまえちゃんが、俺の手からピッチャーを奪うように取ってダイヤルを回してスチーマーを止めた。

「ご、ごめん…牛乳が」
「それはいいから、真琴くん手、」
「え?」

ぐいっと手を引かれて水道のほうに連れて行かれる。
そのままジャーっと流れる冷水になまえちゃんの手ごと、さっき温めた牛乳をかぶってしまったところを冷やしてくれているのだとわかった。
なまえちゃんが咄嗟のこととはいえ俺の手を握ったことに驚いたけれど、小さな手が少しだけ震えていることに気が付いて何も言えない。
どうしよう、と俺の顔を見上げる瞳は泣きそうだ。

「大丈夫だよ、これくらい。そんなにかぶってないし」
「でも…タオル持ってくるからもう少し冷やしててね」
「うん」

俺が機械の操作を間違えたせいなのにまるでなまえちゃんが痛いみたいな表情だった。
旭と郁弥も心配してくれて、冷やしている俺の手となまえちゃんがタオルを取りに行ったバックヤードの扉を交互に見ている。

「真琴大丈夫か?」
「うん、ちょっと牛乳かかっただけだよ」
「みょうじさん慌ててたね」
「まぁ自分の好きな人が火傷したかもってなったら焦るわな」

好きな人、と言われて心臓が浮いたような気分になるけれど旭が意味するところは「好きな芸能人」で、そこにひっかかりを覚えてしまう。
相手が俺じゃなくたって怪我をしたかもしれないとなったらなまえちゃんは同じようにしたはずだ。
俺だけが特別なんかじゃない。
見ないフリをしていた痛みが熱になって、じわじわと身体全部を侵食するみたいなのに冷水に浸した手から冷静になれと冷やされていくようだった。
タオルを持って戻ってきたなまえちゃんがこれ以上気に病まないように笑顔を浮かべたら泣きそうな顔で笑ってくれた。



(2020.10.04.)




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