9.晴れた朝のこと

「茜さんにお願いがあります」


冬の寒さが和らいで、季節はまた春が巡ってきた。
夏にクランクイン予定の映画で今までやったことのないカフェ店員の役をいただいて、今は絶賛準備期間だ。
準備、といっても所作とか言葉づかい、時代背景の勉強があるような作品ではない。
大学生のカフェ店員役なんて等身大というか、普段の俺に近い役どころで作り込みすぎないほうがいいですね、と演出家さんやと話をしていた、のだけれど。

「実は、今度とある作品でカフェで働く人物を演じることになって…」
「へぇ、いいね、似合いそう」
「ありがとうございます。実際にコーヒーをいれるシーンとかがあるんですけど」
「うん」
「それで……俺、壊滅的に台所まわりのことが苦手で」
「戻りました、って真琴くんだ」

今日はオフだったから開店してすぐのタイミングでまろんに来た。
普段は奥のテーブル席に座るけれど、今日は話したいことがあってカウンター席に座る。
茜さんに「お願い」を切り出していたらお使いに行っていたらしいなまえちゃんが戻って来て俺を見て目を丸くした。
何回かまろんで会っているけれど、まだ慣れないらしい。
会うたびにおどおどと目を泳がせているなまえちゃんはかわいいなと思う。

「おはよう、なまえちゃん」
「お、おはようございます…」
「えっ何?」
「ちょっと今おはようを噛みしめているところ…」

確かに握手会の時に朝の挨拶をすることってないかもしれない。
そう言われると意識してしまってちょっと恥ずかしいな、と思っていたらすぐになまえちゃんは切り替えていて、手を洗って茜さんと同じエプロンをつけたら「買ってきたもの奥にしまってきますね」とまた引っ込んでしまった。

「で?台所まわりが苦手で、どうしたの?」
「あっはい…!プロのフードコーディネーターさんがいろいろ教えてくれることになってこの前初めて練習したんです」

茜さんがうんうん、と聞いてくれる。
なまえちゃんがいないところでよかったかもしれない。
料理が苦手ってことはファンのみんなも知ってはいるはずだけれど、こんな情けない話は聞かれたくない。

「だけど全然ダメで…予定していた練習スケジュールだけだと間に合うかどうかって話になっちゃって。時間があるときに自主練してくださいって言われたんです」
「なるほど、コーヒーのいれ方を教えてほしいと?」
「はい……」

忙しいのに申し訳ないけれど、こんなことを頼める人は他にいない。

「ん〜わたしは別にいいけど、」
「茜さん、このコーヒー豆って……何かあったんですか?」
「なまえちゃん」

あぁ、戻ってきてしまった……。
なまえちゃんに会えたことは嬉しいのに、今日ばかりはいないでほしかったかもしれない。

「そうだ!なまえちゃんに教わったらいいんじゃない?年も近いしわたしよりやりやすいでしょ」
「えっ?!」
「お、教わるってなんの話ですか?」
「コーヒーのいれ方。役作りで勉強したいんだって」
「あ、あとカフェラテとか…ラテアートが最終目標なんだけど…」
「ラテアート?真琴くんが?」
「……フードコーディネーターさんには先が長いって苦笑いされた」

俺の不器用さを知っているであろうなまえちゃんが驚いたように目を丸くしたあとに苦笑いを浮かべる。
なまえちゃんの表情がくるくる変わる。
呆れられたら嫌だな。

「わたし教えられるほど上手じゃないですよ」
「でも基本くらいはできるでしょ?」
「なまえちゃんがいれてくれたカフェラテ、おいしかったよ」
「真琴くんが来れる日になまえちゃんがシフト入ってたらってことにしたら?」

茜さんがどんどん話を進めて、俺となまえちゃんは顔を見合わせるけれどそれだけでもなんだか心臓のあたりがむずがゆい。

「…どうかな、なまえちゃん」
「わ、わたしでよければ……頑張ります」
「頑張るのは俺だよ。ありがとう!」
「……朝からアイドルスマイルが眩しい…」
「あはは」

そんなこんなで俺の先生はなまえちゃんになった。

「けど勤務時間に教えるのって、まろんの仕事に差しさわりませんか?」
「真琴くんが来るのって落ち着いてる時間帯だから大丈夫だと思うけど…」
「あの、迷惑じゃなかったらわたしのシフト真琴くんに教えて、真琴くんが来れる日がわかったら事前に連絡もらえればわたしバイトの前後空けておくようにするよ」

どうかな…?となまえちゃんがうかがうように俺を見上げる。
俺がお願いしたことなのになんでなまえちゃんがそんな顔するんだろう。

「も、もちろん連絡さんは茜さん通してもらって…」
「なまえちゃんがそれで大丈夫なら」
「うん、大丈夫」
「じゃあお願いします」

それから、なまえちゃんのシフトを教えてもらって俺の行ける日は茜さんを通して連絡することになった。
茜さんからはなまえちゃんの文面がそのまま送られてくるから、なまえちゃん本人とやりとりしているみたいで不思議だ。
本当なら間に誰か挟まずに連絡を取ったほうが早いんだろうけれど、そういうわけにもいかないから。
俺となまえちゃんは、連絡先を教えてほしいなんて絶対に言ってはいけない関係だ。




「では、始めます!」
「お願いします!」

今日はまろんの開店時間前にキッチンを借りて練習をする日だった。
茜さんが仕込みをしている横で邪魔にならないように、俺は背が高いし身体つきもしっかりしているほうだから余計に気を配らないと。
なまえちゃんはいつものエプロンで、俺は持ってきたサロンエプロンを腰に巻いていた。

「それ、真琴くんの私物?」
「うん。スタイリストさんが巻いているだけで雰囲気出るだろってくれたんだ」
「そうなんだ、似合うね」
「えっありがとう…」
「真琴くんなんでも似合うからなぁ」

衣装を着ている時に褒めてもらうことは今までもあったと思うけれど、もらいものとは言え私物を身に付けている時にそんな風に言われると少し照れる。
なまえちゃんもエプロンかわいいね、と思っていたことを伝えられたらいいんだけど世間話をしていたら貴重な時間がなくなってしまう。
無理を言って茜さんにもなまえちゃんにも協力してもらっているのだから頑張らないと。

「そうだ、これ事務所が用意してくれたんだ」
「教材?」
「うん。コーヒーのいれ方の通信講座があるんだって」
「知らなかったなぁ。見てもいい?」
「もちろん」

教材と一緒に送られてきたコーヒー豆も持ってきていたからカバンから取り出す。
届いてきた日にテキストには目を通したけれど文字を追うよりも実際に見てやったほうがよさそうだなと思った。
なまえちゃんがパラ、とめくったテキストを俺も覗きこんだら小さな肩が跳ねた。

「っ、真琴くん」
「え?」
「急に近いのは心臓に悪いので、あの、」
「あ、ごっごめん…!」

そっか、今のは近かったのか。
意識していたわけではないけれど、昔から知っている子だからか気が緩んでいたのかもしれない。
真琴はパーソナルスペースが狭いと凛にも言われたことがある。
なまえちゃんが顔をあげたときに至近距離で目が合って、俺も時差で恥ずかしさが込み上げてきた。
じわじわと顔が熱くなる。

「えっと、テキストに沿ってやるならまずはペーパードリップかな。これはそんなに難しいことないと思う」
「う、うん!よろしくお願いします」

顔を赤くさせたまま不自然に目を合わせてくれないなまえちゃんが早口で言うから、つられるように勢いよく俺も返事をした。



……こんなはずでは、なくって。

なまえちゃんと鉢合わせしてしまったから、まろんには今までのように来ることができるようになった。
俺のためにってなまえちゃんがバイトを辞めることもなくなった。
だけどファンとアイドルという立場が変わるわけではないから、必要以上に親しくするつもりなんてなかったんだ。
茜さんに協力してもらうなら事務所に報告することじゃないと思っていたけれど、思いがけずなまえちゃんに教わることになってしまったからこれはもう絶対にバレてはいけない。
知り合いのお店だからって許容してくれることとそうでないことはあるだろう。
ラインを越えないように、それがなまえちゃんのためにもなるような気がした。

コーヒー豆を挽いて、お湯をわかして、ドリップのためにペーパーのフィルターを用意し、慎重にカップにそそぐ。
工程でいうと数えるくらいしかないのにどうしてこんなに苦戦するのか我ながら不思議だ。
一度にひとつのことをするのが苦手なのか、たんにキッチンで何かするというのが苦手なのか。
豆を挽いている間にお湯をわかそうとしたらふきこぼしてしまうし、フィルターにコーヒーを入れようとして盛大にこぼすし。
フィルターにお湯をそそぐときはなまえちゃんがすごく言いにくそうに「真琴くんってけっこうダイナミックだよね」と苦笑いをしていた。
褒められていないことはわかった。


「……どうかな?」

てんやわんやしながらいれたコーヒーをなまえちゃんと二人で飲む。
見た目はまぁ普通のコーヒー。
香りも悪くないと思う。
というより基本の手順でコーヒーをいれてまずくなることってそうないような気がするんだけど。
俺も緊張していたけれど、カップを両手で持ってコーヒーの表面をジッと見つめてから一口飲んだなまえちゃんも表情が緊張からか少しかたい。

「うん、おいしいよ」
「本当?」
「ほんと」

だけどそう言ってくれた顔はすごく優しくて、ホッとしたのになんだか苦しくて。
何回かやれば普通にコーヒーいれるのは大丈夫そうだね、となまえちゃんも微笑んでくれたら胸のあたりに変な痛みが走った。

「真琴くん、もうそろそろ出なきゃいけない時間じゃない?」
「うん。慌ただしくてごめん」
「ううん。あの、ちょっとだけ待てる?よかったらカフェラテいれるよ」

やり方見てもらうだけでも参考になると思うし、となまえちゃんがはにかむ。
お言葉に甘えてラテアートにしてくれるというなまえちゃんの横で手元をジッと見るけれど本当は横顔に目がいきそうになってしまう。
向かい合わせで話すことがほとんどだったのに、この前もカウンターで横並びに座ったり今日はこうしてキッチンに一緒に立ったり。
俺よりもだいぶ低いところにあるなまえちゃんを見下ろしながら、さっき感じた痛みを逃がそうと細く息をはく。
本来の目的以外のことにいきそうな意識を軌道修正しないと。
せっかく協力してもらっているんだから。
だけど「エスプレッソを抽出している間にフォームミルクを作ります」と料理番組のようにかしこまった口調で言うなまえちゃんがかわいくて、やっぱり一瞬息が詰まるような感じがした。
俺がそんなことを考えている間にもなまえちゃんはてきぱきと作業を進めていて、紙のカップにエスプレッソとふわふわのミルクを丁寧にそそぎ入れるとあっという間にハートの形が浮かび上がる。

「すごいね、綺麗なハート型だ」
「最初はわたしも全然できなかったよ」
「これ、持って帰ってもいいの?」
「もちろん!お仕事頑張ってね」
「ありがとう。じゃあ、また」
「うん。こちらこそありがとうございました」

なまえちゃんのいれてくれたカフェラテ片手に仕事に送り出してもらうって不思議なシチュエーションすぎる。
スタジオ入りした瞬間に「だらしない顔してるぞ」と凛に言われてしまった。
マスクと眼鏡をしていたから多分道行く人たちには見られていない、と思いたい。



(2020.09.04.)



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