▼ 8.僕だけの特別
「り、凛くんまで来た……」
まろんの扉を開けて、来客を知らせる鐘がチリンと鳴ると店内にいたなまえちゃんが「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えてくれたのに、客が俺たちだとわかるとぎょっとしたように目を丸くさせた。
撮影を終えてメイクを落として、マネージャーさんとハル、凛と四人でスタジオを出た。
まろんに返しに行くコーヒーポットは既に車に積んでくれていて、まろんの場所も把握済みたいだ。
二十分ほどで着いたまろんの前でマネージャーさんがポットを降ろそうとしてくれたけれど店の中に入られるのはまずい。
なまえちゃんがここでバイトしているってことが、なまえちゃんの顔を知っている事務所スタッフにわかったら多分もうここに来ることはできなくなる。
マネージャーさんがファンの子の顔を覚えているかはわからないけれど、万が一でもリスクはないほうがいいに決まっている。
「あ、ポットいいですよ。ありがとうございます」
「でも重たいですよ」
「いやいや、西村さんより俺のほうが絶対力ありますから」
マネージャーの西村さんはひょろっとしていて俺よりもだいぶ線が細い。
成人男性だからこれくらい持てるだろうけれど「俺たちが言い出したことにこれ以上手をわずらわせるのも悪いので」と言えば案外あっさり引いてくれた。
「じゃあお店の方に一言ご挨拶を…」
「スタジオで散々してたじゃないっすか」
「そうだけど、」
「そう何度もされても困ると思いますよ」
「…それもそうだね。逆に気をつかわせてしまいますよね」
「そーいうこと。じゃあまた明日。お疲れ様でした」
「送ってくれてありがとうございました。また明日!」
「お疲れ様でした」
凛がうまいこと丸め込んでくれて、二台あったポットは俺とハルが抱えた。
西村さんの運転する車が去って行くのを確認してから三人でまろんに入ると、笑顔で迎えてくれたなまえちゃんが複雑そうに表情を変えた。
「り、凛くんまで来た…」とやりとりをした後に俺とハルの持っているコーヒーポットに気が付いたようだった。
「茜さんが言ってたケータリングの返却ってもしかして、」
「うん、それ俺たちだと思う」
「こういうのってお店が取りに行くのが普通なのに……」
「茜さん忙しいんじゃないかと思って」
重いよね、持ちます、と言ってくれたけれど西村さんならまだしも相手はなまえちゃんだ。
自分よりもずっと小さくて細い腕をしている女の子にこんなに大きいものを持たせるわけにはいかない。
…いや、普段は仕事で持つこともあるんだろうけど。
「じゃ、じゃあここのカウンターにお願いします」
「うん、了解」
俺たちが譲らないことを察したらしく店の入り口で押し問答しているわけにもいかないと思ったのかなまえちゃんが近くのカウンターを指した。
「久しぶりだな、元気だったか」
「り、凛くんにそんな友達みたいな対応されたことないです…」
「はは、まぁいいじゃん。席どこ座ってもいいのか?」
「奥の席が空いてますのでそちらへどうぞ。ご案内いたします」
「かてーなぁ」
四人掛けの席へ案内されて、置いてあったメニューを見ていたらなまえちゃんがお冷とおしぼりを持ってきてくれる。
「ご注文がお決まりの頃にまたお伺いいたします」
「なまえのおすすめは?」
「なっ、」
「は?」
「なんで凛くんわたしの名前知ってるんですか……」
「そりゃ楽屋でいつも真琴が、」
「あー!ちょっと凛?!」
「あ、悪い。つい」
「ついじゃないよ!ごめんね、なまえちゃん。決まったら声かけるから」
「う、うん……」
ファンにプライベートで会うなんてありえない、繋がるなんてもってのほか、と言っていたくせに、凛がとんでもないことを言おうとするから慌てて止めたけれど多分聞こえてしまっていた。
お互いプライベートな状況で俺と会ってしまったことを、なまえちゃんがあんまりよく捉えていない。
好きなアイドルのオフに会えてラッキー、くらいに思ってくれたらこっちも気が楽だったかもしれないけど、そういう子だったら俺もこんな気持ちにはなっていないだろうな。
「で、お前らいつも何食ってんだよ」
「…ハルはアジフライが多いよね。俺は色々頼むけど、この前はカレー食べたよ」
「こういう渋い店のカレー美味そうだな」
「美味しいよ、おすすめ」
チラ、と店内を見回と、なまえちゃんがカウンター内からコーヒーポットをキッチンに移動させているところだった。
手伝ってあげられたらいいんだけどそこまで手を出すわけにもいかないしなぁと思っていたら茜さんがバックヤードから戻って来た。
「戻りましたー」
「おかえりなさい、ケータリングのポット返ってきたので九番テーブルさんのオーダー取ったら洗いますね」
「うん、ありがとう!ってことは、」
「…茜さん、真琴くんたちが来るって知ってたなら教えてくださいよ…!」
「ごめんごめん」
茜さんが全然ごめんなんて思っていなさそうな顔で謝っていて、なまえちゃんが拗ねたような困ったような表情をしている。
あぁいう顔もするんだとなんだか新鮮だ。
「あ、ほら、なまえちゃん九番テーブルさんオーダー決まったみたいよ」
「えっ」
見ていたのがバレてしまって、オーダーが決まったと思われたらしくなまえちゃんが弾かれたようにこっちを向いた。
「…オーダー聞いてきます」
「うん、お願いね」
緊張したような面持ちでオーダー用紙とペンを持ってなまえちゃんが来てくれた。
「お決まりですか?」
「うん。カレー二つと、」
「アジフライ」
「あとホットコーヒー三つ。ミルクは二人分で」
なまえちゃんが俺たちの頼んだものを復唱している姿がなんだか一生懸命でかわいいなぁと思ってしまった。
新人さんってわけではもうないんだろうけど、少しおどおどしているのは相手が俺たちだからだろう。
間違いがないことを確認したなまえちゃんがオーダーを茜さんに伝えに行く後ろ姿までなんとなく目で追ってしまう。
「……真琴」
「え、何?」
「お前なぁ…いや、自覚ないなら言わないほうがいいか…」
「え?」
「凛は恋愛脳だな」
「ハルこそそういうことなんにもわかんねぇみたいな顔してるくせに」
「そういうことって?」
凛とハルだけで会話が進んで俺だけ置いてけぼりにされたみたいだ。
凛に肩をぽんっと叩かれて「そのままの真琴でいてくれ」と言われた。
コーヒーとカレーを持ってきてくれたのは茜さんだった。
多分「あれ、なまえちゃんじゃない」と思ったのが顔に出ていて、「なまえちゃんは今ポット洗ってくれてるのよ、あれ意外と重労働なのよね」と教えてくれる。
「なまえちゃん、今日はあと少しでバイト終わるって聞いたんですけど」
「うん。あと三十分くらいかな」
「…その後なまえちゃんと話すことってできますか?」
今日まろんに来たのは凛が突然言い出したからで、だけど俺のせいでバイトを辞めるかもしれないって話を聞いてしまったらちゃんと俺の気持ちを話しておきたいと思った。
馴染みのお店でなまえちゃんが働いていることは迷惑なんかじゃないって伝えたら驚くかな。
「話?わたしはいいけど…」
「バイトのこと、辞めないでほしいって言いたくて」
俺の言葉に茜さんが少し驚いたような表情の後に「そういう話ならぜひ」と笑ってくれた。
「上がるときにカウンターでおやつ食べてから帰ってって言ってみようか?」
話をしたいと言ってもどう切り出そうか、気付いたら帰っていたなんてことにならないように、と思っていたから茜さんが協力してくれるならありがたい。
引き留めてくれる提案に頷くと茜さんが「真琴くんの分もカウンターに出してあげるね」と言ってくれた。
なまえちゃんがバイトを上がるまで三十分、それだけあればカレーを食べる時間はたっぷりある。
いつもよりも味わえなかった気がするのは緊張しているからかもしれない。
人と話すのは苦手ではないはずだし、なまえちゃんとはもう何年も前から知り合いなのに。
かきこむようにカレーを食べていたらハルに「もっと味わえ」と怒られてしまった。
「なまえちゃん、もう時間だから上がっていいよ〜」
「はい!ありがとうございます」
「ねぇ、時間あったらクッキー食べない?今日余りそうだから」
「えっいいんですか?」
「もちろん。カウンター座ってて。カフェラテいれるね」
「わぁ、ありがとうございます!」
嬉しいなぁ、と口にしながらなまえちゃんが入り口から一番遠いカウンター席に座ろうとして一瞬俺たちのほうを見た。
目が合って「あ、」と気のせいかと思うくらい小さな声をもらしたかと思うと引いた椅子を元に戻してちょうど真ん中あたりのカウンターに移動した。
「……気ぃつかってんなぁ」
「…だよね?」
多分、一番奥のカウンターだと俺たちのテーブルと近くなってしまうから。
聞かれて困るような話なんてしないし俺たちは気にしないのに。
俯きがちにカウンターに座ったなまえちゃんに聞こえないように凛と言葉を交わして「じゃあちょっと話してくる」と席を立つ。
「なまえちゃん」
「えっ」
「隣いい?」
「え、な、なんで?」
驚かせないように声をかけたつもりだったけれど、目をまんまるにしたなまえちゃんに「なんで?」と聞かれて言葉を探す。
「なまえちゃんと話したいから、かな」
「あら、いいじゃない。真琴くんもコーヒーのおかわりいる?」
「いいんですか?ありがとうございます」
助け舟を出してくれた茜さんがなまえちゃんの分のカフェラテをカウンターに置いて、すぐに俺のコーヒーと二人分のクッキーをくれた。
なまえちゃんは所在なさげにカフェラテの入ったカップを両手で包むようにして持っている。
俺に何を言われるのか身構えているように見えた。
「えっと…なまえちゃんって家このあたりなの?」
「うん。電車で二駅で…ここなら大学の帰りにもバイト入りやすいかなって」
「そうなんだ。バイトいつからしてるの?」
「五月から、かな。大学慣れてきたし何か始めたいと思ってたときにまろんの募集見つけて」
「そっか、じゃあもう長いんだね」
「長いって程じゃないけど、だいぶ慣れたよ」
こうして話していると普通の友達と話しているみたいで不思議だ。
この前会った時はずっとおどおどしていたなまえちゃんも少し落ち着いて話してくれている気がする。
「じゃあ、辞めるなんてもったいないと思う」
「え…」
「茜さんに聞いた。せっかく楽しそうなのに辞めるとか、シフト減らすとか、そんなことしないでほしいんだけど…なまえちゃんがそうしようと思ったのって俺のせい?」
疑問形で聞いたけれど、間違いなくそうだろうという確信があった。
「…真琴くんのせいというか……」
「俺はなまえちゃんがまろんで働いてるってわかった時、ビックリしたけど嬉しかったよ」
なまえちゃんが信じられないという顔で「嬉しい?」と俺の言った言葉を繰り返した。
隣になまえちゃんが座っている状況は初めてで、思えばいつも向かい合って手と手を握りながら話していた。
握手会とはいえ、その時のほうが距離は近いはずなのに今はもっと俺自身となまえちゃんが向き合っているような感じ。
「うん。…うまく言えないけど、昔の友達に会えたみたいな」
「友達…」
「だから、もしまろんを辞めようと思ってるのが俺のせいだったら考え直してほしいなって伝えたかったんだ。なまえちゃんがいるから来にくいとか居心地が悪くなるとか、そんなこと絶対ないよ」
身体ごとなまえちゃんのほうを向いてちゃんと伝わるように目を見て言い切るとなまえちゃんがきゅっと唇を引き結んだ。
「わ、わたし、真琴くんにそんな風に言ってもらえるような人じゃ…プライベートで行ったところにファンがいるなんて嫌じゃないの?」
なまえちゃんの言葉に少し首を傾げてしまう。
嫌、だと思うのかな、普通は。
「今だってすごくドキドキしてるし、真琴くんに会えて覚えてくれてて、それだけで嬉しいのに気にかけてくれるなんて、夢みたいだよ」
「そんな大げさな…」
「大げさじゃないよ。同じコーヒー飲んで、一緒にお菓子食べてるなんて、一生分のラッキー使っちゃったんじゃないかなって思うもん」
なまえちゃんは俺のほうを見て「気持ち悪くない?」と聞いた。
そんなこと思うわけないのに。
まさか、と返したらなまえちゃんの顔が泣きそうにくしゃっとなる。
「今日コーヒーポット返しにくるのも、なまえかんがいるってわかってて来たんだ」
「そ、うなんだ…」
「うん。話せてよかった」
「…ありがと、真琴くん」
「バイト辞めないでね」
あ、あくまでも俺のせいならってことだよ、と慌てて付け足したら弱く笑ってくれて少しほっとした。
「うん…続けたい。真琴くんにそんなこと言ってもらえるなんて本当に人生でいちばん幸せな日かも」
「あはは、大げさだってば」
弱々しくだけど笑うなまえちゃんに俺も自然に笑顔になる。
さっきまで苦かったコーヒーの味が少し和らいだようにすら感じるんだからなまえちゃんってすごいな。
真剣な話をしていたから気が付かなかったけれど、思い出したみたいに心臓がそわそわとし始める。
……なまえちゃんの表情とか声色とか向けてくれる視線で身体が宙に浮きそう。
「あ、あのさ、なまえちゃんもメニュー決めるの手伝ってるんだって?この前もこのクッキーもらったんだけど美味しかった」
「うん、茜さんが試食してってよくくれるから、わたしは食べるだけ、です」
「あはは、そうなんだ」
「真琴くんはコーヒー、ブラックで飲めるようになったんだね」
「え?」
「ミルク入れないと飲めないって言ってなかったっけ」
「あー…実はブラックだとちょっと苦いんだよね」
「…よかったらカフェラテにする?」
「でも茜さんも忙しいだろうし」
「わたしいれるよ」
「えっ」
ミルクもらおうかな、と一瞬頭をよぎったのにまさかのなまえちゃんからの申し出だ。
でもバイトの時間じゃないのに…と遠慮の言葉が出たら「これはわたしがやりたいだけだから」と少し照れくさそうに笑ってくれた。
「茜さん、少しだけキッチン入ります」
「はーい。あ、ごめん真琴くんミルクいる人だったわね」
茜さんが出してくれたコーヒーはやせ我慢して飲んで残り少しになっていたからミルクを追加して最後まで飲んだけれど、なまえちゃんがいれてくれたカフェラテは今まで飲んだことのある何よりも特別においしく感じた。
(2020.07.27.)