8.嘘ってこと


向かい合うようにして、片手を繋ぐ。
なまえの空いているほうの手が、制服のスカートをきゅっと握り込んでいた。
心臓の音がやけにうるさい。

「なんか…昔入れてくれた馨くんと光くんの秘密基地のこと思い出すな」
「え、なんで?」

こっちはもう片方の手も繋いでいいかな、でもそうしたら抱きしめたくなる気がする、とか。
ここ何年もろくに合うことのなかった視線がまっすぐに僕を向いていて吸い込まれそうだな、とか。
二人きりでこんな狭くてほこりっぽい部屋に押し込められて本当なら早く出たいはずなのに、部屋を出ることよりも目の前のなまえのことで頭がいっぱいなのに。
なまえが口にするのはいつも昔の僕たちのことだ。

「暗くて物がたくさんあって少しだけ似てるなって。ここは資料ばっかりだけど、秘密基地は綺麗なものがいっぱいあったよね」
「光と色々集めてたからね」
「光くんが見せてくれた絵本がかわいかったの、覚えてるなぁ」

僕たちの秘密基地は、なまえの言う通り僕たちだけの秘密がいっぱい詰まった屋根裏の部屋で、そこには僕たち以外を入れることはなかったのだけど、一度だけなまえを連れて行ったことがあった。
光が見せたという絵本が僕にはどれだかわからない。
なまえが懐かしむ表情を見てそんな顔をさせるのが光だってことにまで胸の奥がかき乱されるなんて最近の僕はどうしてしまったんだろう。

「あと、馨くんのおうちはいつもお花の香りがするよね」
「…そうかな、いつも花はあるけど」

華道の家元であるおばあちゃんは家にいることのほうが少ないけれど、小さい頃から花に囲まれて育ったとは思う。
だからって家が花の香りがするかどうかはわからなかった。
鼻が慣れてしまっているのかもしれない。

「さっき馨くんも、」

何かを言いかけてやめるから気になって顔を覗き込むとなぜかなまえが顔を赤らめていて、その表情を隠すように俯いた。

「さっき、何?」
「…なんでもないです」
「気になるから途中でやめるのなし」
「……引かない?」
「引かないよ」

なまえのことで引くとか嫌いになるとか、もう今更ないんじゃないだろうか。
幼い頃に抱いたマイナスな感情だってなまえ自体が原因ってわけではない。
そりゃ全部を知っているわけじゃなくて、むしろ知らないことのほうが多いのかもしれないと思うけれど。
言い淀むなまえの手をきゅっと握ったら、丸い瞳がこっちを向いた。

「さっき、馨くんも、なんか…」
「なんか?」
「…言わなきゃダメ?」
「うん。なまえ、」
「う、はい……さっき馨くんが抱き留めてくれた時に、なんかふわって良い香りが、したなって」
「……そう」
「………はい」

まさかそんなこと言われると思っていなくてうまく反応できなかった。
なまえがもごもごと小さくつぶやくからこっちまで恥ずかしさが伝染するみたいにじわじわと耳とか顔とか、手とかいろんなところが熱くなる。

今日なんの香水つけてたっけ、しばらくこれでいいや、なんて思っていたらなまえが繋いでいないほうの手を自分の頬にあてて「あつい、」とこぼした。

「…あついね」
「うん。資料室って空調の効き悪いのかなぁ」

いや、そうじゃないだろ…とは言わずに「そうかも」と返した。
どれくらいそうしていたかなんてわからないし、暑くてもほこりっぽくてももうしばらくこのままでいいかな…と思ったのに、空気を壊すかのように僕の携帯が鳴った。

「わ、びっくりした…さっき電波なかったのに」

誰だろう、と左ポケットに入れていた携帯を空いている右手で取ろうとしたら繋いでいた手がすっと僕の手からすり抜けた。

「え、」
「携帯、取りにくそうだったから」

なまえの言うことはもっともすぎるけれど、急に離れた体温と僕のほうを見ずに俯いた顔がなぜか悲しそうに見えて返事ができない。
動けずにいたらなまえが眉を下げて笑った。

「電話出ていいよ?」
「…うん」

僕が携帯を取り出すと、なまえが立ち上がって窓のほうへ移動してしまう。
さっき立てないって言ってたけどもう大丈夫そうで足取りもしっかりとしていた。
電話の内容が聞こえないようにと気をつかわれたのかもしれない。
鳴り続けている携帯を確認すると、かけてきているのは光だった。

「もしもし」
『あ、やっと出たー!全然戻って来ないから僕たち先に帰るね!』
「は?いや、ちょっと待って、また部屋に閉じ込められて出られないんだけど!助けに来てよ!」
『え?でもさっき黒魔術部の人たちも帰ってたよ、もう開くんじゃない?』

まじかよ…と思いながらさっきピクリとも動かなかったドアノブを回すと、すんなり回って扉が開いた。

「開いた、いつの間に…」
『よかった!じゃあ僕もう車乗っちゃったから、馨はなまえんちの車で送ってもらえば?また家でね〜!』
「は?!」

いや、今開いたって言ったんだからちょっとくらい待っててくれてもよくない?と文句を言う前に電話を切られてしまった。
携帯を雑にポケットに押し込んで窓際にいるなまえに声をかけると、電話の内容が聞こえたらしく「光くんだったの?電話」とうかがうような表情をされる。

「うん、先に帰るってさ。光の奴……」
「そっか。ドア開いたんだよね、わたしたちも帰ろっか」
「ハンカチどうする?僕も一緒に探すよ」
「ううん、明日落とし物で届いてないか問い合わせてみる」

なまえがいいならいいけど、と二人で資料室を出てカバンを置いたままの教室に戻ることにする。
暗くて静かな廊下はやっぱり少し不気味で、資料室から顔を出して様子を見たなまえは周りをきょろきょろと見回している。

「大丈夫?」
「…やっぱり夜の学校って少し怖いね」

まぁさっきみたいなことがあったから警戒してしまうのは仕方がないと思う。
ここで僕となまえが恋人同士なら、それか何も考えていない子供だったなら、手を繋いで安心させられたかもしれないのに。
ぎゅっとスカートを握っているなまえの小さな手に触れられたらいいのに。
さっきからこんなことばっかり考えている。

「怖かったら、どこか掴んでていいよ」
「え?」
「袖とか、裾とか」
「いいの…?」

上目遣いのなまえに首肯で返すと、僕のベストの裾を弱くつまんだ。
掴まるっていうよりも指をひっかけているに近くて本当に弱い力なのに僕の神経全部がそこに集中しているんじゃないかと思った。



「じゃあ、僕は車が戻ってくるまで待つから」

教室でカバンを取って昇降口に着いたけれど、迎えの車は光が一人で乗って帰ってしまったからなまえの家の車しか停まっていなかった。
「また明日ね」とこんな言葉をなまえに言うのは初めてではないか、と内心で思っていたら向かい合っていたなまえが少し考えるそぶりをしたあとに僕を見上げる。

「あの、馨くん」
「なに?」
「もしよかったら、うちの車で帰りませんか?その…嫌じゃなければ一緒に……」

多分いまの僕はめちゃくちゃまぬけな顔をしていると思う。
いや香りがどうのって言われたときよりはマシかもしれないけれど、それくらい想定外だった。

「ご迷惑じゃなければ…もちろん先に馨くんのおうちに寄ってもらうし」

返事をしない僕に焦ったように言葉を重ねるなまえの耳は少し赤い。
送ってもらうのが先か後かなんて正直どうでもよかった。

「いいの?」
「、うん」
「じゃあ…お言葉に甘えて」

少し前の僕だったら、なまえからこんな申し出があってもそっけなく断っていたと思う。
僕の返事にパッと顔をあげたなまえの表情は花が咲いたみたいに綻んだ。
一部始終を見ていたはずのみょうじ家の運転手は、笑顔を崩すことなくなまえに「おかえりなさいませ」と声をかける。

「お迎えありがとうございます。あの、今日は寄ってほしいところがあって。こちら常陸院馨くんです」
「どうも」

なまえが僕を紹介するって、こういうシチュエーションは初めてだなとむずがゆい。
僕が挨拶をすると運転手の男性も名乗ってしっかりとお辞儀をした。

「馨くん、お迎えの車が先にもう一人を乗せて帰ってしまって…送っていただきたくて」
「承知いたしました。常陸院邸でございますね」
「ありがとう」

運転手が車のドアを開けて、なまえがこっちを見るから「先に乗りなよ」と促す。
先に乗り込んだなまえの後に続いて車内に入って、当たり前だけれどよその家の車は乗り心地が違うなとシートに沈める、けれど。
まぁ普通の車でもそうなんだろうけれどみょうじ家の車は一人ずつの座るスペースがたっぷりすぎるくらい余裕があって、座っているなまえとの距離がわりとある。
資料室みたいに二人並んで座るわけにもいかないから車内での適した距離はこれで間違いないのだろうけれど、隙間がもどかしいなんて。

静かな車内でも相変わらずの沈黙だったけれど、窓の外を眺めていたなまえの携帯が鳴った。
短い着信音だったから多分メール。
なまえがかばんから携帯を取り出して内容を確認する様子を横目で、さりげなく、あくまでも視界に入っただけという体で見ていたらメールを読んだらしいなまえが、暗い車内でもわかるくらいに顔を赤らめた。

えっ何その反応。
一応婚約者である僕が隣にいるのに、誰からのメールでそんな顔してるわけ。

「…メール?なんかあったの」
「えっあ……うん。光くんから」
「光?なんだって?」

たまらず話しかけてしまったらなまえの肩が跳ねて、光からだっていうから一瞬ホッとしたけど言い淀むなまえの顔はやっぱり赤くてむかついてきた。

「気を付けて帰ってね、って」

さっきまで、窓の外じゃなくてこっちを向いてほしいとかあわよくば手を繋げないかなとか思っていた気持ちが沈んでいく。
なまえにとっては僕も光も昔からの知り合いで多分そこに違いも差もないのだろう。
あるのは親同士が決めた婚約者という肩書だけで、仲が良いのは悔しいけれど光のほう。
メールの内容は確認したのになまえはジッと画面を見ている。

おもしろくないっていうか心臓痛い、なんだこれ。

僕も反対側の窓の外に目をやったら、もう一度なまえの携帯が鳴って「え、」と小さい声が聞こえた。

「馨くん、大丈夫…?」
「…なにが?」
「これ、光くんが…」

さっきとは打って変わって深刻そうな顔をしたなまえが自分の携帯画面を僕に見せてくれて、携帯を受け取った時に手と手が触れた。

『あいつ実は車苦手だからさ!』とだけ書いてある短いメールにわけがわからなくて首を傾げると、なまえが携帯を操作してもう一通のメールを見せてくれた。
今見せてくれたメールの前に届いたものらしい。

『馨と帰ることになった?車ん中で手ぇ繋いでやったら喜ぶよ』

……光の奴!
つい数十分前にも思ったけれど、光のアシストのおかげで一緒に帰れているとは言え、このメールは色々とダメだ。
思わず両手で顔を覆うと、それを体調が悪いと勘違いしたらしいなまえが慌てたようにこっちに身を寄せた。

「馨くん、あの、大丈夫?車酔いしちゃうとか?」

心配そうに顔を覗き込まれて車の中が暗くてよかったと思う。
車酔いなんてしないし、良質な車と運転手の腕も相まって乗り心地は申し分ない。
車が苦手だから手を繋いでやれって…子供みたいでダサいってなまえに思われたらわりとしんどい。

「いや…大丈夫だけど、」
「でも…あ、冷たい飲み物いる?お水がいいかな」

備え付けの小さな冷蔵庫からペットボトルを出してくれて渡される。
肝試しからずっと焦ったり慌てたりが続いていたから、喉が渇いていなくはなくて素直に受け取るとホッとしたような顔になる。

「横になりたかったら、わたし場所ズレるから言ってね」
「うん」

否定するのも面倒だなと小さく溜息を吐いたのも間違いだったのかもしれない。
なまえが眉を下げて意を決したように僕を見た。

「い、嫌だったら、離してね」
「は?」

何が、と聞き返す間もなく、シートに投げ出していた右手を柔らかくて温かいものに包まれた。

「…、」
「……気分悪くない?落ち着いた?」

光のメールを真に受けるとか、どんだけ心が綺麗なのが覗いてみたくなる。
車が苦手なら毎日車通学なんてしないよ。
手を握られて体温は上がった気がするけれど体調だってすこぶる良好だ。
さっきから心臓痛いけど、今はなんか、心地良い痛み。

僕の手に重ねるように置かれたなまえの手を握り返すとなまえがぱちり目を瞬かせた。

「大丈夫。ありがと」
「っうん、よかった」

ホッとしたように笑うなまえを見て、やっぱり胸がきしきしと締め付けられるみたいだ。
運転手さん、空気読んで少し遠回りして帰ってくれないかな…なんて思ったけれどいつもとそう変わらない所要時間で僕の家に着いてしまった。

「乗せてくれてありがと」
「ううん…わたしのせいで巻き込んじゃったんだし。慣れない車乗ってもらうことになっちゃってごめんなさい」
「あー…」

二人で下校して、手を繋いでってまるで恋人みたいな状況に少なからず浮足立っていたけれど、なまえは僕が車が苦手だと思っているわけで。
今も心配そうに眉を下げている。
手を繋がないと車に乗れないとか勘違いされたままなのは嫌だし、そんな理由で手を繋いでいたと思われるのも癪だ。

「なまえ、」

名前を呼ぶと首を傾げて僕を見上げる瞳にはなんの疑いもない。
子供みたいに繋いでいた手を、少しだけ緩めて指と指が絡むように繋ぎ直したらその瞳が少しだけ揺れた。

「僕、車酔いとか全くしないんだよね」
「…え?」
「光のメールは嘘ってこと」
「な、なんでそんな嘘…」
「なんでだろうね?」

混乱したように目を白黒させていて、手のひらと手のひらがくっつくように少し深く指を絡ませたらなまえの肩が跳ねた。
僕だってさっきから胸の痛みがおさまらない。
なまえも、少しはドキドキしてくれてるかな。
繋いだ手を離すのは惜しかったけれど、いつまでも家の前にみょうじ家の車を停めておくのもどうかと思うし、なまえを引き留めておくのも悪くてそっと手を解放する。

「じゃあね、また明日」
「う、うん、明日ね」

車を降りて、なまえの車が走り出すまで見送ってから一気に脱力してしまう。
残暑のまとわりつくみたいな生温い空気をいっぱいに吸っても心臓の痛みは治まってくれなかった。
手のひらに残った感触がずっと消えなければいいのに。


(2020.07.08.)




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