▼ 5.期待なんてしてないけど
「バレンタインにチョコをもらうのは男の名誉」なんて言ったのはどこのバカ殿だったっけ。
たしかに二月になると世間も周りも少し浮足立ったような空気になるなとは思う。
だけど甘いものに目がないハニー先輩や博愛主義の殿とは違って、僕はバレンタインなんて帰りに荷物が増えて面倒だし、お返しなんてもっと面倒だ。
だからホスト部がバレンタインを自粛することになっても全然、全く問題はない。
「ホスト部がバレンタイン自粛だなんて悲しいわ…」
「本当ね。ハルヒくんに何がお好きか聞こうと思っていた矢先に」
「個人的に渡すこともいけないのかしら?」
「そうね…抜け駆けのようになってしまうしそれでは自粛の意味がないもの」
教室で光とハルヒと話していたらそんな会話が聞こえて来て、そっちに目を向けるとホスト部常連の倉賀野姫と桜塚姫、それからなまえが話をしていた。
「ホスト部で何かありましたの?」
「あぁなまえさんはご存知なかったわね。ハニー先輩が虫歯になってしまって」
「甘いものを禁止するために、ホスト部はバレンタインを自粛されるそうよ」
まぁ…それは残念ね、なんて眉を下げて二人のことを慰めている。
なまえにとってはホスト部がチョコを受け取らないなんて関係ない話かもしれないけれど、他人事のように話す姿に少しだけ面白くないと思った。
放課後、今日はホスト部の営業はなくてミーティングのみの日だった。
虫歯のせいでお菓子を断っているハニー先輩の機嫌は最悪だし、それに責任を感じているモリ先輩の様子もおかしい。
殿は姫たちからチョコをもらえない落ち込みからは回復したようだけれど、ハルヒのチョコについては未だうだうだと言っていて鬱陶しい。
「馨はいいよな!なまえ姫からもらえるんだから!」
殿がハルヒからもらえないことを嘆きながら僕の肩をガクガクと揺さぶる。
「なまえからは去年も一昨年ももらってないけど」
「えっそうなの?」
「自粛とか関係なくなまえは僕にも馨にもくれないんだよ」
「なまえちゃんそういうの律儀そうなのに」
僕の小さい返事を拾ったのはハルヒと光で「義理だろうけど婚約者って立場もあるから義務的にくれるでしょ?」みたいな言い方に聞こえてしまうのは気のせいだろうか。
ハルヒに悪気はないことはわかっているんだけど。
「なまえは毎年家に届けに来るけどな」
「えっ」
「でもそうか、今年はもらえない可能性もあるのか」
残念だ、と鏡夜先輩が手を顎にあててわざとらしく溜息を吐く。
まさかここで会話に入ってくるとは思わなかった。
幼馴染だからって毎年チョコなんて渡すもんなの?
僕だって小さい頃から婚約者っていう立場なんだけど。
「てかさーなまえが僕らにバレンタインくれないのって馨のせいじゃない?」
「……なんで」
「だって常々チョコなんていらない、荷物が増えるって言ってるじゃん」
「それは光もだろ?!」
「僕は周りに聞かれて困るような子がいる時は言わないよーん」
「べっつになまえに聞かれても困らないし、ってかなんで僕がなまえからのチョコが欲しいみたいな流れになってんの?!」
「馨!照れなくていいぞ、可愛らしい姫からの贈り物を喜ばない男なんていない!」
「いや別になまえは姫とかそういうんじゃないし、かわいいとか、別に」
「いかん!いかんぞ馨!そんなことでもしも万が一にでもなまえ姫がホスト部は自粛だからと馨以外の男に贈り物をしたらどうする!」
…どうすると言われても。
実際鏡夜先輩には毎年あげているらしいし、僕が何か言う権利なんて。
いやあるか、権利。婚約者だし。
「なまえだってバレンタインっていう文化くらい知ってるだろうし、昔は僕と馨にだってちゃんとくれたのにね」
「……」
「ちょっと、それ以上言うと馨が泣いちゃうからやめなよ」
「な、泣かないよ!」
「えっそうなの?さっきから動揺してるように見えたからてっきり…」
子供の頃は、バレンタインがバカバカしいなんてことは思っていなかった気がする。
お菓子をもらえるのはまぁ嬉しかったし、お返しは世話係が見繕ってくれたものを適当に渡していたんじゃなかったっけ。
なまえは親に付き添われながら僕たちの家まで届けに来てくれて、他の誰かにもらったものはパクパクとたいして味わうこともなく食べたけれどなまえのくれたチョコはひとつひとつ大切に食べた。
お返しだって、なまえに渡す分は自分で選んでいたのに。
だけどいつからだったかなまえは家に遊びに来なくなって、バレンタインの届け物もなくなった。
幼等部でも初等部でも、直接チョコを渡してくる女の子はたくさんいて。
その度に面倒だなって表情を隠さなかったのに女の子ってマゾなのかなって光とよく話をした。
持って帰るのも大変だし、もらったものを全部食べたらぶくぶくに太っちゃうよね、なんて話も。
思い返すと僕と光ってけっこうひどいかも。
なまえがこういうこと全部知ったら、そりゃあ僕にチョコをあげようなんて思わない…よなぁ。
「だけど、なまえちゃん今年は誰かにあげたいみたいだったけどなぁ」
「…え」
「実は、モリ先輩が告白されてるの見たとき、なまえちゃんも一緒にいて」
ハニー先輩の虫歯が発覚して、ホスト部のバレンタイン全面自粛が発表された次の日。
図書館から第三音楽室へ向かう途中の中庭でハルヒが目撃してしまったというモリ先輩と女子生徒とのやりとりをなまえも一緒に見たらしい。
「その時に言ってたんだよね、気持ちを伝えるってすごいことだって」
モリ先輩のファンは内気な子が多くて、バレンタインというイベントは気持ちを伝えるまたとないチャンスらしい。
今年はバレンタインを自粛することになってしまって、モリ先輩のファンの子は悲しんでいる子もいるだろうとは思っていたけれど、どうにか受け取ってくれないかと事前に申し出があったという。
結局モリ先輩は受け取れないと断ったらしいんだけど。
「なんとなくだけど、渡したい相手がいるのかなぁって…ってあれ、これ言っちゃいけなかった?」
恋愛もバレンタインも興味ゼロですって顔をしているハルヒがこんなことを言うとは。
なまえに、好きな人がいる?
そんなこと考えたこともなかった。
バレンタインのチョコひとつで気持ちなんて伝わるもんかって笑い飛ばせたらいいのに、情けないかなフリーズしてしまった僕にハルヒが「ごめん」と眉を下げた。
謝られると逆に惨めな気持ちになるなんて初めて知った。
バレンタイン当日。
毎年学校に到着した瞬間から両手に持ち切れないくらいのチョコを渡されたのに今年は自粛の御触れがしっかり伝わっているらしく「ごきげんよう」と挨拶をされるだけだ。
教室まで足止めをされることなく辿り着いて光となんか不思議だね、と言い合う。
いつも僕たちよりも早く登校しているなまえは珍しく予鈴のギリギリに教室に入ってきた。
朝も昼休みも放課後も、なまえと話さずに一日が終わってしまった。
……そんなのいつものことなのに、今日ばかりはなまえから話かけてきてくれないかと思うなんて自分でもビックリだ。
バレンタインだからって特別を期待するなんて僕はどうしてしまったんだろう。
五時間目の授業を終えて、なまえはハルヒと何か話した後に自分のカバンを持ってさっさと教室を出て行ってしまった。
帰り際に一瞬目が合ったのに慌てたようにそらされた。
姫たちからのバレンタインの贈り物は受け取れないけれど、その代わり今年のホスト部はバラをプレゼントするという欧米スタイルに落ち着いた。
これなら姫たちも喜んでくれるだろうし、ハニー先輩も甘いものを目にしなくていいし、めちゃくちゃ良いアイディアだ。
営業が無事に終わって余った花は花瓶に生けて第三音楽室に飾ろうという話になったけれど、それでも余った分は僕と光が持ち帰ることになった。
一応華道の家元だからね、うちのおばーちゃん。
バラは作品には使わないかもしれないけど、持ち帰りやすいようにいくつかの束にして薄紙で包む。
「さすが手際いいね」
「まぁねー」
「ハルヒも持って帰る?」
「いや…うん、そうだね、一束もらってもいい?」
「もちろん。どーぞ」
「ありがとう。じゃあ自分今日はお先に失礼します」
出来上がっていた花束…なんて大層なものではないけれど、簡単にまとめたバラを持ってハルヒは足早に音楽室を出て行った。
「なんだ、ハルヒのやつ」
「どーせまたスーパーのタイムセールとかでしょ」
「ハルちゃん、今日の放課後に調理室使う許可もらってたよ〜?」
モリ先輩と仲直りをして機嫌もなおったハニー先輩が、うさちゃんを抱き締めながらかわいらしく首を傾げた。
「こんな時間から調理室?」
「うん!何するんだろうねぇ」
ピクリ、と器用に耳を動かした殿が大げさに腕を広げながら「こうしてはいられん!」とか騒ぎ始める。
「調理室でやることと言えば料理しかないだろう!」
もしやハルヒの家のキッチンが壊れたのではないか?!
このままでは今晩の食事に困るとハルヒは学校に調理室の使用許可を得たに違いない!
…さっきの情報だけでここまで妄想を膨らませられるってすごいな。
どちらにしろ、調理室でやることなんて料理以外ないだろうし、そうなればハルヒの手料理を常日頃から狙っている僕たちは花の片付けを済ませてから調理室に向かうことにした。
調理室からは話し声が漏れていて、ハルヒ以外にも誰かがいることがわかった。
みんなで人差し指を口元にあててシーっとジェスチャーをしながら中を覗き込むと、そこにはなまえがいた。
なんとなく突入する空気ではなくてみんなで調理室前にしゃがみこむ。
僕の気分とは裏腹に、調理室からは甘い香りが漂ってきていた。
「あとは焼き上がるのを待つだけだね」
「うん、ありがとう。ハルヒくん」
「いえいえ。あっそうだ、これ」
オーブンが動いている音がするから、何かを焼いているんだろう。
洗い物やら片づけを一通り終えたらしいなまえとハルヒが調理室のイスを並べて話をしていて、ハルヒが自分の荷物のあたりに置いていたものを渡した。
「お花?」
「うん。今日ホスト部でお客様に配ったんだ。なまえちゃんにと思って」
「綺麗…良い香り」
花束になまえが顔を近付けて嬉しそうに笑う。
その様子を盗み見しながら、なんで僕こんなとこでこんなことをしているんだ、と目をそらしたところで光にツンっと腕をつつかれた。
「ねぇ、馨」
「何?」
「なまえってさ、ハルヒのことどう思ってんだろう」
「どうって、友達じゃないの?」
「男友達とあんな風に仲良くしてるの見たことある?」
「男って、」
「なまえはハルヒが女の子だなんて知らないだよ、これってまずくない?」
まぁくっつくことは絶対ないけど…と光がもう一度中をうかがう。
なまえがハルヒと笑顔で話していて、本当いつの間にあんなに仲良くなったんだろうか。
そういえばモリ先輩の告白現場を見たときも一緒にいたんだもんな。
「それにしても、どうして今日の放課後だったの?」
「急にお願いしてしまってごめんなさい…」
「ううん、それは全然いいんだけど」
「実は…昨日、おうちで一人で挑戦してみたんです、お菓子作り」
ぽつぽつとなまえが恥ずかしそうに視線を下げた。
「お願いしたらパティシエの方が手伝いというかほぼやってしまうから夜中にこっそり…そうしたらオーブンが、その、」
「うん?」
「壊れて…というか壊してしまって…」
「あっもしかしてその指の怪我って」
ハルヒに言われて恥ずかしそうに手を顔の位置まであげたなまえの左手の指には絆創膏。
「慌てて鉄板を出そうとして、やけどを…」
恥ずかしそうになまえが俯いて、ハルヒが心配している。
…なんか、密会現場を覗き見しているみたいな気分になってきた。
「もっと前から準備しておけばよかったのに…慣れないことはするものじゃないですね」
「なまえちゃん、渡したい人がいるんだね」
ハルヒのド直球な確信に近い質問が飛んで、なまえの返事を聞きたいような聞きたくないような感情が自分でも気持ち悪い。
「…うん」
小さくつぶやくようななまえの声はここからじゃよく聞こえなかったけれど、こくりと頷く姿をしっかり見てしまった。
婚約者がいるからって、恋愛をしちゃいけないと言わないよ。
お互い結婚できる年齢になるまで正式なものではないって僕の親は言っていたし。
僕だって部活とはいえ女の子と接する時間は多いし。
なまえにだけ他の男と関わるななんて言うつもりはないけど、だけど。
「受け取ってもらえるかしらってちょっと不安なんだけれど」
「大丈夫だよ、きっと。もしかして…鏡夜先輩に?」
ハルヒが踏み込んだことを聞いて、廊下にいる僕たちの空気が少しピリついた。
鏡夜先輩は涼しい顔をしてメガネを押し上げている。
「えっどうして鏡夜くん?」
「幼馴染で毎年あげてるって聞いたから、もしかしてそうなのかなぁって」
「鏡夜くんは手作りよりも既製品のほうが美味しいし合理的ってタイプな気がする…」
「たしかに」
「でしょう?」
なまえとハルヒが顔を見合わせて笑っている。
状況が状況じゃなければわりと微笑ましい光景だ。
「じゃあ、」
誰に?と尋ねたハルヒに、手伝ってくれたのだから秘密にするのも失礼かしら…と意を決したように言葉を繋ぐ。
「秘密にしてね、他のホスト部のお客様たちに申し訳ないから」
「えっホスト部のって」
さっきピリついた空気がまた一層濃くなる。
もしこれで殿とかハニー先輩とか言われたらどうしよう。
「…もう何年も渡してないから受け取ってもらえないかもしれないんだけど…馨くんと光くんにあげたいなぁって」
……僕の聞き間違いかと思って光のほうを見たら、それはもうニヤつきを抑えられませんって顔で手を口にあてて笑って僕を見ていた。
じわじわと顔が熱くなってきたのが自分でわかる。
「いま僕にって言った?」
「正確には馨と僕にね」
「うんまぁそれはいいや」
光に確認を取るように聞いたら今度は呆れたように息をはかれた。
「よかったね」
「…別に……」
「たまには素直になりなよねー」
光に頭をぽんっと撫でられて、そうしたらまた違う人が頭を撫でた。
顔が熱くて上げられないからわからないけど、多分殿とハニー先輩とモリ先輩。
髪の毛をぐしゃぐしゃにするのはやめてほしい。
「そっか。喜ぶよ、絶対に」
「あの二人も手作りなんてってタイプかもしれないけれど」
「意外となんでも食べるタイプだから大丈夫だと思うよ」
ハルヒがフォローになっているような、いないようなことを言うとなまえが「そうかしら」と控えめに笑う。
「でもどうして今年はあげようって思ったの?去年まではあげてなかったんだよね」
「……それは…この前、銛之塚先輩がその、告白をされていたでしょう?」
正確には告白ではなかったらしいんだけど、まぁ本命のチョコを受け取ってほしいって告白みたいなもんだよな。
モリ先輩は告白を受けることはなくても、チョコをもらうことで気持ちを汲んであげるのだけれど今年はそれがなくて泣いている女子も少なくなかっただろう。
「あの日、お相手の先輩が気持ちを伝えているところを見て…」
え、それって、どういうこと?
光が僕の肩に置いていた手に力が入ったのがわかった。
「それって、馨か光のこと好きってこと…?」
待って、ハルヒ。
それはちょっと今は聞いちゃいけない気がするし、もし、ありえないとは思うけれど万が一にでも光のことが好きとか言われたら僕はどうしたら。
なんて一瞬のうちに頭の中をいろんな考えが巡ったのだけれど、なまえの返事に僕を含め廊下にいた全員がずっこけそうになる。
「えっううん、違うの。好きとか告白とか、そういうことではないの」
「ん?」
全力で否定したなまえはほんのり顔を赤らめながら両手をぱたぱたと小さく振っている。
さっきまで熱かった僕の顔面はすーっと冷めていくような気がする。
「ただ…渡したいと思うなら、その気持ちに素直になりたいなって」
家に帰って、この後なまえが訪ねてくるかもしれないと思うと落ち着かなくて携帯に連絡が来るかもと何度もメールや電話が来ていないかと確認をしてしまう。
手持無沙汰すぎてうろうろと部屋を歩いていたら、光に少しは落ち着きなよなんて言われてしまう。
「なまえに何かあげればー?」
「え、なんで」
「だって姫たちには花あげたのになまえには何もないっていうのもね。まぁハルヒがバラあげてたけどさ」
そう言われても今から準備できるものなんて…と部屋を見回すけれど、あげられそうなものはさっき持って帰ってきてハルヒがなまえに渡していたものと同じ大量のバラくらいで。
その中から程よく開いていて色が綺麗なものを選ぶけれど、「…同じものもらっても嬉しくないか」と呟いたら光がドサッと僕の横に大量の包装紙とリボンを置いた。
何かに使えるんじゃないかとお気に入りを見つけるたびに買い集めている僕たちのコレクションだ。
「これ使えば贈り物っぽくなるんじゃない?あ、なまえが来ても僕はまだ帰ってないってことにしていいよ」
「ひかる〜…!」
「はいはい、わかったから急いでブーケにしなよ」
光ってやっぱり兄貴なんだなって思わず抱き着こうとしたらひょいっと避けられてしまった。
自分でも情緒がおかしいことには気付いているけれどもう少し優しくしてくれたって良くない?
「…なまえ、喜ぶかな。ハルヒに先越されたのに」
色とりどりの包装紙とリボンを手に取って、どれにしよう?どう包もう?と頭をフル回転させる。
なまえは何色が好きなんだろう。
こんなことも僕は知らない。
「何をもらうかじゃなくて、誰からもらうかが大事なんだと思うよ」
「そういうもん?」
「馨だって身をもってわかったんじゃない?」
なまえからのチョコ、僕の分も預かっててほしいけど食べないでよね!と言い残して光は部屋を出て行ってしまった。
少ししてから携帯が鳴り、液晶画面に表示されたことが今まで数えるくらいしかない名前を見てビクっと肩が揺れた。
「もしもし、」
『あっ…もしもし、馨くん?なまえです』
「うん。どうしたの」
どうしたのって、もっと優しく言いたいのに。
『今、おうち?』
「うん」
『実はね…今、馨くんのおうちの前にいて。渡したいものがあるの』
「うん…門開けてもらうから入っていいよ」
『ありがとう。光くんもいる?』
「光は、あー…手ぇ離せないみたい。僕だけでいい?」
『そっか、うん、お願いします』
門を開けてもらうようにセキュリティに連絡をして、玄関に向かう。
なまえの「渡したいもの」は何か知っているのに心臓がバクバクうるさくて顔が緩みそうになるのに急ぐ足取りは震えそうだ。
「馨くん、」
乗ってきた送迎の車から降りきたなまえは手に小さな紙袋を持っていてそれに目がいってしまうのは仕方ないと思う。
僕も後ろ手に持っているものが見えてしまわないようにと緊張する。
「ごめんね、わざわざ出て来てもらっちゃって」
「いいよ。あがっていく?お茶用意してもらうけど」
自然に言えただろうか、なまえが常陸院家に来るのはいつぶりだったか思い出せないくらい久しぶりで、こんな会話をするのも物心がついてから初めてじゃないだろうか。
なまえが少し驚いたように目を丸くしてから、嬉しそうに「ありがとう」と言うと吐き出した息が白く染まる。
「せっかくだけど、この後行くところがあって…」
「行くところ?」
「うん、鏡夜くんのおうちに行くんだけど遅くなると悪いから」
「ふぅん」
何をしに?なんて聞かなくてもわかるけれど、鏡夜先輩へのチョコなんて学校で渡せばいいのに。
そうしたら家にあがってくれただろうか。
「あのね…これを、馨くんと光くんに。ちょ、チョコレートです」
こんな時もなまえに優しい言葉をかけられなくて、態度だって急に柔らかくなんてできない。
なまえにとってはこれが僕の通常運転なんだろうから、緊張したように両手で紙袋を僕に差し出すときにぎゅっと唇を引き結んだのは僕が怖いからとかではないと思いたい。
作っているところを見てしまったし、渡したいのだと言っているところも見てしまった。
サプライズでもなんでもないけれど、本人が目の前にいるってだけで調理室前で感じたよりもずっと、ずっと、この子へのなんとも言えない気持ちが溢れて来るみたいだった。
「…ありがとう、嬉しい」
「え、」
「なんでそんなにビックリしてるの」
「だって、本当はバレンタインとか好きじゃないでしょ…?」
「うん…ってあぁそうじゃなくて!」
僕が頷くと悲しそうに眉を下げるから慌てて否定する。
「こんなこと言ったらひどい奴って思うかもしれないけど。人によるっていうか」
「人に…」
「なまえが、僕の…僕たちのために作ってくれたんなら嬉しくないわけない」
なまえの手に目をやると絆創膏が痛々しくて、僕たちのせいでやけどなんてさせてしまった。
小さくて白い手を取りそうになってしまったのに思い止まったのは、左手にはなまえがくれたチョコレート、右手にはまだ背中に隠しているブーケがあるからだ。
なまえはさっきから目を丸くしたり恥ずかしそうに微笑んだり、こんなに僕の前で表情を変えることって子供の時以来で、僕からの贈り物を渡したらもっと笑ってくれるだろうか。
なまえの好きな色なんて知らないから、僕が似合うと思う色で包んだバラを渡すとなまえは泣くんじゃないかと思うくらいに目を潤ませた。
「これ、」
「あげる」
「…ありがとう。すごく綺麗…」
人に何かを渡すことがこんなにも心臓を痛くさせて、想いを込めたものを受け取ってもらうことがこんなにも泣きたいような気持になるのだと僕は知ってしまった。
喜んでくれるとホッとして嬉しくて、渡してよかったと思うのと同時に花束ごと抱きしめたいなんて、イベントの空気にあてられすぎだ。
「あれ、でもどうしてわたしが来るってわかったの?」
そう聞かれてうまくごまかすことはできなかったけれど、話題を指先の絆創膏にそらしたらなまえは慌てたように車に戻って帰ってしまった。
…もう少し、一緒にいたかったのにな、なんて。
(2020.06.30.)