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二年前の四月。
真新しい制服に身を包んで、知らない人しかいない見慣れない教室で、ただただ緊張していた。

岩鳶高校入学式、と書かれた看板の横を通って、学校説明会と受験の時に訪れたことのある校舎を地図を見ながら歩く。
どうにか辿りついた教室で、座席表に書かれた自分の名前の席に座って早く担任の先生が来ないかと入学式の段取りが書かれたプリントを眺めた。
それほど情報量が多いわけではないプリントはすぐに読み終わってしまったけれど、暇を持て余してしまって何度も同じ文字を目で追った。

もう隅々まで一字一句こぼさず読んでしまったところで突然プリントに影が差して、目の前に誰かが立ったことに気が付いた。
顔をあげると背の高い男の子が柔らかい笑顔でこちらを見下ろしている。

「みょうじなまえさん?」
「え、はい」

なんで名前…と思ったけれど、きっと座席表を見たんだろう。
あれ、わたし座る席間違えてたかな?

「みょうじさんって、もしかして佐野小?」
「そうだけど、えっと?」

誰だろう、もしかして同じ小学校だった?
こんなかっこいい男の子、佐野小にいたっけ?

記憶の中で目の前の彼の顔を手繰り寄せようとするけれど、申し訳ないくらいに思い出せない。

「俺、橘真琴。小学生のとき岩鳶スイミングクラブだったんだ」
「岩鳶スイミングクラブって…あ、もしかして凛と仲良かった真琴くん?」
「そうそう、よかった覚えてた」
「ごめん、正直今の今まで全く覚えてなかった」

本当に正直だ、と笑う橘くんの顔は確かにぼんやりと昔の面影がある…ような気がしなくもない。

「よくわたしのことわかったね。話したことなかったのに」
「あはは、本当に覚えてないんだね。あるよ、話したこと」
「え…!」

話したことを忘れているなんて、失礼すぎて開いた口がふさがらない。
そんなわたしの様子を橘くんがおかしそうに見る。

「これからよろしくね、みょうじさん」

笑った顔が柔らかくて、ただでさえたれ目な目尻がもっと下がった。
それがかわいいなって高校一年生の男の子に対しては失礼かもしれない感想を抱くのと同時に。
数週間前まで毎日のように顔を合わせていた幼馴染の、優しくないたれ目が脳裏に浮かんできて少しだけ悲しくなった。



「え、七瀬くんってあの七瀬遙くん?」

その後、橘くんに七瀬くんという幼馴染がいて、ハルも俺たちと同じクラスだよと橘くんが教室の後ろを指差したときは驚いた。
凛が昔「七瀬遙って奴がさ、」とよく話していた人物が岩鳶高校に入学しているなんて思いもしなかった。
世間の狭さに驚いたのもあるけど、だって、岩鳶には水泳部がない。
凛が転校してまで一緒に泳ぎたいと思った選手なのに強豪校に進学しなかったんだ。


「小学生最後の大会でさ、岩鳶スイミングクラブに来た凛とメドレーリレーに出たんだよ」
「あ、その大会わたしも観に行ったかも?」

遠い記憶を辿って、プール脇の観客席から一生懸命凛の応援をしたことを思い出す。

「うん、来てた。そこで初めてみょうじさんに会ってさ、ちょっとだけ話したんだよ」
「…そうだったんだ」
「あはは、本当ちょっとだけだったからね。凛とハルと渚ってひとつ下の子と、俺とで出られる最後のレースだったんだ」
「そっか凛が留学しちゃったから…最後だって言うから、わたしも観に行ったんだよね」

そのレースで凛たちは優勝して、みんなで肩を抱き合って飛び跳ねて喜んでいる四人を見てわたしもすごく嬉しかった。
そのあと凛は留学してしまって滅多に会えなくなったけれど、意外とマメな性格の凛はよく手紙をくれたし、日本に帰国しているときは連絡をくれた。
なんて懐かしいことを思い出していたら橘くんが思いもよらないことを言った。

「あとさ、みょうじさんはそのとき隣のレーンで泳いでた選手とも知り合いみたいだったよね?」

ドクン、と心臓が鳴ったような気がした。
一度大きく脈打った心臓は、さっきよりも早く動いていて、自分で考えているよりもずっと宗介がいない「いま」がつらいんだって思い知らされてしまう。
隣のレーンを泳いでいたのは宗介たちのチームで、凛とリレーを泳がないとケンカをしていた二人のことも本当はちゃんと覚えている。

「そうだったっけ?隣のレーン、誰が泳いでたか覚えてないや」
「確か佐野スイミングクラブだったと思うけど」

みょうじさんは昔のことあんまり覚えてない人なんだねと橘くんが柔らかく笑う。
それが馬鹿にしてるとか呆れてるとか、そういう類の笑いじゃなかったから、橘くんにつられてわたしも力なく笑った。



中学の卒業式からまだ三週間くらいしか経っていない。
中学在学中とか小学生の時は春休みって短いと思っていたけれど、高校入学を控えた期間は何も手につかなくてぼんやりと過ごしてしまった。
宗介はすぐに東京に行ってしまったから、会わなくなって三週間。
こんなに会わないのは知り合ってから初めてだ。
幼馴染離れはしたものの、夏休みとか冬休みの長期休暇だって家が近かったから偶然顔を合わせるなんてことはしょっちゅうだった。
挨拶くらいしか交わさなくたって、それだけでわたしには十分だった。
幼くて自分のことしか考えていなかったなぁと今なら思う。

なんとなく宗介のことが特別で、だからからかわれたくなくて。
その特別、が凛に対しての感情と違うんだってことに気が付かなかった。
だって凛はオーストラリアに行ってからだって連絡をくれたから寂しくなんてなかった。

凛と宗介とわたし。
三人で保たれていた関係が、凛がいなくなってしまって変わって。
宗介と前みたいに話せなくなって寂しかった。

距離をとってよそよそしい態度を取ったのは自分だから寂しいなんて言えるはずもなくて。
それでも会えば話すし、これはこれでいいんじゃないかと思っていたのに宗介は遠くへ行ってしまった。

高校生活はあと三年もあるというのに、凛と宗介がいない三年なんて想像しただけで気が遠くなる。
…三年経って、二人に会えるのかって聞かれたらそれもわからないのだけれど。
きっと凛も宗介も自分の夢に向かって遠くへと進み続ける。


(2014.07.21.)
(2020.07.08.加筆修正)





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