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館内を一通り回って、イルカショーも見て、お土産ショップも見たら後はもう帰るだけだった。
閉館時間まではまだ時間があるけれど小さな子供がいる家族連れは早めに帰るみたいでお客さんはかなり少なくなっていた。
水族館を出ると、少し陽が陰ってきてもうすぐ夜だと教えてくれる。
「…なまえ」
駅にまっすぐ向かうのかと思ったところで真琴に名前を呼ばれた。
立ち止まって振り向いた先には真琴が真剣な顔をしていて、それだけでもう胸がいっぱいだった。
「帰る前にちょっと時間もらってもいいかな」
「うん…いいよ」
頷けば水族館の裏手にある広場に連れて行かれて、そこに広がっている景色に驚く。
海が見渡せて、波の音しかしない、ちょうど夕陽が傾きかけた時間。
オレンジに染まった小さな広場には誰もいなくて心臓がドキドキとうるさかった。
「座る?」
一番夕陽が綺麗に見えるベンチを指して真琴が言う。
話をするのだろうなということは言われずともわかったから、またこくりと頷いてベンチの端に座ったら、少し間を空けて真琴も座った。
「今日、来てくれてありがとう」
「…ううん」
「なまえと駅で会うまで来てくれなかったらどうしようって思ってた」
「すっぽかすなんてしないよ」
本当は行きたくないなってちょっとだけ思っていたけれど。
真琴が眉を下げて弱く笑う。
「うん。なまえはそんなことしないって思うけど、不安で。かっこ悪いよね」
「そんなこと、ないよ」
真琴はいつだって優しくて周りを思いやって自分より人のことを気遣うような人で、真琴自身だって不安や寂しい気持ちを感じないはずがないのに。
きゅっと膝の上に置いた自分の手を握りしめる。
「今日、誘ってくれて嬉しかった」
「それならよかった」
昨日から…いや、夏からずっと心が浮いたり沈んだりしていたけれど昨日出掛けようと言われたことは嬉しかった。
緊張も動揺だってしたけれど、嬉しかったんだよ。
「水族館の裏側にこんなとこがあるの知らなかったな」
「昔ハルと家族で来たときに見つけたんだ。ハルがここから海に飛び込もうとしてさ」
「えぇ…まぁハルならやりかねないけど…」
そんな危ないことをしようとして、よくハルがここまで無事に生きてこられたなと本当に思う。
その時に止めに入った真琴の慌てる様子も想像できて笑みが自然にこぼれた。
「…俺、なまえが俺の隣で無理して笑っているって感じた時があったんだ」
そんなことないってすぐに言おうとして、飲み込む。
否定できないのは別れを告げられたときにも「俺のほうを見てない」って苦しそうに言われたことを思い出したから。
わたしは真琴に何回苦しい思いをさせるのだろう。
「なまえの隣にいるのは俺じゃないほうがいいんだって思った。だから、別れることがなまえのためになるんだって」
あの時、もう無理だと言った真琴の顔は涙で滲んでよく見えなかった。
別れたら真琴は楽になれるんだと思ったけれど、違ったのかな。
この半年、ずっと困ったように微笑んだり苦しそうに俯く姿ばかり見ていた気がする。
きっとわたしも、真琴と同じだった。
「あの時は俺もいっぱいいっぱいで、なまえのこと傷付けて、ごめん」
「…違うよ、傷付いてたのは、」
傷付いていたのは真琴で、傷付けたのはわたし。
ずっとそれが苦しくて謝りたくて、許されるならもう一度心から笑いかけてほしいって思っている。
言葉にしたら涙も一緒に零れそうで口をつぐんだ。
「なまえと距離を置いたら平気になると思ったんだ」
「…うん」
「だけど全然駄目で、なまえのこと目で追っちゃって」
わたしもだよ、って言ったら真琴はどんな顔するかな。
今、どんな表情で話をしているんだろう、わたしは顔をあげることすらできない。
「山崎くんと一緒にいることでなまえが幸せになれるならそれでいいと思ったんだ。なのに昨日追いかけたのは…乱暴に連れて行かれたのが心配で、邪魔する権利なんてないはずなのに考えるより先に身体が動いてた」
心配して来てくれたんだというのは、昨日の真琴の姿を見たらわかった。
プールからあがってまっすぐに追いかけて来たんだろうなって。
いつもより低い声で顔だって怖くて、宗介を責めるような真琴に驚いたけれどわたしを抱き締めた腕はひどく優しかった。
「今更だってことは、わかってるんだ。だけどちゃんと伝えたくて、俺の気持ち」
勝手なことばっかり言ってごめん、とまた真琴が謝った。
「普通の友達に戻れたらいいなって思ってた時期もあったんだけど、やっぱりそんなの嫌で」
言葉を切った真琴がすうっと息を吸ったのが伝わってきた。
風は静かで海も凪いでいるから波の音だけ、それと丁寧に紡がれる真琴の言葉だけが鼓膜を揺らす。
「なまえのことが今でも好きだ」
…昨日も言われた、好きだって、好きでごめんって。
どうして謝るのって一晩考えてもわからなかった。
謝られたら、わたしも好きって言えないよ。
我慢していた涙が堰を切ったように溢れて、だけど真琴に気付かれたくなくて手の甲に落ちた涙を反対の手でごしっと擦る。
ぽたぽたと止めどなく零れる涙はそんなことしたって誤魔化せないのに。
「…わたし真琴のこといっぱい傷付けた」
「俺が向き合うことから逃げただけだよ」
「っ…真琴は、わたしのこと考えて別れようって言ったんでしょう」
話すと嗚咽が出てしまって、もう泣くのを隠そうという考えはどこかへ追いやる。
「それもあるし、なまえが…山崎くんのことを好きになるんじゃないかって、俺はいつか振られるんじゃないかって思って、逃げたんだ」
「そ、そうすけのことは、本当に違くて、」
「うん。ごめん。もうわかってる」
ぎゅっと握っていた手が、真琴の大きな手に覆われて思わず顔をあげてしまった。
今、涙でぐちゃぐちゃで絶対ひどい顔なのに。
「本当にごめん。ずっと謝りたかった」
「…ううん、わたしもごめんなさい。不安にさせて、傷付けた」
なのにどうしてそんなに優しい瞳でわたしを見るの。
真琴は悪くないのに。
「…また泣かせちゃったなぁ」
「…ごめんね、困るよね…」
空いていたほうの手で顔を隠そうとするけれど、真琴にその手をそっと払われて指先が目尻の涙をすくった。
「困らせてるのは俺だから。けど、なまえには笑っていてほしいなってずっと思ってる」
涙で滲む真琴の笑顔が優しくて柔らかくて、笑ってって言われてもそんなの無理だった。
「すぐに応えてほしいとは思ってないんだ。ただ知ってほしくて、ちゃんと伝えたかった」
「……うん」
「またなまえの隣に立てる男になれるように頑張るから」
そんな風に想ってもらえるような人間じゃないよ、って思うのにうまく言葉が出てこない。
込み上げる嗚咽も涙も止まらなくて紡いだ言葉は情けないくらいに小さくて声が震える。
「が、頑張らなくて、いいよ」
「……、そっか」
「今度はわたしが、頑張るから」
きゅっと唇を噛む。
真琴が勇気を出して言ってくれたんだからわたしもちゃんと応えないと、逃げないで目を見て、伝えないと。
「わたしも…前みたいに友達になろうって思ったけど、全然駄目だった」
「うん」
「なんで別れたときに…その前だって、ちゃんと真琴のことが好きだよって伝えられなかったんだろうって、ずっと後悔してて、別れてからも優しい真琴といるのが本当は辛くて、」
それでも細く繋がった糸は切れなくて、心のどこかで大切にしたくて、
「信じてもらえるように頑張るから、だから、」
もう一度、この手を握り返してもいいかな。
「真琴のこと、これからも好きでいさせて」
触れた手の温度が熱くて、涙がぼろぼろと零れて止まらない。
手に触れていた真琴の手が、わたしの手首を掴んで真琴のほうへと引いた。
真琴の手が背中と後頭部に回って頬を胸板に押し付けられる。
「まこと、」
「なまえ」
「はい」
「…もう一回言って」
「え?」
「好きって、言って」
とくんとくん、と真琴の心音が伝わってきて、聞こえてくる声は少しだけ潤んでいるような気がする。
真琴の腕に力がこもって痛いくらいだったけれどわたしも真琴の背中に手を回して、ぎゅっとコートを握った。
「好き、です」
「……」
「真琴、何か言って…」
「うん…なまえ、」
「うん」
そっと身体を解放されて、真琴にまっすぐ見つめられる。
緑色の瞳はうるうると今にも泣き出しそうで、眉は下がって唇はきゅっと何かをたえるように結ばれていた。
「もう一度、俺の彼女になって」
泣きそうなのに優しい顔で、わたしの大好きな笑顔で笑ってくれたから、真琴が笑顔でいてってわたしに言ってくれたから、わたしも。
泣き笑いで相当情けない顔だと思うけれど、真琴の指が涙を拭ってくれて、大きな手のひらが頬を包んでくれる。
返事はひとつしかないのに、なんて答えたらいいのか言葉にならなくて、「うん」と小さく、だけどちゃんと伝わるように頷いた。
「なまえ、好きだよ」
大切にする、と抱き締められた耳元でささやいた真琴の声が優しくてやっぱり涙が出た。
(2018.07.10.)
お読みいただきありがとうございました。