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横に並んだ宗介を見上げたあと、ふとプールに目をやる。
視界に入った真琴が他の人よりも輪郭がはっきりと見えるような気がするのはなんでだろう。
真琴は御子柴くんと何か話していて、楽しそうでホッとするのに胸がぎゅっとなる。
「そういえば今日、橘と話してないな」
「えっ…いや、そんなことないよ。朝話した」
「ふーん」
真琴のことを見ていたのがバレたのだろうか、恥ずかしい。
さっきまで穏やかに二人で話せていたのに急に話題の雲行きが怪しくなって言葉に詰まってしまった。
夏からずっと宗介はわたしたちのことを自分のせいだと気にかけてくれていて、返事がそっけないようでいてその言葉に宗介なりの気遣いがあることくらいわかる。
「あのね、真琴とのことなんだけど」
「おう」
「この前ゆっくり話す時間あって。仲直りした、というか…」
「…そうか」
「ヨリ戻すとかじゃないんだけど和解した、よ」
「……は?」
たどたどしく話すわたしに耳を傾けてくれていたと思ったら急に眉間にシワが寄って、ただでさえ低い声のトーンが下がった。
だからそういう顔は怖いんだってば…。
「…っとにヘタレだな……」
「え?」
ぼそっとギリギリ聞き取れるくらいの声量で宗介が言う。
と、思ったら大きな手がまたわたしの頭に乗って、撫でるなんて優しい手つきじゃないくらいにガシガシと髪の毛をぐしゃぐしゃにされた。
「っ何?ボサボサになるじゃん…!」
「うるせぇ」
「理不尽…って本当に何?」
髪の毛を整えながら文句を言っていたら今度は着ていたパーカーの上から脇腹を掴まれた。
「お前まだ食欲ねぇの?」
「掴まないでください、どうしたの急に…普通に食べてるよ…!」
細いと言われたのなら嬉しいような気もするけれどこれは褒められているわけじゃないことくらいわかる。
やめて、と言ったら宗介は表情を変えずにわたしの手首を掴んでまた「折れそう」とか呟く。
「…ちょっと来い」
「えっ何、宗介?」
宗介が肩にかけていたスイムタオルを近くにあったベンチに叩きつけるように投げると、バンっと少し大きな音が鳴って肩がビクついた。
プールではしゃいでいた人にも、近くにいたら聞こえてしまったみたいで何事かという顔で見られる。
手首を掴まれたままぐいぐいと引っ張られて、シャワー室へと連れて来られたと思ったら入ってすぐ横の壁を背にさせられて宗介が正面に立った。
「ど、どうしたの」
「もう上がるからシャワー浴びようと思って」
「うん?どうぞ…わたし外で待ってるよ」
手を離してほしくて宗介を見上げるけれど、宗介は何も言ってくれないし手を離してもくれない。
「宗介…?」
もう一度呼びかける声と、遠くから近付いてくる足音が重なった。
「宗介、誰か来るから」
「うん」
「じゃなくて、離れてくれないと誤解されるよ?!」
わたわたと一人で慌てていたら手首を掴んでいないほうの手で口を覆われてもごもごとしか声が出せなくなった。
宗介の手から塩素のにおいが強くする。
ヒタヒタ、と足音がすぐそこで止まった。
誰かがシャワーを使いに来たんだ。
宗介が前に立ちはだかっているからどうにも逃げ場がなくて、早くそこにいる誰かに違うんですって言わないといけないのに。
「…こういうところでは、やめたほうがいいと思うよ」
「……っ」
真琴、の声がした。
「そうすけ、」
離して、と口にする前に口を覆っていた左手も、手首を掴んでいた右手もパッと、なんの躊躇もなく離された。
「…え?」
「なんにもしてねぇよ。橘が心配するようなことは」
「っ俺は、」
なに?どういうこと?
頭がついていっていないのはわたしだけなんだろうか。
いつだったかのように真琴と宗介が対峙していて、だけどあの時とは違って宗介はどこか呆れたように溜息を吐いた。
「なんだよ」
口籠った真琴に、宗介が続きを促した。
「俺はただ…なまえが乱暴に連れて行かれた先がこんなところだったから、心配で。他に誰が来るかもわからないのに」
「ここじゃなきゃいいってことか」
「そんなこと言ってないだろ!」
珍しく真琴が大きな声で人を責めるような目をしていて、この前うちで真琴と宗介が鉢合わせたときはこんなんじゃなかったのに。
「心配しなくても、俺はなまえには何もしてないしするつもりもねぇよ」
状況が掴めなくて宗介と真琴の顔を交互に見上げる。
真琴はやっぱり少し怖い顔をしていて、宗介はおもしろくなさそうに眉を寄せていた。
プールにいる人たちにさっきの真琴の声が届いていたら騒ぎになっちゃわないかな、なんて少し思考を飛ばしていたらトンっと背中を押された。
宗介に、真琴のほうに向かって。
いきなりだったから踏み出した一歩を自分でコントロールできなくて、真琴のほうにつんのめるような体勢になってしまった。
真琴が咄嗟に両腕を差し出して、わたしの肩を抱き寄せた。
「そんなに大事ならしっかり捕まえとけよ」
そう言うと、わたしと真琴の横を通り抜けて、シャワー室を出て行こうとする。
「そ、宗介、シャワーいいの?」
こんな雰囲気のなかでシャワーは?なんて的外れだとは思うけれど、口が勝手に動いた。
「気が変わったからもうちょい泳いでくる」
じゃあな、と手をあげた宗介が真琴の肩をぽんっと軽く叩いた。
「…お人好し」
「橘には言われたくねぇよ」
二人がわたしの頭の上で会話をしていて、訳が分からないのは自分だけなのだろうか。
宗介はさっさとプールのほうへ戻ってしまって取り残されたわたしと真琴の間には変な空気が漂っている。
「宗介がお人好しって、どういうこと?」
「…なまえはわからなくていいよ」
「えぇ…」
「手首、大丈夫?」
話しながらさっきまで宗介に掴まれていた手首をさすったのは無意識だった。
ちょっと強めに引っ張られはしたけれど手加減はしてくれていたから痛いわけではない。
「うん、大丈夫」
「お腹のあたりも触られてたけど」
「?…あぁ食べてるのかって聞かれただけだよ、体調心配してくれてて」
「そっか」
プールサイドでの宗介とのやりとりを見られていたのかと思うと少し気まずい。
心配でここまで追いかけて来てくれたって言っていたけれど、わたしが真琴のことを目で追ってしまうのが癖になっているみたいに真琴もわたしのこと、見ていてくれたのだろうか。
そこに特別な感情なんてもうないのかもしれない。
だけど嬉しいと思うことくらい許してほしい。
それ以上何も言わない真琴の表情を窺うように見上げると、緑色の瞳に自分が映って肩に置かれたままの真琴の両手にぐっと力が入ったのが伝わる。
いつまでこの体勢なんだろう。
…服の上からでも真琴の体温が伝わってきそうでちょっと落ち着かない。
「…えっと、真琴は?もう上がるの?」
「あぁ、うん、どうしようかな」
「心配して見に来てくれたんだよね?大丈夫だから、真琴も戻っていいよ」
「いや……」
「?」
真琴の髪の毛からポタポタと水滴が落ちる。
「…俺、何してるんだろう……」
俯いて独り言のように呟いた。
「…さっきの、山崎くん。本当に何もなかったの?」
「う、うん」
確認するように真琴に聞かれて頷けば、そっか…と息を吐くように真琴の力が抜けた。
よかった、と呟いてぎゅうと抱き締められる。
「まっ真琴、」
真琴の身体はまだ濡れているし、髪の毛からポタっと垂れた水が首筋に当たって肩が跳ねた。
やめて、と思うのに声にならない。
こんな風にされたら勘違いする。
誰かに見られたら誤解だってされる。
呼吸が浅くなるけれど、必死に酸素を吸おうとすると真琴のにおいと塩素のにおいで泣きそうになる。
懐かしい香り、だけどなぜかひどく鮮明で、じわじわと込み上げてくる涙を必死にこらえた。
「ごめん、俺……まだこんなに、なまえのことが好きで、ごめん」
(2018.07.08.)