52

…泣かせてしまった。

「ごめんね、なんか最近涙腺緩くて…」

体調悪い時って勝手に涙出ることない?と無理矢理笑ってみせたなまえの目尻をそっと親指で拭った。

「うん」

触れちゃいけない、触れたところからじわじわとなまえの熱が伝わってまた苦しくなるだけだ。
そう思うのに。
距離を置けば気持ちが落ち着くだろうと思っていたのにそんなことは全くなくて、たまに話せば空いた期間に募った思いが捻じれてこじれて、自分で自分の首を絞めているような気がした。



その後は二人とも言葉なく、俺はなまえに背を向ける体勢でベッドに寄りかかっていた。
後ろからはぐすぐすと、控えめに鼻をすする音がしたけれど聞こえないフリをしていたら、次第に止んで小さな寝息に変わった。
満腹なのと風邪薬が効いたのだろうか。
そっと振り返ってなまえの寝顔を覗き込めば目尻に涙の跡があった。

…とりあえず、食べ終えた皿と水の入っていたコップを洗おう。
なまえを起こさないようにそっと部屋を出てまた台所へ。
冷たい水で食器を洗うと頭も少し冷えてクリアになってきた、ような気がする。

(…帰るタイミング逃したな)

なまえが次に目を覚ますまでここに居座るのはどうなんだろうと思う一方で、寝ている隙に帰るというのもなんだか…だって具合が悪くて起きたときに家にひとりって、寂しいだろ。

なまえの部屋に戻ると相も変わらず、すうすうと眠っていた。
ここ何か月かなまえの顔色はあまり良くなくて、それは受験のせいもあるだろうけれど俺のせいも少しはあったと思う。
今日くらいはゆっくり眠ってほしい…それくらい思う権利はあるだろうか。

「…ごめんね」
「ん……」

小さく呟いて毛布をかけ直すと、なまえが身じろぎをしたから思わず手を引いた。
起こさないように気を付けたつもりだったのだけれど。
眉間にシワが寄って、「まこと…」と名前を呼ばれた。
顔を覗き込むけれどなまえの瞼はしっかり閉じられたままだから寝言のようだ、夢でも見ているのだろうか。

「きらいに、ならないで…」

多分あと少し遠くにいたら聞こえなかった。
それくらい小さな消え入りそうな声。
だけど確かに耳に届いて俺の心臓を揺らした。

嫌いになんて、なれるわけがなかった。






ピンポーン、


どれくらい時間が経っただろう。
なまえはまだ眠っていて、外が少しずつ暗くなってきた頃にインターホンが鳴った。
勝手に出ていいものか悩んでいるうちにもう一度ピンポン、と呼び出されてとりあえず玄関に向かう。

宅配便だったらサインでいいかな、俺の字でもまぁ大丈夫だろう、多分。
それか江ちゃんがやっぱり来てくれたとかだろうか。
考えを巡らせながら「はい」と応答した、けれど返事がない。
聞こえなかったのだろうか。
不思議に思ってドアスコープを覗くと、そこには全く予想していなかった人物が立っていた。

扉を開けようか、だけどここで彼と鉢合わせするのはあまり良くない気がする。
やましいことなんて何もないのだけれど躊躇していたら、なまえの部屋のほうから携帯電話の着信音がした。

まさか、ともう一度外の様子を見たら案の定だ。
みょうじ家の前に立っていた山崎くんが、携帯で誰かに電話をかけていた。
慌てて扉を開けたら山崎くんが驚いたようにこっちを見る。

「橘?」
「あの、悪いけど今なまえ寝てるから電話切ってもらえるかな」
「は…?」

簡潔に伝えたらめちゃくちゃ怪訝な顔をされたけれど電話は切ってくれた。

「…知らない男の声かと思ったらなんで橘がいるんだ」
「ちょっと訳ありで。なまえ、体調崩して親御さんいないから様子見てくれって江ちゃんに頼まれて」

多分山崎くんは「なんでお前が」って思っている、そう顔に書いてある。

「体調崩したって、大丈夫なのか」
「風邪だと思う。薬飲んで寝てる」
「…そうか」

わかりやすくホッとしたような表情。
山崎くんはなまえのことが大事で心配で仕方ないのだろう。

ぐっと唇を噛みしめたところで、とんとんと階段を下りてくる足音がして振り返る。
なまえが手にペットボトルのポカリと携帯を持って降りてきた。
さっきの電話で起きてしまったのだろう。
顔色は大分良くなっていた。

「…え、宗介?どうしたの…?」
「悪い、寝てたんだってな。体調どうだ」
「大丈夫だよ、朝けっこうしんどかったんだけど」

……二人が一緒にいるときに感じる疎外感みたいなものは何度経験しても慣れない。
心なしかなまえと山崎くんの空気が以前よりも柔らかくなっていて自然体で、前はあんなにギスギスしていたのに。

「真琴がいろいろ面倒見てくれて…真琴ごめんね、こんな時間まで」
「え、あぁ、ううん」
「宗介何か用事あったの?」
「あぁ。これ、凛たちと温泉行ってきたから温泉饅頭」
「わー甘いもの嬉しい、ありがとう」
「おばさんたちと食って。…橘もよければどーぞ」
「え、」

まさかここで俺の名前が出ると思わないだろ。
どーぞ、なんて言ったわりに山崎くんの顔は全然穏やかじゃない。
俺に向ける表情となまえに向ける表情が違いすぎる。
…なんて、多分人のこと言えないけれど。

「俺もう帰るから、大人しく寝ろよ」
「え、うん…ありがとう」

山崎くんが温泉饅頭だという袋をなまえに手渡す。

「橘も、またな」

これには素直に驚いた。
山崎くんと話をしたことがないわけではなかったけれどいつだって険悪でこんな風に別れの挨拶をされた記憶はない。

「うん、また」

なまえと並んで山崎くんを見送った。
なんだこの状況…と思ったけれど隣に立つなまえを見下ろしたらなまえも同じことを思っていたようで、ぱちぱちと瞬きをしながら閉まった玄関扉を見つめていた。



(2018.06.26.)


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