蕾のまま

クラスも違う、学年が一緒なわけでもないし部活でも会えない。
顔を合わせられるのは週に二回のそれぞれ五十分間。
偶然廊下で会えたときはなんて声をかけたら自然かなってそわそわしたし、面倒だったはずの全校集会が待ち遠しくなった。

そんな生活も今日で最後。
どうして高校生活は三年しかないんだろう。
どうして、わたしはまだ十八歳なんだろう。


「菅原先生、」
「おーみょうじ」

卒業式が終わって最後のクラスでのホームルームが終わってみんなで写真を撮った。
クラスメイトとも思い残すことがないようにたくさん話して写真を撮ったけれど、その間も早く教室を出たくて先生を探しに行きたい気持ちは消えなくて。
もつれそうな足を動かして何度も通った廊下を急いだ。

「よかった、先生帰っちゃってたらどうしようかと思いました」
「もしかして急いで来てくれた?」
「え?」
「前髪乱れてるから」

ちょんちょん、と人差し指で自分の髪を指しながら教えてくれる。
恥ずかしくて慌てて直したら笑われた。
こんなやりとりも、もうできないのかなぁ。

「走ってきたので…」
「そっか」

小学生だって廊下を走っちゃいけないことくらい知っているというのに、それを聞いても菅原先生は優しく笑う。
国語科準備室は相変わらず静かで、他の先生はみんな出払っているらしい。
きょろ、と軽く見回したら「みんなクラス担任だからね」と菅原先生が教えてくれた。

「先生は、副担だけどうちのクラス来ないんですか?」
「あーそうだなぁ。副担ってみんなそんなに思い入れなくない?」
「わたしは、ありますけど」

俯いて言う言葉は不自然に聞こえなかったかな。
副担任はたしかにあんまり存在感がない…って言うのも失礼だけど、ホームルームとか面談とかは担任の先生がやるしそもそも接する機会が少ない。
だけどわたしのクラスは、菅原先生が副担任だったから。
担任が体調を崩してしまったと菅原先生が朝から教室に来てくれたときは不謹慎だけど嬉しかった。

先生が朝の出席を取るとき「みょうじー」と出席番号の順番で呼ばれて「はい」とただ二文字返すだけなのに嘘みたいに緊張した。
今だって、先生と向かい合って話すのは緊張する。

「そっか」

またそう言って、菅原先生がふわっと笑った。

「あの、これ、書いてもらえますか?」
「あぁ卒アルな!もちろん」

卒業アルバムの後ろのページはメッセージを書き込めるようになっていて、配られた日からみんなに書いてもらってスペースはだいぶ埋まっていた。
パラパラとめくりながら書くところを探している先生の表情をじっと見る。
いつもこうだった。
授業中に板書する後ろ姿を見つめて、教科書を読んで俯いているときはバレずに先生の顔を見ていられた。
出席番号の数字の日は当てられるかもってそわそわしたし、そうじゃなくても菅原先生の授業だけは予習も復習もいつも完璧にしていって。
定期テストは馬鹿だと思われたくないから、先生の教科だけはめちゃくちゃ勉強した。

書きこむ場所を決めたらしい菅原先生が、黒の油性ペンを自分のペン立てから取る。

「書いてるとこ見られてるのなんか恥ずかしいな」
「えっ」
「ちょっとあっち向いてて」
「はい…」

少しだけ考えるようなそぶりの後で先生は自分のデスクで大きな卒業アルバムに小さく文字を書き始める。
黒板に文字を書くのって何度やっても慣れなくて、わたしはうまく書けないのに菅原先生の字はいつも綺麗で読みやすくて大好きだった。
たまにノートと教科書を持ってこの準備室に質問に来れば、ノートに書きこんでくれる赤や青のボールペンの字だって好きだった。
今、同級生や後輩が書いてくれたカラフルな文字の隙間に書いてくれているのは黒の油性ペンで目立たないはずなのに、きっとこの先何年経っても卒アルを開くたびにいちばんに目に飛び込んでくるのは先生の字だと思う。

あっち向いてて、と言われたけれど横目で先生のほうを盗み見る。
色素の薄い髪の毛、前髪の隙間から見えるぱっちりした二重、ペンを持つ右手。
今はスーツを着ているけれど授業の時はワイシャツの袖をまくっていて、チョークを持つ腕の筋も、全部。
先生に知られたら気持ち悪がられてしまうんじゃないかと怖いくらいに、先生のことを好きになってしまった。

「はい、書けた!って、めっちゃこっち見てるじゃん!」
「えへへ」
「まぁいいけど…はい、どうぞ」
「ありがとうございます」

この場で読みたい気持ちもあるけれど、読んだらきっと泣いてしまう。
何が書いてあるかなんてわからないけど、何が書いてあったって今日という日に先生がくれた言葉だったらなんだって特別になるもん。
パタンとアルバムを閉じた音が妙に準備室に響いた。

「…あの、」
「ん?」
「……、」


写真撮ってください。
送るので連絡先教えてもらえないですか。
また、会いに来てもいいですか。


頭の中で何度もシュミレーションした。
なんて言おうかいっぱい考えたけれど声にならなくちゃ意味がない。
言葉が続かなくて変な間が空いてしまったから余計に言い出しづらくなってしまった。
唇を噛んでしまったのは無意識でどうしようと思うと涙がこみ上げてきそうになってまた焦る。

「みょうじは大学進学だよな」
「、はい…」
「そっか、楽しいぞー大学」

先生はいつもみたいに笑っていて、ひだまりみたいなこの笑顔を見るたびに幸せな気持ちになれたのに今日は心臓がぎゅって苦しい。
話題を振ってくれたのは優しさだってことはわかる。

「みょうじの行く大学、俺の友達の母校でさ。学食行ったことあるよ」
「そ、なんですか…」

油断すると涙が表面張力に負けそうで先生から目を逸らしてしまう。
相槌すら上手に打てない。
先生とこんな風に話せるのは最後かもしれないのに、こんな情けない顔がしたいわけじゃないのに。

「俺の大学、学食まずくてさ。みょうじのとこはメニューも多かったんだよな」
「…おすすめのメニューは?」
「麻婆丼!」
「やっぱり」
「あはは、聞くまでもなかった?」

膝の上に置いていた手が無意識にスカートをぎゅっと掴む。
ぐす、と鼻からかわいくない音がしてしまった…と思ったら俯けた視界にずいっとティッシュの箱が差し出された。

「使う?ごめんな、ハンカチとかなくって」
「…泣いてないです」
「うん」

伝えたいことはたくさんあったはずなのに、そのひとつも言葉にできない。
高校生じゃなくなったら先生に気持ちを伝えてもいいんだと思っていた。
卒業してすぐにとは言わなくてもいつか好きですって言いたいって、そう思っていた。
ずっとずっと早く卒業したくて先生に伝えたくて。
だけど、伝えることで先生を困らせることになったら嫌だな。
こんなに優しくしてくれるのはわたしが先生の生徒だからだってことはわかっていた。

先生がくれたティッシュを箱ごと受け取ってそのまま膝の上に置いた。
早く卒業したかったのにいざその日を迎えたらこんなに寂しくて、当たり前に続いていた高校生活が終わるのだと思うとまた込み上げるものがある。
もっと大人になって、いつかこの日を思い出すときにこんな風に俯く自分を「幼かった」と笑える日が来るのかな。


「体育祭とか、文化祭とか、先生も参加してくれましたよね」

体育祭は若手だからって先生も競技に駆り出されていて、先生と肩を並べて笑っているクラスの男子が羨ましかった。
文化祭も準備からすごく協力してくれて放課後教室に顔を出してくれた時は作業の手が止まってしまいそうになったし、「先生車でしょ?買い出し手伝って〜!」なんて気軽に言えるクラスメイトがやっぱり羨ましかった。

呼吸のたびに涙が出そうで、じわじわ込み上げるものをなんとか瞳の奥に引っ込めようと何度も何度も瞬きをしてしまう。

「みょうじ、いっつも楽しそうだったよな。準備の時も、本番も」
「…はい」

楽しかった、本当に。
先生がいてくれて心がふわふわ浮くみたいで恋をしている時間が楽しくて幸せで、あぁ、やっぱり、卒業したくないなぁ。

「先生、わたし、高校楽しかったです」
「……そう言ってくれるのが一番嬉しいかもなぁ」

菅原先生が嬉しい、と言うと顔をくしゃっとさせて笑ってくれた。
先生はわたしよりも大人だけど、笑ったときに目尻が下がるこの笑い方が少年みたいで大好きだった。
好きです、と何度も心の中で伝えた言葉は、やっぱり声になりそうにはない。


(そろそろ戻らないと、ダメかなぁ)

スカートのポケットに入れていた携帯が何度か震えていることにはさっきから気付いていいた。
卒業式の後はみんなで最後のクラス会をする予定になっていて、もうそろそろ移動しないとお店の予約時間になってしまう。
友達には「先に移動してて」と言っておいたから、もし遅れてもお店で合流すれば大丈夫だけど、なかなか戻らないわたしを心配して連絡をくれているのだと思う。

それに、いつまでもここにいるわけにもいかない。
今は出払っている他の先生たちだってきっともうすぐ戻ってくる。


先生にもう帰ることを伝えたら、ぱちりと丸い瞳をまたたかせた後にまた「そっか」と優しく微笑んでくれた。

いつも座らせてもらっていた丸椅子から立ち上がったらギシっと音がした。
スカートのしわをさっと伸ばして、腕に卒業アルバムを抱えたらずっしりと重たい。
先生も立ち上がって、国語科準備室の出入り口まで見送りにきてくれるというからお言葉に甘えることにする。

最後なんだな、と思うと何を言えばいいのかわからなくて。
廊下に足を踏み出してその場で準備室にいる先生を振り返ると、たった一歩がすごく遠くて、先生と生徒じゃなかったら何か違ったかなぁなんてありもしないことを考えるけれど先生と生徒じゃなかったら出会わなかった、きっと。


ありがとうございました、さようなら、大好きでした、どの言葉も言えなくて、違う気がして、菅原先生の顔をそっと窺うように見上げたらやっぱりいつものように微笑んでくれる。

「卒業って言ってもさ、今生の別れじゃないんだから」

だからそんな泣きそうな顔すんなーと、先生がぽんっと肩に手を置いてくれた。
左肩が熱い。

「だから、また遊びにおいで」
「…っはい、」

手に持っていた卒業アルバムを持つ手に力を入れないと涙が零れてしまいそうだった。
さよならの言葉も胸に秘めていた想いも伝えられなかったけれど、手を振る先生に小さく会釈をした後は背筋を伸ばして歩いた。


リノリウムの廊下がきゅっきゅっと音を立てる。
静かな校舎に響くその音を聞きながら窓の外を見ると桜の花びらが舞う風景が滲んだ。



(2020.04.05.)


うちの菅原先生は高校勤務です。




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