メランコリックラベンダー

※本誌のネタバレ含みます。「春を待つ」の数年後です。連載を読んでいなくても問題なくお読みいただけます。





「しばらく実家に帰ります」

それだけ書かれたメッセージを短い昼休憩の時間に見た俺の気持ちにもなってほしい。



医局の先生に「昼飯、何食う?」と見せられた出前のメニューを眺めて焼き魚の弁当を頼んだ。
医学部五年次に行われる病院での現場実習は当たり前だけれど毎日自分の知識ではどうにもならないことの連続で体力的にも精神的にも削られる日々。
最初は疲れすぎて食うのもしんどいと思ったけれど、体力勝負の職業だし食欲が湧かない程の疲労というのは高校時代に経験があった。


「また魚?肉食えよ、たまには」

俺が受け取った弁当を見てそう言った指導医の先生は焼肉弁当にしたらしい。
出前や弁当はいくつかメニューのバリエーションがあって今のところ飽きていない。

「はぁ。でも俺、肉より魚派です」
「若いのに何言ってんだ」

肉派か魚派かという話に年齢は関係ないだろと思うけれど柔和に笑う先輩医師とはうまくやっている、と思う。

「本当は焼いてる魚よりしらすとか生でいけるのが好きなんですけど」
「あー海鮮丼とか?近くに寿司屋ならあるけど外に食いに行くのはうちにいる間は難しいな」

弁当の蓋を開けながら相槌をうつ。
医局によるだろうけれど、昼飯をゆっくり食う時間はあまりない。
今お世話になっている外科病棟は殊更だ。
タイミングが合えばこうやって誰かと話をしながら食べることもあるけれど、「昼行って来ていいよ」と声をかけてくれた指導医がその後も休憩を取る姿を見なかった、なんて日は珍しくない。
食事の時間だろうがコールが鳴れば弁当そっちのけで走る。

「支給される弁当も美味いけど、山田先生みたいに奥さんの手作りって良いですよね」

もう一人、指導医のさらに上司である先生とも珍しく時間がかぶっていた。
後輩医師に話を振られた山田先生は照れることもなく「うちのは料理すんの好きみたいで」と愛妻弁当を見せてくれた。

「白布は?そういう相手いないのか」
「あー…まぁ、います」

多分、弁当を作ってほしいと言えば頑張って作ってくれる。
特別得意というわけではなさそうだけれど無理のないときに作ってくれる飯はいつも美味い。

「おっそうか!大学の子か?」
「いえ、中高の同級生で…」
「じゃあもう長いんだな。その子は社会人?」

質問攻めだ。
高校で付き合い始めた頃も、大学にあがって新しい友人と恋人の有無が話題になった時もこうだった。
会話の糸口みたいなものだとは思うけれど正直この手の話は苦手だ。

「はい。今年から就職しました」
「生活環境ガラッと変わるしすれ違いが起きる時期だなぁ」

そう言った表情はしみじみと何かを思い出しているかのようで、まだからかい交じりに言われたほうがマシだと思った。
たしかに環境は大きく変わった。
なんせお互いの肩書きが違うものになったのだ。

なまえは社会人。
俺はまだ大学生。

だからと言ってどうするというわけはなく、おれはストレートで国家試験をパスして医師になるべく努力を重ねるしかない。
自分の専門分野を決める前に色々な病棟を回る今の期間は、これからの道を決めるために重要であることはわかっているし全て吸収してやるという気持ちで臨んでいる。


「実習中はしんどいだろうけど、喧嘩しないようにな」
「はい」
「俺が学生で病棟回ってたときはなぁ、」

指導医の昔話を聞きながらもかきこむように弁当を食べ終えて、プライベートの携帯を何気なく、本当に何気なく見た。
余裕がなくて携帯のことなんて思い出す暇さえない日もあるというのに。
ロック画面に通知がひとつ来ていて、通知に表示されていた短い文面に一瞬時が止まった。

「……は?」

思わず声が漏れたけれど幸い誰の耳にも届かなかったようだ。

画面をタップして全文を表示させるけれどスクロールはできない。
たった一言「しばらく実家に帰ります」って、なんだ急に。

送信時間は三時間前。
俺が早朝に家を出るときは一緒に住む家でいつものように見送ってくれた。
その後に何かあったのだろうか。

『わかった。なんかあった?』

昼の一時を過ぎた今は、なまえの会社は午後の業務が始まっている時間だ。
いやもう実家にいるのだろうか。
どちらにしろ俺も実習に戻らなければならないから、一旦切り替えなければいけない。

シワが寄りそうな眉間を自分の指で押していたら看護師長に「怖い顔してると患者さんに怯えられるよ」と言われてしまった。




………どうして今日に限って当直なのだろう。
臨床実習は実際に医師として働くとはどういうことかを知るための現場での実習だ。
だから当直だってあるしオペに立ち会うことだってもちろんある。
患者さんに何かあれば帰れない。
わかっていたことだし頭では理解している。
だけど。
返事のこない携帯が気になって仕方がないのだ。

何かあったのかと送ってから早半日。
実家に帰らなければならない理由はなんだろうか。
家族に何かあった?
それなら返事が来ないのも頷ける。
体調不良?
今までも季節の変わり目なんかに体調を崩したことはあったけれど、こんな風に理由も言わず連絡が来ないことはなかった。
あとは、あー…なんだ、頭が回らない。
もしかして、今朝何かしてしまっただろうか。
いつものように朝食を一緒にとって、皿を流しに置いた。
朝食を作ったのはなまえで、皿洗いもなまえがしてくれた。
実習期間の今は、俺の方が家を出る時間が早いからだ。
そうでない日は社会人であるなまえのほうが朝早く夜遅いということも少なからずあって、俺が家事を担うことだってある。
やらせてばかり…というわけでは、ない、はずだ。

今朝、ちゃんと美味いって言ったっけ。
ありがとうって言ったっけ。
出かける時に見送ってくれるなまえの顔はどんなだった?
してくれることやいてくれることが当たり前かのように振る舞わなかったか、自分の行動をかえりみる。

仮眠室で少しだけ休む時間をもらえたというのに、休憩どころではない。
新しいメッセージが今この瞬間に届くわけでもないのに携帯を見つめてしまうなんて俺らしくない。
当直を終えてもすぐには帰れないし、朝になってもなまえからなんの連絡もなかったらとマイナスなことを考えていたらセットしていたアラームが鳴った。
眠気なんて、一ミリも来なかった。




「白布、コーヒー飲むか?」
「……もらいます」

休憩から戻った俺に開口一番で指導医の先生が言う。
受け取ったカップに入っているコーヒーにうつる自分の輪郭は、表情なんてわからないのに不安げで頼りなげな気がしてしまう。
こんな顔して病棟にいるなんて我ながらありえない。

「寝れたか?」
「いえ、あんまり」
「だろうなぁ。顔色悪いぞ、大丈夫か?」
「…はい、すみません」

昼間に先輩に言われたことを思い出す。
すれ違いが起きる時期。
身に覚えは、なくはない。
予定なんて合わせなくても学校に行けば毎日会えた高校までとは違って、大学にあがってからは会うこと自体が減った。
お互いのことを口に出して報告しなければ知らないことができてしまった。
一緒に住むことにしたのは、それがしんどかったからだ。
この先もずっと一緒にいるとなんの疑いもなく思っているから、大学生のうちから同じ家に住もうと決めたことは俺たちにとっては自然なことだったと思う。

けれど寝食を共にできないことだってあった。
俺の試験期間前、なまえの就活中や卒論執筆期間。
四年制大学を卒業したなまえは、卒業旅行だと去年は家にいないこともわりとあった。
旅行は俺ともしたけれど。
なまえが就職してからは、歓迎会に始まり部署の飲み会やら取引相手との食事会やらと外食の頻度もあがった。
大学生の時も飲み会だ友達と飯だ…というのはもちろんあったけれど、なまえは社会人で自分はまだ学生なのだと肩書きの違いや社会的立場の違いに腹のあたりが重たくなることもあった。

そして今、まさに俺の臨床実習期間。
朝早く夜遅い。
家にいても勉強、勉強、勉強。
やらなければいけないことを片付けたら倒れこむように寝てしまう。
当直で帰れないこともある。
医局によっては先輩医師に飯に連れて行ってもらうことも。
なまえが家にいて起きている時間に帰れないことが続いていた、ような気がする。
今朝だって。

もらったコーヒーをぐいっと煽るように飲んだらやたら苦く感じた。

考えてもなまえから返事が来るわけではない。
朝になったらしれっと連絡があるかもしれない。
どうせ帰ることなんてできないのだから、自分のやるべきことをやれ。
両頬を自分の手で挟むように叩いたら、バチンッと思いがけずデカイ音がしてしまった。






(………なんなんだよ…)

朝。
いや、つーかもうすぐ昼。
当直を終えてようやく落ち着いた頃にまた携帯を確認する。
この行動自体が俺らしくなく女々しくて情けないけれど今はそれどころではない。

なまえからの連絡はなかった。
俺が送ったメッセージは既読にはなっていたから、携帯を見られる環境にはあるらしい。
電話してやろうかとも思ったけれど出てくれなかったら精神的ダメージが増えるだけだ。

レポートをまとめて指導医に提出したら今日はもう帰っていいことになっているから、さっさと仕上げて帰ろう。



家に帰っても案の定誰もいなかった。
平日の昼間なのだからなまえだって仕事の時間だけれど。
仕事、行ってるんだろうか。
実家で何かしているんだろうか。
それすらわからないなんて、机の上に書き置きでもないかと探すけれどだったらメッセージで何か送ってくるよな。

背負っていたリュックを置きコートを脱いで風呂に入る。
病院でシャワーを浴びることもできるけれど、とにかく早く帰りたかった。






(……部屋の電気、点いてねぇな)

みょうじ家の家の前まで来て、なまえの部屋を見上げて息を吐く。
なまえの会社の終業時間になるまではとりあえず待つことにして数時間。
なまえの言う「しばらく」がどれくらいなのかわからないけれど、ただ待つということはこれ以上できそうになかった。
気が短い自覚はある。

来る前に連絡はした。
「今から家行く」と送ったメッセージはまだ未読のままだった。
このタイミングを逃すと明日も一日実習だ。

意を決してインターホンを押す。
みょうじ家に来るのは、同棲をしたいと挨拶に来た以来だった。


『はい』
「っ、」

なまえに良く似た声、だけど少しだけ高い。

「夜分にすみません、白布です」
『え?賢二郎くん?』

ちょっと待ってね、と切られたインターホンに少し胸を撫で下ろす。
俺だとわかってすぐに家に迎え入れてくれることになぜかひどく安心した。
それでも尚心臓はばくばくと鳴っていて、小さく息を吐いたあたりでガチャリと鍵の開く音がする。

「賢二郎くん、どうぞあがって」
「こんばんは…お邪魔します」

急にどうしたのか、と聞かれないあたりお母さんは何か知っているのだろう。
玄関にはなまえの靴がきちんと揃えられてあったから、実家にいるというのは本当だったらしい。

「寒かったでしょう?」
「いえ…あの、なまえさんは、」

手洗いうがいをして、リビングに通される。
ダイニングテーブルに座るよう促されるけれどのんびりお茶をするために来たわけではない。
本題を話せば、お母さんが苦笑いをした。

「なまえ、連絡してないのよね?」
「…はい」
「ちょっと待ってて。賢二郎くん来たって伝えてくるわ」
「……ありがとう、ございます」

なまえは二階にいるらしい。
本当は一緒に付いて行きたかったけれど、それを良しとするのであれば最初からお母さんもそう声をかけてくれるだろうから大人しく待つ。
なんだか妙に緊張して、喉がカラカラで出されたお茶をぐいっと飲んだら熱かった。
トントン、という階段を下りる足音が聞こえて振り向くとやっぱり苦笑したお母さんが「10分だけ待って、ですって」と言う。

「…はい」
「賢二郎くん、今病院で実習なんですって?忙しいんじゃない?」
「いや、まぁ、はい」
「すごいわねぇ医学部だなんて。なまえは迷惑かけてない?あの子、うちでは家事なんてしなかったから」

首を横に振る。
一緒に暮らし始めた頃は料理に洗濯に四苦八苦しながら二人でやっていた。
あぁでもないこうでもないと言い合い失敗もしながら少しずつ二人での生活を積み重ねてきたのだ。

「俺が頼って甘えてばっかりです」

言葉にするとなんて情けない。

「なまえさんは仕事もあるのに」

ぐっと唇を噛み締めたのは無意識だった。
それをなまえのお母さんに話してしまうのは、男としてどうなのかと思うけれどついこぼれてしまった弱音にも似た言葉に、お母さんは今度は柔らかい微笑みで返してくれた。

「なまえも仕事があって、賢二郎くんも忙しい時期だものね」
「はい」
「だけどなんだか安心したわ」
「…?」
「なんにも言わないで帰ってきたみたいで賢二郎くん怒ってるんじゃないかと思ったから」

怒る、なんて。
話をしていたら俺の携帯が鳴った。

「、すみません」
「いえいえ。なまえかしら」

断りを入れて携帯を確認すると、同じ家の中にいるはずのなまえからだった。

『返事してなくてごめんね、具合悪くて部屋にいます』

ポンポンっと通知の音が続いて謝るうさぎのスタンプが送られてきた。
立ち上がったら椅子が大げさに音を立てる。

「なまえの部屋、行ってきます」

小さく会釈をしてなまえにも短く「部屋行く」と送るとすぐに既読がついた。
二階にあがってすぐのところにあるなまえの部屋は扉が開いていて、電気は間接照明だけが点いているようだ。
開いてはいるけれどコンコンと小さくノックをして「なまえ、」と名前を呼ぶ。

すぐ目に入った、ベッドの上。
なまえが顔だけ布団から出してこちらを見て「けんじろう」と発した声が掠れていた。






「インフルエンザぁ?」
「…はい、お騒がせしてごめんなさい」

マスクをしたなまえに、「早くマスクつけて」と袋ごと渡されたのは数秒前だろうか。

「だったらそう連絡入れとけよ……」

断りを入れてから部屋の電気を点けてベッドにいるなまえに近付こうとしたら「来ないで」と言われたのは多分十数秒前。
インフルエンザだと言われるまでのその間にどれだけ俺が傷付いたかわかってんのか。

「だって、心配かけるかなって」
「理由言われないほうが心配する」
「でも、」
「病院行ったんだよな?体調どうなの」
「…だいぶ楽になってきたよ」
「そっか」

体調不良が今回の騒動(…なんて言ったら大げさかもしれないが)の原因だとわかってとりあえずほっとした。
みょうじ家に来た時点で家族に何かあったという線はほぼ消えていたから、俺が何かしてしまったのだろうかとなまえの顔を見るまではらしくなく不安だったのだ。

「水分摂ってる?」
「うん…」

楽になったとは言うけれどしんどそうななまえの顔を覗き込む、と。
瞳いっぱいに涙がたまって今にもこぼれそうで焦る。

「悪い、しんどいよな」
「ん」
「寝ていいよ」

俺と話すために身体を起こしていたなまえの背中をさする。
パジャマ越しだけれどいつもよりも体温が高いような気がした。
特に言葉を発さずに俺の手に従ってまたベッドにもぐると、口元まで布団で覆って目だけが見える。

「……」
「朝から具合良くなかったんだろ?しんどいなら言ってくれれば、」

額を撫でるように前髪をかきわけると少し汗ばんでいた。
診断を受けてすぐ薬をもらったのだろうから大丈夫だとは思うけれど心配は心配だ。
しんどい時は、言ってほしい。
俺だって家事は一通り…なまえみたいにとまでは言わずとも出来る。
なまえだけの負担になるなんていうのは嫌だった。
そう伝えようとなまえの丸っこい頭を撫でながら言葉を続けていたら、なまえが小さく鼻をすすった。
目には涙の膜ができていて今にも表面張力に負けそうだ。

「……賢二郎、もう帰って」

一瞬、何を言われたのかわからなかった。
理解しようとして頭が追いつかなくて手が止まる。

「うつっちゃう、から」
「…あぁ……。…なんか欲しいもんとか、」
「お母さんに言う」

体調が悪いのは本当だろう。
だけど付き合ってからも一緒に住むようになってからも、どちらかが体調を崩すということは初めてではない。
ここで「お大事に」と帰ることはできるし、なまえは今そうしてほしいのかもしれない。
現に言葉にして伝えられた。
だけど小さく震える声も、布団を握りしめている手も、それが本心だとは思わせてくれなかった。

「…もう少しだけ、いてもいいか」
「……でも、」
「だめ?」

なまえの手をそっと握る。
熱くてしっとりした小さな手だ。

「っ……」

なにかをこらえるみたいにぎゅっと目元に力を入れたなまえの瞳の水分量が一気に増した。
あ、泣かせてしまった、と思ったときにはもう遅くてぽろぽろと溢れる。

「、優しくされると…涙出てくるから、」

具合が悪い時に涙もろくなる、気が緩む。
そういう人はいる。
だけどなまえがこんな風に泣くのは初めてで片手で握っていた手を包むように両手を添えたら「けんじろ、」と涙でぐずぐずの声で呼ばれた。

「うん」
「…怒ってない?」
「怒ってないよ、なんで?」
「ちゃんと連絡っ、してなくて…ごめんない…」

家にいたら賢二郎に移すかもって思って、でもインフルエンザって言ったら心配かけるし、とさっきまで重たかった口からぽつぽつと独り言みたいな言葉が落ちて消える。

「いま、実習で大事なときだし、迷惑かけるのっ嫌で、」
「そっか」

そんなことない、と言ってもきっとまた「でも」と返される。
珍しく子供みたいに泣くなまえは俺と繋いでいない方の手で涙を拭いながら話すけれど、止めどなく枕に吸い込まれていく。

「けど結局来てくれて、当直明けなのに」
「うん」
「疲れてるのにごめんなさい」
「…それより心配のほうがデカかったよ」
「ん…ごめんね」
「俺が何かしたから出てったのかって結構本気で焦った」

こんなことダサくて言いたくなかったけれど。
なまえは驚いたように「え、」と目を丸くさせて今の一瞬は涙が引っ込んだみたいだ。

「理由なしで実家帰りますはビビるからやめて」
「そ、っか……ごめん」
「おう」

親指でなまえの目尻を撫でたら、やっと表情が緩んでふっと弱く笑ってくれた。

「ごめんな、俺も気付けなくて」
「ううん…」

頬にある涙の跡も出来るだけ優しく拭うとくすぐったそうに目を細めた後に、はっとしたように俺の手を取った。

「賢二郎、うつっちゃうからもう、」
「…こんくらい大丈夫だと思うんだけど」
「もし賢二郎もインフルエンザなんてことになったら罪悪感でまた寝込みそう」
「……わかった」

ぽんぽん、と頭を撫でて手を離す。
さっきまで涙交じりの声で話していたくせに今だけやたらはっきりと一息に言うからなんだか笑いそうになった。

「…仕事、休んじゃった」
「まぁ出社しちゃいけないんだから仕方ないだろ」

インフルエンザは人に移す可能性がなくなるまでは外出を避けろとなっている。
それでも来いなんて言う会社は……もしかしたらあるのかもしれないがなまえの勤めている会社はそんな会社ではないはずだ。

「うん…でも、任されてる仕事、中途半端で」

またなまえの顔が曇って、仕事を休んでしまったことに責任を感じているようだ。

「先週ミスしちゃったからリカバリーしないといけなかったのに」
「……」

そうだったのか。
ミスしたと口に出したらまた涙腺が緩んだのか、唇を噛み締めて堪えている。

「なのにインフルエンザで休むって、申し訳なさすぎて」
「…そっか」
「情けないなぁ」

四月に入社して、新人と言われる時期は過ぎたのだろうか。
任せてもらうことが増えたと嬉しそうに話すことはあっても、ミスをしたり怒られたりということは聞いたことがなかったかもしれない。
今日は落ち込んでいるなと感じる日はあったけれど。
情けない姿を見られたくないという気持ちも、分かる気がした。
来ないほうがよかっただろうか、としぼみそうな心はなまえの「でもね、」で引き戻される。

「来てくれて嬉しかった。ありがとう」
「おう…」

長く一緒にいるから、お互いの考えていることはなんとなく言わずともわかるようになったと思うけれど、全部完璧になんてことはなくて。
実習が大変だとか愚痴になりそうなことは言わない。
なまえも多分そうだ。
体調のことだって、仕事のことだって気付けたらよかったのにと思うけれど、逆を言えば俺は自分が隠そうとしていることをなまえに悟られたくない。
誰かと一緒に過ごすというのは、何年経っても簡単なことではない。

言葉を探していたら、なまえの小さな手が俺の袖口をくいっと掴んだ。

「賢二郎の顔見たら元気でた」

へへ、と自分で言っておいて照れたように笑う。

「なまえ、」
「ん?」
「ゆっくり休んで、」
「うん」
「早く帰ってきて」
「…賢二郎?」
「なに」
「それちょっと矛盾してない?」

一拍置いて、俺が「たしかに」と言ったらさっきとは違う笑顔。

「早く治さなきゃね」
「まぁ、たまには実家でのんびりすれば?」
「うん。でも、賢二郎が寂しがるから」

ちゃんと治して、なるべく早く帰るね。
そう言ってなまえが目を細めた。

頬を撫でて身体を寄せる。
口にしたら怒りそうだな、と思いながら額に唇を落としたらどちらにしろ怒られた。





(2020.02.22.)


白布賢二郎くん(23歳)です……。
わたしは医療従事者ではないのでふわっと読んでいただけると嬉しいです。
そのうち連載ページに移すかもしれません。






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