空をあおぐ向日葵

「先輩…?」

先輩、と弱々しい声が背中越しに聞こえてきて、名前を呼ばれたわけではないのになんでだか自分のことを呼ばれたのだと、考えるよりも先に身体が動き振り返っていた。

「沢村くん…」
「やっぱり。お久しぶりです」

本当、久しぶり。
高校を卒業してから会っていなかったからもう十年は経っている。
昔は所構わず大きな声で話していた目の前の彼が、今はどう言葉を続けたらいいのかわからないという風に唇をきゅっと真一文字に結んでいた。

「…こんなとこで会うなんてビックリした。元気だった?」
「はい。なんとかやってます。なまえ先輩は…今なにしてるんですか」
「普通に会社員だよ」

沢村くんは「そう、ですか」とまた小さく呟く。

「野球、頑張ってるんだよね。たまにニュースで観る。身体気を付けてね」

一息に言い切って、じゃあまたね、と足を一歩前へ踏み出した。
「たまにニュースで」なんて嘘だ。
いつも沢村くんが投げる日は野球中継を祈るような気持ちで観ている。
「またね」なんて、これも心にもない言葉で。
もう会うことなんてきっとない。
こんな偶然、きっと、もうない。
会えて嬉しかったと思う気持ちもあるけれど、それ以上にうまく息を吸えなくて沢村くんを視界から外した途端に涙が込み上げてきそうになる。

カツカツ、と自分の履いているヒールが床を鳴らして、そんなことからも自分たちは大人になってしまったのだなぁと思い知らされているような気がした。
十年前はわたしはスニーカーで、沢村くんは野球のスパイクで、二人とも同じ方向を向いて走っていたのに。

「っなまえ先輩、」

カバンを持つ手にぎゅっと力をこめたら、反対の無防備だったほうの手をぎゅっと掴まれた。

「え、なに…」
「俺……そうだ、あの、傘なくて。近くのコンビニまででいいんで入れてくれませんか」

外は雨、わたしの手には傘。
たしかに沢村くんは傘を持っていないけれど、今日は朝から雨だったのに?
わたしが訝し気に彼を見上げたら、「ダメですか」と犬だったら尻尾も耳も垂れているだろうなぁという様子で言うから「…コンビニまでなら」と頷いてしまったのは仕方がないと思う。
わたしの返事を聞いて沢村くんがホッとしたように笑って、それを見たらまた泣きそうになった。

ザァザァと音を立てて雨が降る中を、狭い傘に二人で並んで歩く。
傘は沢村くんが持ってくれていて、こっちに少し傾けてくれているから傘の柄に無言で手をかけて向きを修正する。
…けれど、直してもすぐに傾けてくれて、そんな気遣いができる子だったっけ。

「沢村くん、傘こっちにやらなくていいよ。肩濡れちゃう」
「濡れてないから大丈夫です」
「すぐバレる嘘つかないの。風邪なんて引いたら大変だよ」
「鍛えてるんで」
「…それは知ってるけど」

テレビでも活躍していることが伝わってくるし、久しぶりに会って高校生のときとは身体つきがまるで違うことがすぐに見てわかった。
昔から練習でも手を抜かない子だったから、今も頑張っているんだろう。
プロの世界は、どんなものなのだろう。
この子の口から語られる世界を聞きたい、なんて、叶わないことなのに。

「なまえ先輩に風邪ひかれるほうが嫌です」

驚いて沢村くんの顔を見上げたらやっぱり唇はきゅっと引き結ばれていて、精悍な横顔だなと、逞しくなったな、と思う。

「…あ、」
「なんですか?」
「コンビニ、あった」

煌々と光る人工の明かりを見つけて、ぽつりとこぼせば隣から息をのむような気配がした。
二人の間に流れる空気が重たいのは降り続ける雨が生む湿気のせいで、取り払われることはなく纏わりつくようだ。

二人並んで店内に入ると冷房がきつくて、沢村くんの濡れた肩が冷えてしまうのではないかと思ってカバンから取り出したハンカチタオルで拭いてあげる。
「ちょっとごめん」と断りを入れてからぽんぽんと水分を吸い取るようにして拭くと、最初はビクっと肩を揺らしたものの消え入りそうな声で「ありがとうございます」と言ってくれた。

沢村くんはお店のすぐ入り口に置いてあったビニール傘を素通りして、飲み物のコーナーに向かった。
その後ろ姿を追いかけることはしない。

(大きい背中……)

追いかけることはできないし、追いかけてくれて引っ張られた手を取ることももうできない。
この時間はきっとこの先忘れることはなくて、大事に胸の中に仕舞っておくもの。
わたしたちの過ごす時間が重なることはきっとこの先もうない。

なんて、考えていたら沢村くんが陳列棚の奥からヒョコっと顔を出して、さっきよりもいくらか和らいだ表情でこちらに向かってきた。
手にはペットボトルのミルクティー。
…沢村くん、そんな甘いもの飲むんだ。

先ほど素通りしたビニール傘を今度は手に取って、「会計してきます」とレジへ。

これが終わればもうさよならだ。
またいつもの日常に戻って、テレビの向こうの沢村くんに声援を送る。
倉持や御幸から時々送られてくる沢村くんの近況は、嬉しいけれど素直に喜べなくて、なんでもないってフリをしているのにきっと彼らにはわたしの暗い部分なんてバレている。

お会計を終えた沢村くんとコンビニを出て、「じゃあ、これで」と切り出そうとしたらズイっと大きな手を付き出される。
手の中にはさっき買っていたミルクティー。

「…え、なに?」
「先輩、これ好きでしたよね。お礼です」

こんなんで悪いんですけど、とはにかむ顔をまじまじと見てしまう。
わたしが好きなもの、覚えててくれたの?
今は滅多に飲まなくなった甘いミルクティー、高校生のときは大好きでカロリーなんて気にせずにしょっちゅう飲んでいた。
驚いて受け取れずにいると「もらってください」と沢村くんがわたしの手を取ってペットボトルを握らせる。
手の甲に感じた沢村くんの手のひらの温度とか、堅くて少しゴツゴツしたまめの感触とか、懐かしくてやっぱり愛おしくて、胸を締め付けてしょうがない。

「ありがとう」

小さくお礼を言うと、嬉しそうに笑ってくれる。

「なまえ先輩…俺、野球が楽しいです」
「…そっか。よかった」
「高校生のとき、先輩のこと甲子園に連れて行けなかったけど、それでも続けてよかったって今は思ってます」



高校三年の夏。
今でも夢に見る九回裏ツーアウト。
あとアウトひとつ。
ピッチャーは沢村くん。
誰もが勝ちを確信していた、あのとき。
野球の神様はわたしたちには微笑んでくれなかった、あの試合。

沢村くんが悪いわけではないのに、わたしといると辛そうな顔をする彼と過ごすのが辛くなって、彼を苦しめるものをひとつでも減らしたくて、少しずつ距離を取るようになった。
同じ高校にいる間は完全に顔を合わせないなんてことは難しかったけれど卒業してからは連絡がきても返すのは何度かに一回。
少しずつ頻度を減らせば、沢村くんからの連絡もなくなった。
彼にはあと二年、チャンスがある。
前を向いてほしい。
わたしのこの行動が彼を傷つけることになっても、きっと長い目で見ればこれでよかったと思えるはずだから。
これでいいのだと鳴らなくなった携帯を見ないフリをした。



「だから、今度試合観に来てください。俺が投げるところ、強くなったところ、なまえ先輩に見てほしい」

さっき離された手をもう一度、今度は強く握られる。
手を引っ込めようとしたら逆にグイっと引かれて、気が付いたら沢村くんの胸に顔を埋めていた。

「頼むから逃げないで。俺のこと、もう一度見て」

縋るように背中に回された腕が熱くて、じわりと滲んだ涙が沢村くんのシャツを濡らす。

十年前の約束、甲子園に連れて行く。
きっと全国の野球少年が口にするであろう夢がたくさん詰まった言葉。
それが今になってもどうしようもなくわたしを、わたしたちを苦しめていた。

二人が描いていた夢の続きを見ることはもうできないけれど、沢村くんの言葉はがんじがらめだったわたしの思いを解くように響く。


自分のいる場所がベンチから応援席に変わって、テレビの向こう側になって。
それでもマウンドにいる彼の瞳の強さは変わらなかった。
彼の瞳にわたしはどう映っているのだろう。
今のわたしたちは隣を並んで歩くことができるかな。
沢村くんの背中に、行き場をなくした手を回したらどんな顔する?

一度離した糸を沢村くんがたぐりよせようとしてくれるなら、その手をとってもいいの?



「……沢村くん、痛い…」
「っす、すみません」

力加減なんて知らないみたいにぎゅうぎゅうに抱き締められて、高校生の時だってこんな風にされたことはなかった。
慌てたように離された身体だけれど、肩はしっかりと掴まれている。

「沢村くん…泣いてるの…?」

金色の瞳いっぱいに涙がたまっていて、今にもこぼれそうだった。

「なまえ先輩も」

ぐす、と沢村くんが鼻をすする。
泣かないで、と沢村くんの涙を拭おうと手を伸ばしてしまったのは無意識で、驚いたように大きな瞳が見開かれた。



「雨やまないねー」
「ね、湿気やばい」

ガーッというコンビニの自動扉が開く音がして、大学生らしきお客さんの声がして我にかえった。
パッと手を引っこめて、思わず沢村くんがかぶっていたキャップのツバをぐいっと深くなるように引っ張る。

そうだ、この人は今や球界屈指の右腕。
こんなところでこんなことをしていいわけがない。

「沢村くん、帰ろう」
「え、」
「……連絡するから」
「…本当に?」
「ん」
「俺、連絡先変えてないです」
「ん、わかった。わたしも変わってないよ」

さっきまで泣き出しそうだった瞳が嬉しそうに瞬いた。
わたしの言葉でこんなにも感情を動かしてくれるところ、十年前のままだ。

だから帰ろう、ともう一度見上げたらぎゅうっと右手を握られた。

「駅まで送らせてください」
「…手、離してくれたらいいよ」
「え……」

もし沢村くんが犬だったなら。
耳もしっぽもシュンと垂れ下がっているのが目に浮かぶ。
さっきも同じようなことを思ったのに、その時よりも全然心が軽い。
ふふ、と笑ってしまったら沢村くんが握る手に力を込めた。

「あ、」
「なに?」
「……手繋いでたら相合傘できない」
「………わたし自分でさすし、これ以上手は繋ぎません」
「え」
「え?」

ちぇ、なんて子供みたいに唇を尖らせるところは変わっていない。
沢村くんがコンビニで購入したばかりの大きなビニール傘を開くとパンっと勢いの良い音が鳴った。
どうぞ、と有無を言わさない様子で結局招き入れられた傘の中は、わたしの折り畳み傘よりも大きいから広いはずなのに沢村くんの纏う空気の違いなのか温度が上がった気がする。
まとわりつくような夏の夜の雨が、二人の間にあった何かを溶かしていく。

十年。
長いようで短い。
そんなありふれた言葉では表せない年月の流れに、沢村くんの傘を持つ手のたくましさに、鼻の奥がツンと痛い。
あの頃のままなんてことは決してないのに、高校生に戻ったみたいに心臓がせわしなく動いていた。
じわじわと込み上げてきて、喉の奥にひっかかって息苦しさすら感じるこの気持ちは、恋なんて可愛らしいものではないし愛と呼べるほど温かくて綺麗なものではないのかもしれない。

幼かったわたしの精一杯は、沢村くんの大きな手に包まれてほどけてしまいそうだった。



(2020.02.21.)


2017年の夏に書いたものを加筆修正しました。
沢村くん大好き。





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