はじまりのストーリー

「あれ、なまえさんこんな時間までどうしたんすか?」
「二口くん……」

時刻は夜の八時過ぎ。
そこまで遅いってわけではない時間だけれどオフィスにはほとんど人はいなくて、わたしの所属しているチームの人はもう誰も残っていなかった。

「今日飲み会じゃないっすか。みんなもうとっくに移動してますよね?」

そうなのだ。
先日異動してきた新しい上司の歓迎会のために今日はみんな六時頃には出払っていた。

「そうなんだけど…ちょっと営業さんに急ぎで資料作ってって言われちゃって」
「まじっすか。災難」

本当に、と苦笑いを返すけれど仕事は仕事。
営業さんだって取引先との兼ね合いがあるのだから、飲み会だからって締切を伸ばしてもらうことなんてできない。
先輩も上司も憐れみを浮かべた表情で「終わったら連絡してね」と言い残して飲み会へ行ってしまった。

…まぁ何かトラブルがあったってわけではないから時間が迫っているとは言え一人で黙々と作業するのは苦ではない。

「それ、いつまでなんですか?」
「明日の二時に企業訪問するらしくて、十二時には欲しいって言われてる」

その前に上司に一度目を通してもらわないといけないから朝には仕上がっている状態にしたい、というのは言わずともわかってくれたようで、「あーそりゃ飲み行ってる場合じゃないわ」と二口くんは顔を歪めた。

「まだ終わらなそう?」
「うーんー。形にはなった」
「じゃあ手伝うんで、さっさと終わらせましょー」

見せてください、と言って隣のデスクの椅子に座った二口くんがわたしのモニターを覗き込んできた。
こらこら、近いよ。
やたら人懐っこい後輩はいつも距離が近い。
目の前で二口くんのさらさらな髪が揺れてドキッとしたのは秘密だ。

「あ、なんだもう終わるじゃないですか。あとはここに過去の数字入れるだけ?」
「う、うん」
「っつーかこれなら明日の朝早く来て俺がやるんで今日はもう帰りません?」

俺腹減りましたー、なんていう二口くんはふざけているんだか気を遣ってくれているんだか掴めない。

「何言ってんの。わたしの案件なのに二口くんにやらせるわけにはいかないでしょ」
「けどここの過去データ作ったの俺だし」
「えっそうなの?」
「そ。だからなまえさんが慣れないファイル開いて調べるより俺がやったほうが断然早い」

なんだかそう言われると先輩としては悔しいのだけれど、二口くんの言い分は尤もだ。

「…じゃあ、お願いしてもいいかな」
「もちろん。明日始業時間までに仕上げておくんで、ファイル送っておいてください」
「了解ー。メール送っておくね」

九割方出来上がった資料をしっかり上書き保存して、社内メールを起動して「二口堅治」の名前を検索。
件名は「先程の件です」、本文は「例のファイル添付します。ごめんね、よろしく」と簡潔に打ち込んでファイルを添付して送信した。

その間に二口くんは取引先で打ち合わせてきたのであろう書類たちを鍵付きのキャビネットに仕舞っていた。
うちの会社は個人情報やら企業情報やらを自宅に持ち帰ることが禁止されている。
コンプライアンスの遵守、とやらは入社した当初は面倒だなって思うことも多かったけれど、沁みついてしまえば至極当然になるのだから良くも悪くも染まっているなぁと思う。

「二口くんは企業訪問?」
「そうなんすよ、営業さんが付いてきてくれって言うから。一回説明してんのに、もう一回企業でも同じことプレゼンしてくれとか二度手間もいいとこじゃないっすか?なんのために先週支社行って打ち合わせしたと思ってんだよって」

わたしと二口くんがいるところは所謂本部で、主に事務方の仕事をしている。
本来なら企業訪問は各地の支社にいる営業専門の職員が行っているのだけれど、稀にわたしたちも取引先に行くことがあるのだ。

「二口くん、ただでさえ案件立て込んでるのにね。お疲れ」
「まぁ企業さん行くのは嫌いじゃないんだけど」

お疲れ、と言えばこそばゆそうな顔をする後輩はなかなか素直じゃないけれどかわいいなって思うのはなんでだろうか。
話しながらブラウザを全て閉じてパソコンをシャットダウンする。

「二口くんはまだ残ってくの?」
「いや、俺は書類置きに来ただけ。もう帰ります」
「そっか。わたし今から歓迎会合流するけど一緒に行く?」

二口くんは元々今日は社外に出るから行けないってことになっていたけれど、一人くらい増えたって問題ないだろう。
携帯を取り出して、先に飲んでいる先輩に「今から向かいます」と連絡を入れ…ようとしたら目の前のデカブツに携帯を奪われた。

「飲み会、今から行ってもみんな出来上がってんじゃないっすか?もう行かなくていいっしょ」
「いやいや…なに言ってんの」
「行かなくたってみんなみょうじさん仕事終わってないんだなーって思ってくれるし、疲れたし、もう帰りましょ。っつーか俺と飯食いましょ」
「だから、なに言ってんの。飲み会行かずに二人でご飯食べてるとこなんて見られたら大変だよ」

とりあえず出よう、とジャケットを羽織って二人で連れ立ってオフィスを出た。
エレベーターホールでもわたしたちのやりとりには終着点が見当たらない。
いい加減に携帯返してくれないかな。

エレベーターの階数表示は三階を指していて、わたしたちのいる十四階に辿りつくのにはまだ時間がかかりそうだ。

「でも俺腹減った」
「家で食べなさーい」
「帰ってから作るのだるい」
「…松屋とか行けばいいじゃん」
「今日はなまえさんと二人で食べたい気分」
「もーわがまま言わない」
「わがままくらい言わせてくださいよ、俺今日誕生日なんで」
「え?!」

ようやく到着したエレベーターに乗り込んで、一階のボタンを押したところでまさかの言葉が飛んできた。

「本当に?今日?」
「こんな嘘ついてどーすんの」
「えーっごめん知らなくて何もあげられるものないよ」
「うん、だから今から飯付き合ってって言ってんの」

誕生日なのに上司の歓迎会だとか一人飯なんて、俺かわいそうだと思わない?
そう笑う二口くんの目がまっすぐわたしを見下ろしていて、とてもじゃないけどそらせない。

「…まぁ、たしかに」
「でしょ?松屋でいいからさ、飯付き合ってください」
「しょうがないなー奢ってあげるよー…」

やったーと言う彼はいつものにやけたような笑顔とは違って、本当に嬉しいって感じに笑っていて、それを見たらまぁいっかって思ってしまうわたしは大概甘い。
ようやく返してくれた携帯で先輩に「すみません、やっぱり今日無理そうです。みなさんに謝っておいてください」と連絡を入れることも忘れない。

「なまえさん家どこだっけ?会社の近くだとアレなんで、なまえさんの最寄りまで移動しましょ」

鼻歌でも歌い出しそうに上機嫌になった二口くんが、一階に着いたエレベーターの扉を押さえてくれていて先に降りた。
さっきの資料の件もだけれど、こういうことを自然に出来る奴だ。

「二口くんの最寄りでいいよ?なんせお誕生日だし」
「いやいや、帰り遅くなるし。大丈夫ですよ、送り狼とかそんな気は今はまだないですから」

本当に、なんていうか女子のツボをいちいち抑える奴だなー、って、え?

「…っ今はまだって、なに言ってんの?!セクハラ!」
「あはは。まぁまぁ、ほら、行きますよ」

お願いされて一緒にご飯を食べに行くのに(って言っても松屋だけど。色気ゼロだけど)すっかり二口くんのペースに乗せられている気がしてむかつく。
顔に熱が集まるのが自分でわかって、見られないようにマフラーで口元を覆った。

……明日は無理だけど、週明けにでもちゃんと誕生日プレゼントを渡そう。
別に、変な意味はなくて、手伝ってくれたお礼とかわいい後輩への率直なお祝いの気持ちを込めて。



こんなことがあるなら残業も悪くないかも、なんて思ったのは絶対に教えてやらない。


(2015.11.10.)

二口くんお誕生日おめでとう!
好きだ!



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