恋のはじまり

「ゆきちゃん」

男たちの野太い大きな声が行き交う朝の部活中の体育館に、一際高くてすぐに女の子のそれだとわかる声が響いて思わず動きを止めた。

「ゆきちゃん…?」

たしかにそう聞こえたけれど、今は男子バスケ部の練習時間であって、「ゆき」なんて名前の人物はいないはずである。首を傾げながら声の元へ目線をやると、開け放たれた体育館の入り口に、海常のグレーの制服に身を包んだ女子生徒が両手に何かを抱えて立っていた。体育館には今日もオレのファンの子たちが大勢見学に来ているけれど、彼女はその女の子たちとは全く違う方向を見ていて、だからかもしれないけれどひどく目を引いた。

ゆきちゃんって誰だよ、と様子を見守っていたら、見知った選手がその女子生徒へと駆け寄って行った。

「え、笠松先輩?!」

そう、我らがキャプテン笠松幸男である、彼こそが「ゆきちゃん」の正体。

「まじっスか…オレなんかショックっスわ…ゆきちゃんって…」

一緒に様子を見守っていたオレ以上に衝撃を受けている様子の森山先輩に思わず声をかける。

「笠松…裏切り者め…!!」
「なんスか、あの腑抜けた笑い。あんな笠松先輩初めて見たっス。先輩って女の子苦手なんじゃなかったっスか?」

(まぁ先輩が好きそうなタイプの女子ではあるけど)

艶のある黒髪を綺麗にブローし、ただおろしているだけなのに、白い肌に映える。制服は着崩すことなく、かと言って野暮ったくもなく、いかにも清楚な雰囲気を醸し出している。

(オレの周りにはいないタイプだな)

女子生徒が持っていたものはどうやら笠松先輩への差し入れだったようで、女の子が大の苦手でまともに話もできないはずのあの人が、微笑みを浮かべてそれを受け取る光景はバスケ部員全員を震撼させた。

そして用を済ませた女子生徒は、「ゆきちゃん頑張ってね」と手を振り去って行った。

心なしか緩んでいる表情を携えて戻ってきた笠松先輩に、オレたちは信じられない気持ちで何も尋ねることができないまま朝の練習は終わった。

それから、例の彼女はたまに体育館に現れるようになった。
朝は差し入れ(どうやら弁当のようだ)を渡しに、放課後は部活が終わるのを待っているようで、時間を見計らって体育館に顔を出して笠松先輩と一緒に帰って行く姿の目撃情報が多数だ。

(でも学校で一緒にいんの見たことはないなぁ)



「先輩、最近なんかいいことあったんスか?」

部活後、何人かが残って自主練をするのがお決まりになっている。
3年生の冬ということで、自主練常連だった笠松先輩も最近は基礎練だけで帰ってしまうようになって、帰り支度をしているところだった。

「は?なんだいきなり」
盛大に眉をひそめて、怪訝そうな声色で返される。
「いやーなんか調子よさそうだなって思って?」
「もう引退してんのに調子いいも何もないだろ」
お前もさっさと帰れよーと言いながらカバンを肩にかけ、「おつかれ」の一言を残して体育館を出て行ってしまった。
「…おつかれっス」
鎌をかけるつもりで聞いてみたものの、さらりとかわされてしまった。
オレの発言を無視する、もしくはつっこみしばくというのはよくあることだけれど、かわされるということはあまりなかったので少し驚き、一瞬遅れた返事は笠松先輩の耳に届いたかどうかはわからない。

普段周りにも自分にも厳しい笠松先輩が、彼女には優しく笑う。
正直、女性恐怖症が重度すぎる先輩のことが心配だったりもしたのだが、あんなふうに接する女子がいるなら大丈夫か、と安心した。
けれどその一方で、先輩に微笑み返す彼女の表情を見て妙な気持ちになったのはどうしてだろうか。

最近おかしいのは笠松先輩だけではない。
いつも決まった時間に来る、彼女。
先輩の、彼女。
もうすぐ来るかな、なんて気にしてしまうようになったのはただの興味本位だろうか。

「はは、なんだこれ」
オレらしくない、と独り言をもらしてボールを持ち直す。キュッとよく磨かれた床を蹴って気持ちをバスケに向かわせようとしたときに、体育館の扉が開く音がした。

誰か忘れ物でもしたのか、とそちらに目をやると綺麗な黒髪が目に飛び込んできた。

…例の彼女だ。

「…あれ?」

ボールを構えて、走り出そうとした瞬間の少しおかしな態勢で一時停止してしまったのだけれど、今さっきまで考えていた人物が思いがけずやってきたものだから、驚きが勝って動けずにいたら、相手が先に言葉を発した。

「あの、」
言いにくそうに口ごもったから、こっちから切り出す。
「笠松先輩ならさっき帰ったっスよ」
「あれ、そうですか」

先帰っちゃったのかぁ…と呟いた彼女が本当に残念そうで、自分まで胸がズキっと傷んだような気がした。
なんだこれ、とさっきも思った言葉がまた浮かぶ。

「ほんとついさっき出てったんで、まだ追いつけるんじゃないっスかね。電話してみたらどうっスか?」
と教えてあげると「じゃあかけてみます」とわたわたと携帯を取り出して操作する様子が、慌てているのがわかって、毎日一緒に帰ってるのに1日くらい別にいいじゃないか、なんて意地の悪いことを思ってしまう。
彼女の小さな手に収まっている携帯についているストラップが、見覚えのあるもので。
あぁ、笠松先輩と色違いなんだなと気付いたらまた鎖骨のあたりがきしんだ気がして、思わずぎゅっと右手で抑えた。

もしもし、ゆきちゃん?帰っちゃったの?
え?
うん、いま体育館だよ。
ほんと?でも悪いよ。
危なくないよ、1人で帰れるよ。
うんーわかった、じゃあ体育館で待ってるね。

電話が終わったようで、ふう、と一息吐いて彼女が顔をあげる。
「あーっと、先輩戻ってくるんスか?」
「はい、もうちょっとここで待っててもいいですか?」
もう教室も図書館も閉められちゃってて…と申し訳なさそうに尋ねる。
「全然いいっスよ。外暗いし」
にっこりと、大抵の女子が頬を染める得意の笑顔で返したつもりだったけれど、彼女は表情を変えずにオレの顔をじっと見上げた。
「あの、」
「ん?」
「教えてくれてありがとうございました」
「……っ、いや別に」

ふいっと顔をそらす。
いつも先輩に向いている笑顔が、オレに向けられていて、それが妙にこそばゆい。

落ち着け、オレ。
女子の笑顔に動揺するなんて笠松先輩じゃあるまいし。
ただ彼女の笑顔が、いつも自分に媚びてくる女子たちの作られた顔とは違う気がして、だから少し調子が狂っただけだ。

心を落ちつけようと、手に抱えたままだったボールを持ち直してダムッとひとつ床についた。

「あ、邪魔してごめんなさい、気にせず練習しててください」

そう言うと体育館の入り口の階段に座り込んだ。確かに人を待つには最適な場所であるけれど、今は真冬だ。扉を開けっ放しにされたら寒い風が入り込んできてたまったものじゃない。…なんて言うのはたぶん自分に都合のいい言い訳で。本当は彼女は寒くないのだろうか、と心配なのだ。

…だって、制服ってスカート短いし、コートは着ないでマフラーしかしていないものだから、小さい手でマフラーをぎゅっと抑えて、顔を埋めるようにして先輩はまだか、と外を見つめる心許なげな後ろ姿を心配するのは、男として当たり前なことじゃないか。

別に他意なんてない。
オレってなんだかんだ女の子には優しいから。

「ねぇ、扉閉めてくんないっスか?」

風が吹くたびに体を縮みこませていて、見るに堪えられなくなって思わず声をかけた。

「え、あ、ごめんなさい。寒いですよね」
きょとんとした顔で振り向いたかと思うと、慌てて立ち上がって扉を閉めようとして、何を思ったか彼女自身は体育館の外へ出てしまった。

「え、ちょっと、」

パタリ…

扉の閉まる音が虚しく体育館に響いた。
(なんでそうなるんだよ…)
はぁーと溜息を吐きながら体育館の入り口まで行き、扉を勢いよく開ける。
すると入り口の右側に、寒そうに手を擦っている彼女がビックリした顔をして立っていた。

「うわっ」
「なーにやってんスか…」
「え、閉めてって言うから…」
「たしかに言ったけど、外出たら寒いでしょうが」
まだ来ないみたいだし、中で待ってれば?
「でも中にいたらゆきちゃん気が付かないかもしれないし」
溜息をつきたい気持ちを押し殺す。
「もしわかんなかったら電話来ると思うけど。なんのために携帯持ってるんスか」

ほら中入るっスよ、と背中をぐいっと押す…手を寸前で止めた。軽々しく触れてはいけないような気がしたからだ。
そこに深い意味なんてなく、この子が笠松先輩の彼女だから、ただそれだけだ。

「黄瀬くんって、思ってたより普通ですね」

邪念を払おうと、再度自主練を再開しようとボールを持ったところで話しかけられた。
「どういう意味っスか?」
良い意味なのか悪い意味なのか、さっきの一言だけでは判断ができなかった。

「人気モデルさんで、いつも練習中も女の子に騒がれてるから女ったらしなんだって勝手に思ってたんだけど全然普通だなぁって」
「それ、褒めてる?」
「うん、とても。普通にいい人だった」
「…なんスか、それ」

普通にいい人、なんてきっと一般的には褒め言葉ではないけれど、「普通」も「いい人」も言われたことがない気がして妙に照れくさくなる。

「あ、つか名前知ってたんスね」
「黄瀬くんのことは全校生徒みんな知ってると思うよ」
「そっちは?」
「ん?」
「名前、なんて言うんスか?」
「あ、わたしの?」
「他に誰がいるんスか」
「なまえです」

そういえば名乗ってなかった、とはにかむ。
なまえ…と胸の中でリピートしてみる。
いや、でも人様の彼女をいきなり下の名前で呼ぶってどうなんだ?と思案しているとよっぽど神妙な顔をしていたようで「黄瀬くん?」と呼びかけられた。

「あ、いや名字は?」
「名字?」
「なまえちゃん、って読んだら笠松先輩にシバかれそうだからさ」
苦笑しながら言うと、「名字、って、え、あれ?」となぜかやたらと困惑している。
オレ、そんな変なこと聞いたか?

そろり、とオレの顔を窺うように見上げてなまえちゃんが気まずそうに言う。

「もしかして黄瀬くん知らなかった?」
いや、でもそしたらわたしとゆきちゃんって一体…とまた視線を落としてぶつぶつ言っている。
「あの?もしもし?」
なまえちゃんの目の前で手のひらをパタパタさせて呼びかける。さっきと立場が逆だ。
うーん、と唸りながら足元を見ている彼女の伏目がちな横顔に、さらりと黒髪が揺れる。

あ、この近さはちょっとやばいかもしれない、と思ったときにガタガタと慌ただしく扉が開いた。

「なまえ!」
「あ、ゆきちゃん」
「待たせて悪かったな、って黄瀬ェ!!」
「え、なんスか!…いってぇ!!」

走って戻ってきたようで少し息を弾ませている笠松先輩にいきなり頭をひっぱたかれた。

「距離がちけぇんだよ!離れろ!」
「いってぇ!すんません!」

確かに近かった、無意識とは言え、これはまずい。
なまえちゃんは先輩の彼女なのに、これはまずい。

「ちょっとゆきちゃん、やめなよ」
容赦ない先輩の攻撃を見かねたなまえちゃんが止めに入る。

ゆきちゃん、今まで何回も聞いたその愛称を彼女が直接先輩に呼びかけているのをすぐそばで聞いて、ドキッとした。
なんだろう、これは、罪悪感に近いこの気持ちは。

「ゆきちゃんが帰ったって教えてくれたの、黄瀬くんなんだよ」
「そっスよー!彼女置いて帰っちゃ駄目じゃないっスかー」

勝手に気まずくなっている気持ちを振り払おうと、わざと声を大きめにして言う。
不自然じゃなかっただろうか、と2人の顔を見やるとぽかんとした表情でこちらを見ていた。

「かのじょ…?」
「おい待て黄瀬お前どこでそんな話になってんだ」

きょとんとしているなまえちゃんより先に我を取り戻した笠松先輩に肩をガシっと掴まれて揺さぶられた。先輩、顔近いっス。真顔怖いっス。

「え、どこでって、そんなんみんな知ってる話じゃないっスか!」
「いやいやいやちょっと待て」

今更恥ずかしがって焦って隠す必要なんてない。
毎日毎日お弁当を受け取って緩んだ顔を披露してたのはどこの誰だ。

「こいつはオレの妹だ」

肩を掴まれたまま、顔が近いまま、鬼気迫る表情の笠松先輩の言葉が頭の中でリピートされた。
オレの妹だ、妹だ、妹…いもうと?

「妹ってえぇ?!」

マジっスか!!嘘?!え?!

じゃあさっきかわされたと思ったのは本当になんにもなかっただけで。
笑いかけられる女の子ができたのか、と思ったのは単に身内だったから無防備な表情だっただけで。
毎日一緒に帰っているのは帰る家が同じなら、なにも特別なことではない。
少し仲が良すぎる気もするけれど。

言葉の意味を理解するのに時間がかかっているうちに、笠松先輩がなまえちゃんの腕をひっぱって体育館を出て行くのが目の端に飛び込んできた。

「って、ちょっと!挨拶くらいして帰ってくださいよ!ひどい!」
まだ混乱しているけれど言葉を振り絞った。

「おう、また明日な」
振り返った笠松先輩がぶっきらぼうに言う。
なまえちゃんは先輩についていくのにいっぱいいっぱいみたいだったけれど、それでも振り向いてこっちを見て言った。

「黄瀬くん、ありがとうっまた明日ね」

あっと言う間に帰って行ってしまった笠松兄妹の後ろ姿を見送りながら、胸になんとも言えない思いが込み上げてきた。

「なんだ、彼女じゃなかったんスか、なんだそっか」

そうか、じゃあ下の名前で呼んでもいいのか。
罪悪感なんて感じる必要はなかったのか。
よくわからない感情に、まずいとブレーキをかける必要もないのか。
帰って行く後ろ姿を、揺れる黒髪を瞼の奥で反芻する。
少しだけ速まる鼓動の理由を、オレはもうきっとわかっている。


(2013.01.01.)


ヒロインちゃんが思ってたような子にならなかった…
ほんとはツンとしたお兄ちゃんにしか心開かない系女子にしたかった…
それで黄瀬くんには「ゆきちゃんゆきちゃんって…なんだよ」って思ってほしかった
思うようにいかないものですね

笠松先輩を兄に持つヒロインちゃんとの恋愛は大変そうです!
絶対シスコンだもの!
そして何を隠そう、このお話は「ゆきちゃん」って言わせたいがために書きました!




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