「坂田って意外と馬鹿なの?」
「…っ」

 いきなりそんなことを言うやつはどこのどいつか、坂田銀時には確かめなくてもわかった。たぶんそんな失礼な人間はこの世にひとりしかいない。同じ高校に通う、ひとつ年上の先輩だ。
 いくら先輩だからといって言っていいことと悪いことがある、ってがつんと言ってやろうと勢いよく顔をあげれば、思いのほか先輩の顔が近くにあったので坂田はそのまま固まってしまった。
 坂田のノートを覗き込んでいる土方十四郎は、不自然に動きをとめた後輩には気づく様子もなく、汚い字でノートに綴られた数字の羅列を目で追っている。

「これ、証明間違ってる」
「あ、ああ、そうすか」
「こっちは、このあとわかんなかった?」
「さっぱり」
「坂田ならこれぐらい楽勝かと思ったのに」
「先輩と一緒にしないでください」
「なんだ、いつもは自信満々のくせに」

 土方先輩は眼鏡の奥でいじわるな笑みを浮かべると、ようやく坂田の机から離れた。
 ふたりが通う個人経営の塾は、こじんまりした規模ゆえに学年による隔たりもあまりなくて、高校生はみな教科別で同じ授業を受けている。
 だから学年が違っていてもお互いの成績はいつも筒抜けだったし、それを抜きにしたって同じ高校に通う一学年上の容姿端麗・成績優秀な先輩の噂は、じっとしていても耳に入って来た。
 坂田も頭は悪くない方だけど、というか学校のクラスでは一位二位を争う好成績であるとの自負もあったけれど、土方にはいつも敵わなかった。頭はいいし、顔もいいし、真面目だし、おまけになぜだか坂田に対してだけとんでもなく嫌味な性格だった。

「まあこの問題は、夏までに解けるようになってればいいと思うよ」
「あ、そーですか」
「ま、去年の今頃俺は解けてたけど」
「チッ、そうですか!」

 土方は高校三年生で、センター試験も無事に終えた今は、志望校の個別試験を待つのみである。
 個別試験が始まる前に直前特講として開かれていた冬期講習も今日が最後で、個人的に用がない限り三年生がこの塾に来る事はもうない。
 講習を終えた生徒たちは、講師に質問に行ったり自習をしたりさっさと帰宅したりで、こうして無駄話をしているのなんて土方くらいのものだった。

「お前、まだ帰らないの?」
「先輩こそ、いいんすか?M大の二次、来週っすよね」
「あそこはいんだよ。滑り止めの滑り止めだから。なんなら今受けてやってもいいぜ」
「そんなこと言って、じゃあ落ちたら俺にコンポタ10本奢ってくださいよ〜」
「やだよ。それお前損しねーじゃん」

 暖房器具が古いせいで部屋はちっとも暖まらなくて、冬本番の今は室内にいても寒い。授業の前に買ったコーンポタージュの缶は、ぬるいを通り越してすっかり冷たくなっていて、坂田はなんだか裏切られたような気持ちになった。
 ブレザーの上にマフラーをぐるぐるに巻きながら、少し鼻を赤くした坂田は冷えた手をズボンのポケットに突っ込む。と、くしゃりと指の先に何かが当たった。
 引っ張り出して見てみなくても、それがしわしわになってしまっていることは分かる。当たり前だ、もう一ヶ月間ずっとポケットにいれっぱなしなのだから。
 一ヶ月の間、機会はいくらでもあったはずだ。それでも、今日までついにその機会を利用することはできなかった。
 それは何のせいでもなく、坂田自身のせいだ。
 なんだかんだ強がってみても、結局土方先輩を前にすると自分の駄目なところばかりが露呈してしまう。

「意気地なし…」
「はあ!?」
「あ、いや、今のは先輩のことじゃなくて」
「じゃあ誰だっつうんだよ…いまここ俺とお前しかいねーだろ」
「…」

 言われて、教室を見回してみれば、いつのまにか他の生徒は退出してしまっていた。
 がらんどうの教室は、いつにも増して寒々しく映る。
 いつも売り言葉に買い言葉の坂田が急に勢いをなくしたのを見て、それを寒さのせいだと理解した土方は鞄から紺色の水筒を取り出した。

「これやるから、風邪引くなよ」
「ふえ…?」
「温かいお茶が入ってる」
「えっ、せんぱいの、水筒?」
「他人の持ってたら気持ち悪いだろ」
「わっ、や、え、えと…」
「まだ残って自習すんだろ?それ飲んでいいからよ。次ここ来る時に返しておいてくれれば、いつか取りに来るし」
「は、はあ…」

 水筒を半ば坂田に押しつけるように机の上に置くと、先輩は荷物をまとめて鞄の中にいれ始めた。

「先輩、帰るんすか」
「うん」
「えっ、ちょ、あの…」
「あ、やっぱその前に一杯だけ飲まして」
「へ?」

 突然の展開にうまく反応できない坂田を差し置いて、土方は水筒を手にとる。蓋をあけるとコップ代わりのその中に中身を少し注いだ。
 ほかほかと湯気が立ちのぼって、蓋に口を近づけた先輩の眼鏡が瞬時に曇る。
 すこし顔をしかめると、土方はうっとうしそうに眼鏡をとった。

「わ!」
「は?」

 急に大声を出した坂田を、土方が怪訝そうな目で見る。
 眼鏡を取った先輩の顔を見たのはこの塾に入って以来それが初めてで、想像していたよりもずっと整った顔に思わずぶわりと鳥肌がたった。
 坂田は慌ててポケットの中に突っ込んだままの右手で、しわくちゃになったそれを掴んだ。

「せ、せんぱい、あの!」
「何だよ」

 ぎゅうと、握りしめた手の中の感触を確かめる。
 今日も朝からズボンに入りっぱなしのそれは、坂田の体温でほんのり暖かい。
 ずっと渡せないままそこにあることに慣れてしまったそれは、まるで坂田の気持ちそのものだった。

「先輩が第一志望落ちたって俺はそんなのどうでもいいし、むしろ一校ぐらい落ちてほしいなとか思ってますけど」
「おい」
「でも先輩が落ちたら、来年やっぱり張り合いないんで、」
「どっちだよ…」

 苦笑いを浮かべる土方の前に、思い切って右手を突き出す。
 反射的に差し出された彼の手の上に、毛羽立った白い袋を押しつけた。

「だから、受かってください」
「…っ」

 その袋の上に、学業成就で有名な神社の名前を認めた先輩が目を丸くした。

「これ…」
「初詣のついでに買っただけっすから」
「おまえって、ほんと」

 可愛くねえなあ、と先輩が呟く。けなされたはずなのに褒められたみたいに嬉しいのは、先輩の目が優しさをまとっているせいか。
 初めてレンズを通さずに見るその瞳は、淡い色の虹彩が寒空のように綺麗だった。

「三月十日」
「…っ」
「ここに、合格報告に来るから。水筒返しに来いよな」

 落ちてたらどうするんだろう。先輩のほうが自信満々すぎて笑っちゃうくらいだ。
 でも、せっかくわざわざお守りを買いに行ったんだから、受かってくれなきゃ困る。
 眼鏡をかけ直すと、土方は立ち上がった。

「じゃあ、お前もほどほどにな」
「あ、はい…」
「先生にもよろしく」

 タータンチェックのマフラーを巻き直して、土方先輩は教室を出て行った。
 それが最後だなんて嘘みたいにいつもどおりの景色で、でも最後だなんて思うときっと柄にもなくさみしくなってしまうからこれで良いのだと思った。
 一人きりの教室で、先輩にもらったお茶を蓋に注ぐ。
 また湯気が立って、古びた天井にゆるやかに吸い込まれていく。
 それを見送って、坂田はまだあたたかいお茶に口をつけた。

 初めての間接キスは、冬の匂いがした。



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