カンッ、と耳障りな音が響いて、俺は力を抜いた。
 放った矢は、的の枠ぎりぎりを射抜いている。
 かろうじて内側に中っているように見えるが、もしかすると少し鏃がやられているかもしれない。
 90分の練習時間のうち、的に中ったのは今のが初めてだ。
気持ちよく一中とカウントするかは微妙な一射ではあるが、とりあえず最後の競射までに一回は的中させることができた。
(よかった…)
 練習で中っているかいないかは、あとで大きな差になる。
 ほっと胸をなでおろした俺の左耳を、刹那、パン、と小高い音が叩いた。
 遅れて、部員のよし、という声が響く。

(的中……)

 顔をあげる。
 俺の、すぐ前の立ち位置。
 真ん中よりは少し右を綺麗に射抜かれた的を見つめたまま、土方は表情を一切変えることなく次の矢を構えた。

 ◎ ◎ ◎

「坂田、お前また早気の癖が出て来たか」
「そ、そうですかね」
「ああ。焦っているのは分かるが、早気は一度なるとなかなか治らんぞ」
「わかってます…」
「わかっていても治らんやっかいな病気が早気なんだ」
「はあ…」

 気長に治して行くしかないな、と師範に背中を叩かれ、俺はそれでもはあとと情けない声を出した。
 手の中の握り革は見た目こそぼろぼろになっているが、そんなに必死に練習してきたという感覚はなかった。
 弓道部に入ったのは、やりたかったからではなく友人に誘われたからだ。高校に入って他にやりたいこともなかったし、なんとなく女子にモテそうな、かっこいいイメージもあった。
 それなのに、その友人は入部早々怪我で足を悪くして退部を余儀なくされ、悔しがるそいつに「俺の分まで頑張れ」とか言われ、師範には「あいつの分まで頑張れ」なんて言われ、なんとなくやめるにやめられずずるずると二学期に至るのだった。
 俺の学校は特に強豪校というわけでもないので、弓道は別段人気の部活でもなく(当然期待していたように女子にモテるわけでもなく)、同じ学年でこの部に入ったのは、自分とやめた友達も含めて6人しかいなかった。
 そのうち半分は女子だったから、今現在一年の男子は俺と、あともうひとりしかいないことになる。
 そのもうひとりが、土方十四郎だ。
 土方も高校から弓道を始めた初心者だったが、持ち前の集中力と運動神経のよさで、未経験組のなかでも並外れた成長を見せていた。
 将来のエースに、との期待も秘かにかかっているが、本人はそんな先輩たちの声などあまり気にしていないようで、ひたすら黙々と練習に励む姿がまた周囲の評価をあげていた。

「坂田」
「ん?」

 振り返ると、弓を引き終えた体勢のまま、土方が俺を呼んでいた。
 まだ引き始めて一年も経たないのに、彼のフォームは洗練されていて、美しいという形容詞が良く似合う。

「おまえ、なんだかんだで続けてんだな」
「あ、ああ」

 競射準備、の声がかかって、最後に刺さった矢を回収する為に女子たちが安土のほうへ走って行くのが見えた。
 稽古用の巻藁から矢を引き抜きながら、土方がぽつりと言う。

「……やめんなよな」
「え…あ、うん…」
「坂田がいなくなったら一年の男子俺一人になるし」
「うん」
「そんなの、なんか張り合いねえし」
「…うん」

 クラスが違う土方とは、部活以外で顔を合わせることはあまりない。週三回の部活のあとも、駅までのたかだか10分を一緒に歩くだけだ。
 仲が良いほうには入らないと、思う。

「あのさ、坂田」
「ん?」

 学年順にやる競射は、いつも一年の俺たちから始まる。
 弓を矢とを用意して合図を待っている俺の隣で、的のほうを見つめたまま土方が続けた。

「勝負しねえ?」
「勝負?」
「今日の競射、俺のほうが多く中ったら最後まで部活続けるって誓え」
「え」
「でも、おまえが勝ったら」
「勝ったら…?」
「…じゃあ、ひとつだけ、なんでも言うこと聞くよ」

 その言葉尻にかぶせるように、始め、の声がかかった。
 土方のほうを向いていた俺は、慌てて礼をして的前に進む。

 同学年の男子であるということをのぞけば、土方が俺に執着する理由はないに等しいと思う。
 弓も上手くないし、頭もよくないし、優しいわけでもないし。
 それでも、部活のあとは決まってたかだか10分の道を肩を並べて歩いたし、競射では必ず隣の的に来るし、練習を休むときにはわざわざメールをくれた。

(それは、普通のことだ、たぶん)

 足を開いて構え、矢を二本取る。
 そのうち一本を弓につがえて、頭上高くあげ、ゆっくりと引いていく。

(だけど、もし…)

 ばっと手を離す。
 ぼすん、と安土に刺さる音。
 一瞬遅れて、隣の的からも同じような音がする。
 一射目は引き分けか。
 ほう、と息を吐く。
 続いて次の矢をゆっくりと構えて、顔をあげた。
 土方はすでに打ち起こしに入っている。
 なめらかに動く手、ぴんと張られる弦、しなってゆく弓。
 それを目の端に見届けて、俺も弓を起こす。
 
(もし、俺が勝ったら…)

 土方にそう言われて、真っ先に頭に浮かんだことがあった。
 否、本当はそれはいつも頭の隅にあって、ただ俺がちゃんと意識していなかっただけなのかもしれない。
 だるいだるいと口にしながら、それでも決して楽ではない練習に毎日なんだかんだで通い続けている本当の理由は、何か。
 二射目。
 土方の矢は枠の上ぎりぎりをかすめて安土に刺さり、俺の矢は大きく外れた。
 腕の筋肉はそろそろ限界に達している。
 あとは気力で引くしかない。
 残り二本の矢を拾いあげて、弓を構えた。
 三射目。
 引いた腕が全く持たない。早気だ。
 狙いをさだめて集中する前に矢は離れていき、またも枠のはるか上に刺さった。
 最後の矢をつがえる俺の前で、ぎりぎりと土方のゆがけが音を立てる。
 一、二、三、四、五秒。
 すっと音もなく放たれた矢は、パァンと小気味よい音を立てて的を射抜いた。
 先を越されたか。
 見守る部員の声が響く。
 俺に残された矢は一本。あとはない。
 焦る気持ちを抑え、いつもより大きく構えて、じっくりと弦を引いた。

(あたる、あたる……)

 視界には入らないけれど、隣で同じように弓を引く気配がする。土方の息遣い。体温。
 ゆっくりと呼吸をする。両腕が軽くなる感覚。
 ふわり、鏃を掴んでいる右手を離した。
 
 ―パンッ

 (中った……)

 安堵で全身の力が抜ける。
 視線の先にある的には、確かに俺の銀色の矢が刺さっていた。
 へなへなと弓を倒して、後方に退る。
 他の一年はもう四射を終えて、的前に立っているのは土方ただひとりだ。
 部員全員の視線が集中する。
 これもあてるか、あるいは。
 たっぷりと弦を引く土方を見ながら、喉の奥がごくりと鳴った。

(お願い、だから…)

 見守る俺の目の前で、ひゅうと風を切る音。
 最後の一射、見事な姿勢をくずさぬまま土方の放った矢は、綺麗な流線型を描いて的に向かって吸い込まれていった。


 ◎ ◎ ◎


「坂田…!」

 練習が終わって、矢を仕舞っていると後ろから声がかかった。
 矢筒を背負った土方が道場の入り口で俺を待っている。

「今回は引き分けだったな」
「勝てると思ってたんじゃねえの?」
「うーん、絶対的な自信はなかった」
「そーかよ」
「うん、だから本気でやったよ」
「俺だって本気でやったし…」

 久々に、と付け加えると、土方はくすりと笑った。

「あーあ、最後の矢、あと一センチ右だったらな…」
「惜しかったなあれは」
「くっそー…坂田にやめない宣言させるはずだったのに」
「んだよそれ…つーかさ、」
「ん?」
「別に、言われなくてもやめる気なんてねえし」

 土方が一瞬立ち止まって、俺の顔を見て、それからまたすぐに歩き出す。

「おい、ちょ、なんだよ」
「なんでもねえ」
「俺がやめたら寂しい?」
「ち…っげえし!」

 ずんずんと歩みを速める土方に、俺は慌てて追い付こうと走る。
 背中で、矢がばらばらと動く感覚がする。
 この長い坂を下りきれば、駅はもうすぐそこだ。

「土方…っ」
「何?」

 ようやく追い付いて、横に並ぶ。
 道着に身を包むとだいぶ大人びて見える土方も、こうして制服を着ていればただの高校生だ。
 少し拗ねたような表情は、いつもの彼に似合わず幼い。

「今日は引き分けだからさ、俺はやめないって誓ったんだし、こっちの言うことも聞いてくれねえ?」
「なんだよ」

 信号がちかちかと点滅する。
 急いで渡ろうとする土方の手を慌てて引き寄せた。
 ぐん、と土方の身体が傾いで、止まる。

「な…っ」
「このあと、」
「?」
「…どっか、寄っていきませんか?」

 驚いたように土方の目が開かれて、それからぷっと吹き出した。

「なんで、敬語」
「いや、ごめ、なんとなく…」
「あはは…変なの」
「悪かったな」

 ひとしきり笑った土方は、信号が青になったのを見て歩き出した。
 今度は、肩を並べて歩く。
 色違いの矢筒が揃って揺れる。

「いいよ、どこ行く?」

 夕焼けが、土方の横顔を赤く染める。
 俺たちの本当の勝負は、まだまだこれからだ。






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