ぐらり、と大きな揺れを感じて、土方は瞼を開けた。 先ほどまで窓の外を流れていた景色は停止していて、到着を知らせるアナウンスが船内に流れる。 両隣がうるさかったせいで、三時間と少しの移動時間のうち、寝られたのはほんの小一時間だった気がする。 ぐっと伸びをすると、頭上に置いた荷物を取る為に立ち上がった。 客の流れに従って、船から順番に出てゆく。 近藤、沖田に続いて土方が降り、その後ろから続いて銀時が姿を見せた。 「着いたーー!」 陸に足を踏み下ろすなり、銀時がそう言って駆け出した。 珍しくはしゃいだ様子の沖田がそのあとを追いかける。 土方もあとに続こうとすると、後ろからおもむろに服を掴まれた。 「ん?」 「トシ…ごめん、俺…トイレ…」 船酔いでもしたのか、明らかに顔色の悪い近藤が涙目でこちらを見上げている。 「ったく、だから酔い止め飲んどけっつったのに」 「うう…ごめんー…先行ってて」 よろよろとトイレに走り去る近藤を見送っていると、銀時と沖田に呼ばれた。 今行く、と叫んで、土方も走り出した。 四人が降り立ったのは、伊豆諸島のなかでも南方に位置する小島だ。 夏休みを利用して、同じ剣道部の四人で旅行に行こうと近藤から誘われたのが七月のこと。 最初は近藤、沖田、土方と山崎が一緒に行く予定だったのだが、急遽山崎に用事が入ってしまい、代わりにと銀時を誘ったのだ。 剣道部には所属していないものの、ひょんなことからたまに練習の相手を頼んだりしていた銀時とは、全員が顔なじみだが、近藤と沖田にとっては校外で会うのはこれが初めてだった。 「トシと坂田って、幼馴染なんだってな」 宿に向かうバスの中で、急に近藤がそう切り出す。 「へぇー、そうなんですかィ」 「小学校までの話だけどな」 「え、土方さんの恥ずかしいエピソードとかなんかないんですかぃ旦那?」 「えー、あるけど無料ってわけには…」 「じゃあ合宿で隠し撮りした写真と交換とかどうですか?」 「お、いいねえー沖田くん」 「待てえええい!恥ずかしいエピソードなんてねえし!つか金取ろうとしてんじゃねえ!隠し撮りもすんな!」 息巻いてそう言うと、銀時と沖田がにやにやと笑いながらこちらを見ていた。 早くも悪い意味で息のあった様子の二人に、なんだか先が思いやられる。はあ、と思わず溜息をつけば、隣に座る近藤にまあまあと宥められた。 「仲がよくて何よりじゃねえか」 「良くねえ!」 近藤の、まるで曇りのない笑みに、土方は更に嘆息したくなる。 「そういえば土方さん、結局水着買ったんですか?」 「いや、ちょうど東京から兄貴帰って来てたから、借りた」 「そうですかィ…ちっ」 「えっなんで?なんで舌打ち?」 「いや、水着なくてひとりだけ裸で泳げばよかったのにな〜〜」 「まあまあ沖田くん、水着なんて盗めばいい話だから」 「あ、確かに」 「トシ、そんなことになったら俺が水着貸してやるからな!俺は裸でも大丈夫だから」 「いや、お願いだからアンタは隠してくれ…」 (まじでこの四人で大丈夫なのかよ…) しかし、そんな土方の憂いも笑い飛ばすかのような晴天を背景に、一夏の旅行は始まったのだった。 土方たちの大学は内陸にあるので、海に行くことは滅多にない。 生まれてからその県を出たことのない三人にはなおのこと、見渡す限りの砂浜と海は珍しいものであったのだろう。 高校生に勝るとも劣らぬはしゃぎっぷりで、四人は真夏の海に飛び込んだ。 一日中波に揺られて飽きる程遊び、水平線に沈む夕陽を見てから宿への路をたどる。 夕飯も食べ終えてしまえば、疲労感と充実感ですぐにでも寝てしまいたくなった。 くたくたになった身体を各々畳に投げ出してうとうととしていたら、窓の近くに寝転んでいた銀時があ、と声をあげた。 「どうした?」 「いや、空、すげえ」 「え?」 土方に続いて沖田も起き上がり、カーテンを開けて窓の外をのぞく。 その向こうに広がっていた、無数の星が散らばる空を見て、自然と歓声があがった。 「ねえ土方、見に行こうよ」 「え…?」 「だっておまえ、星好きじゃん」 「そう、だけど…」 あとで夜中にひとりでこっそり行けばいいと思っていた土方は、思いがけず誘われたものだから驚いてその先を言いよどんだ。 へえ、と沖田が声を上げる。 「土方さんが星好きだなんて初耳でしたぜ…さすが幼馴染ですねィ」 「…っ」 「まあでも、近藤さん寝ちまったし、俺ァこっから見てるんで十分ですから、」 行くならふたりで行って来なせェ、と再び寝転がる。 どうする、と尋ねるつもりで銀時のほうを見やれば、ちょうど目が合った。 「じゃあ、せっかくだし行こっか?」 「お、おう」 いってらっしゃーい、と沖田に手を振られながら、土方は立ち上がった銀時のあとについて、部屋を出た。 「どこまで行くんだ?」 「砂浜まで行っちゃう?」 銀時は、派手なオレンジのビーチサンダルを手にしている。 わかった、と土方も砂まみれになったサンダルに足を突っこんだ。 宿を出て、海までのゆるやかな坂をふたり並んで降る。 頭上に広がる濃紺をちらちら見上げながら歩けば、知らず側溝に落ちそうになって、危ないと銀時に腕を掴まれた。 ぐい、と意外に強い力で引っ張られる。 「あ、ありがと」 「もうほんと、夢中になるとそれしか見ねえんだから」 「ご、ごめん…」 「ま、そこも土方の魅力だと思うわけですが」 「へ…?」 「ほらっ、早く行こうぜ」 離されてもなお、腕に残る銀時の指の感触には気づかないふりをして、土方は急かされるがままにサンダルを履きなおした。 ふたたび歩き出すと、ほどなくして浜辺につく。 立ち止まった二人の前には、昼とは全く姿を変えた海が広がっていた。 深い闇のなかに佇む夜の海は、あらゆるものを飲み込んでしまうかのように、暗くて不気味だ。 音もなく揺れる水面には、水平線の向こうに浮かぶ月までまっすぐな光の路ができていて、見つめているうちにふらふらと入水してしまいそうな、抗しがたい魔力があった。 波打ち際近くまで下りると、隣の銀時に倣って、砂の上に寝転がる。 昼間は火傷しそうなほどに熱かった砂はもうすっかり冷えて、日焼けで火照った肌には気持ち良いほどだった。 穏やかな潮騒の音が、心を落ち着かせる。 そして目の前には、満天の星空。 遮るものも何もない空は、ただとても広い。 「この先って、宇宙なんだねー」 「うん」 「地球って、丸いんだねー」 「うん」 そんな、陳腐な台詞がぴたっとはまってしまうような、嘘みたいに綺麗な空だった。 「その表面に寝転がってるわけだろ、俺たち」 「ああ」 「重力っていうか、引力っていうかすげえよな」 「そうだな」 「なんか土方が天文に夢中になるのもわかる気がする」 「…俺は単に地球の成り立ちとかに興味があるだけなんだけどな」 「まじでか」 銀時って案外ロマンチストだったんだな、といえば、うるさい、と砂を投げつけられた。 自分は取り立ててロマンチストなつもりはないが、星空に夢を見ていないわけでもない。 その夢を見させるきっかけになったのが自分だということを、傍らの幼馴染は忘れてしまったようだけれど。 「あ、流れ星」 「うそ」 「嘘じゃないって、ほらあの辺」 「あ、ほんとだ…」 ひゅう、とまるで誰かが夜空に線を描いたみたいに、流れ星が天の川を横切った。 「土方、お願いごとした?」 「できるわけねーだろあんな一瞬で」 「まあ、そうだけど…」 言いながら、それでもつい別の流星を探してしまう。 何をお願いしようか、と考えているうちに、次の流れ星が夜空からすべり落ちた。 咄嗟に、頭に浮かんだことをお願いする。 心の中で言い終えてから、それが真っ先に出てきたことに、土方は自分で驚いた。 ちらりと横を見れば、同じように願い事を唱えていたらしい銀時がじっと宙を見ている。彼の、人よりすこしだけ紅みを帯びた瞳には、星空をぎゅっと凝縮したような煌きが映っていた。 その瞳を吸い込まれるように見つめていたら、ふいにこちらを向いた銀時とぱちりと目があった。 「どしたの?」 「や、別に」 我に返ってみれば二人の間の距離は思っていたよりもずっと近くて、ふふ、と笑う銀時の息が頬にあたる。 「土方、睫毛長いな」 「そうか?」 「うん」 長いよ、といいながら銀時が手を伸ばして、指の背で睫毛を撫でた。 くすぐったくて、思わずぎゅっと目を閉じる。 銀時の指はそのまま頬をなぞるように降りていって、その先に触れた。 今度はびっくりして、目を開ける。 ふに、と銀時の指に唇を撫でられて、びくんと肩が跳ねた。 「ひじかた」 「なに…?」 「あのさ、俺」 不意に、鼓動が早くなった。 経験したことのある予感が、脳裏に飛来する。 そんな、まさか、でも。 たった20cmむこうの銀時の顔は、いつになく真剣だ。 色の薄い睫毛に縁取られた銀時の目が、星のようにひとつ瞬きをした。 「おれね、土方のこと… …すき、かも」 瞬間、時が止まったかのように、急に四方から音が消える。 代わりに、いままで幾度となく言われた台詞が、それまでのどんなシーンよりもくっきりと形を持って耳を打った。 銀時が、好き、俺を? なんで、どうして? こんな時はなんて答えればいいんだっけ。 いつもなら、ごめんって謝って、その場を去って。 そうだ、でも、本当にそれで、いいのか? 脳がフリーズしてしまったみたいに、そこで思考が停止した。 口を開けたまま何も言わない土方に痺れを切らしたのか、銀時が俯いたまま呟く。 「…ご、ごめん」 「…?」 「やっぱ忘れて、いま言ったこと」 「…え?」 「土方を困らせるつもりはなかった、から」 「でも、」 言葉を詰まらせる土方を遮るように、坂田は身を起こした。 「こんなとこにいるから、ついロマンチックな気分になっちゃって」 「銀時…、おれ、」 「いいよ」 「え…?」 「無理に、言わなくていい」 「ぎん…」 「俺が悪かった。いつか、もっとちゃんと言うから」 「……っ」 「その時まで、待ってて」 銀時の言葉の遠く後ろで、かすかに潮騒の音が鳴った。 生ぬるい風が、ふたりの間を通り過ぎる。 わかった、と頷けば、銀時は安心したように肩をなで下ろした。 「ほーんと、何言っちゃってんだろ俺」 やけに明るい口調でそう言いながら、銀時は立ち上がって服についた砂を両手で払った。 土方は紡ぐ言葉を見つけられずに黙りこくる。 「帰ろっか、宿」 「…うん」 銀時は何か言いたそうにしていたが、そのまま黙って先に浜辺をあとにした。 いつのまにか月は雲の後ろに隠されてしまって、海は漆黒の闇に沈む。 ぼんやりと、夜の帳に溶けてしまいそうな銀時の輪郭を追って、土方も歩き出した。 銀時は、幼馴染だ。 子供のころは家族同然に育って来たし、他の友人と比べても特別な感情を抱いていることは否定しない。 でもそれは、恋とか愛とか、そういう言葉で表現できるものではないと思っていた。 だって、銀時をそんな目で見たことは、今までただの一度も。 目の前を行くのは、間違いなくいつもの見知った銀時だ。 見慣れた髪、背中、歩き方。 ひとつだって、ときめくようなことはない、はずなのに。 なのに、この胸のざわめきは、何だ? 土方は、わだかまりを振り払うように、澄み切った天を仰いだ。 流れ星にした願い事が叶うのは、いつのことやら。 |