1Kのアパートのドアを開ければ、蝶番がきしんで耳障りな音を立てた。
築20年を超えるアパートは、入居した時から既に、あちこちにガタが来ている。
引越したい気持ちがないわけではないが、毎月振り込まれる公務員の安月給ではそんなことを望むべくもない。
そろそろ油注さなきゃな、と頭をかきつつ、銀八は薄暗い玄関へ無造作にサンダルを脱ぎ捨てた。


カーテンも閉めきった部屋の奥を見やれば、もぞ、と動く影が見える。それを見てかすかに頬を緩めると、銀八は影の主に向かって声をかけた。
「よう、大人しくしてたか?」
返事の代わりに、細い、ひものような影がぴくりと揺れた。
「遅くなってごめんなー」
言いながら、電気のスイッチを押す。
途端、白色に照らされた、散らかった部屋の隅に、その影の主はうずくまるようにして身を潜めていた。
「お腹減ったか?」
よしよし、と銀八がそのうずくまったものの頭を撫でる。
ふたりきりの部屋の中に、チャリリと小さな音が響いた。



「こいつ」を拾ったのは、3日前の夕方だった。
勤務先である学校からの帰り道、ビルとビルの狭いすき間に、うずくまるようにしてこいつが震えているのをみつけたのだ。

限りなく人に近いかたちをしていながら、牛のような耳や角やしっぽを持つ不可思議な生き物。
そんなこいつを家に連れて帰ることにしたのは、ただの気まぐれからだった。
休みがとれずにここしばらく帰っていない実家は、北の地方で酪農を営んでいる。そこで幼い頃から良く両親の手伝いをしていた俺にとって、牛は割と身近な存在だった、というのもあるかもしれない。
あるいは、濡れたような黒髪と瞳に、誰かを重ね合わせて思い出したから、だろうか。
仔牛の伏せたまつげに、昼間の光景がフラッシュバックのように脳裏に浮かんで、心の端がつきんと痛んだ。


「お腹空いたか、とうしろう…?」
仔牛はふるふると首を振る。
俺はこの仔牛を「とうしろう」と呼ぶことに決めた。元々どんな名前で呼ばれていたのか、あるいはどうとも呼ばれていなかったのかはわからないが、今ではとうしろう、と呼べばちゃんと反応してくれる。

「お昼ごはんはちゃんと食べたか?」
こくこくととうしろうが頷く。
その動きに合わせて、首から伸びた鎖がちゃり、と鳴って、俺は目を細めた。
この、ひとのかたちをした仔牛に枷を付けたのは、別にとうしろうが暴れたり、逃げ出そうとしたからではない。ましてや俺自身に、加虐嗜好があるわけでもない。
実家で飼っている牛にだって、そんなものは必要ないわけだから、元来これはまったくもって不必要なシロモノであった。
それでもこの大人しい牛に枷をつけた理由は、恐らく人に問われても答えられない。
「待ってろ、いまご飯作るから」
日の暮れてきた窓の外を眺めながらカーテンを開けば、仔牛はまぶしそうに目を細めた。


「おいしいか…?」
こくり、と遠慮がちに頭が揺れて、俺は思わず頬をゆるめた。
人間のように言葉を発することもできるのだけれど、こいつはいつも必要最低限のことしか口に出さない。
それでも、その控えめな感情の発露は、日々生徒の相手で疲れた俺の心をそれなりに癒した。
こんな鎖までつけて閉じ込めて、コイツは俺のことを怖いと思っているだろうか。
それでもコイツは決して嫌がる素振りは見せなかったし、ただ物分かりのいい子どものようにじっと俺の目を見つめるのだった。
実際、コイツには全て見透かされているのではないかと思うことすらある。
俺はそれが怖い、のだろうか。
だから、こんな、鎖をつけて。
「とうしろう…」
そんな俺の心の内を知ってか知らずか、仔牛は黙ってもぐもぐと咀嚼をつづけた。



「よく食べたなー。」
「ん」
「ほら、今日はデザートがあるよ」

仔牛がご飯を食べ終えたのを確認すると、俺は放ってあった鞄を引き寄せた。
中を探ると、ビニールにいれて可愛らしくラッピングされたクッキーを取り出す。
けして綺麗な形ではないけれど、こんがりと焼き目のついたクッキーからは、その人が自分の手で作ったらしいということがひしひしと伝わってくる。
袋の口に結ばれていたリボンをゆるりとほどくと、途端に香ばしい香りがあたりに漂った。

「これね、土方にもらったんだ」
「ひじ…かた?」
「うん、俺の…」
少しためらってから、生徒、とちいさく呟く。
急に語調の弱まった俺の、わずかな心情の揺れを感じ取ったのか、とうしろうが不安そうにこちらを見上げた。
弱い笑みを返してちいさな彼の頭をなでてやると、くすぐったいのか仔牛は目を瞑る。
その姿に思わず、詰めていた息をはきだせば、俺の脳裏に今日の記憶がゆっくりと蘇った。


それを渡されたのは、放課後、誰もいない教室でのことだった。
これ、と小さく言いながら差し出された片手には、赤いリボンで結ばれた袋。まるで何かを期待してしまいそうになるシチュエーションに、俺の胸はいじらしくも少しだけ高鳴った。
ところが、ありがとう、とおずおずと口に出す俺と目を合わせることなく、彼は淡々と言葉をつづけた。
今日が15日だったから、出席番号が15の彼が担任に渡す係になったのだ、ただそれだけだ、と。

言い訳めいたその台詞は、きっとほんとうのことだったんだろうけれど、ほんとうのことだってはっきり分かってしまったからこそ、それは余計に俺の心を抉った。
つまり彼が来たのは、本当にそれだけの理由で、そこには何らの他意も意図もないのだ。
否、無くなってしまった、のだ。
それだけ告げて去ってゆく彼の背中を見ながら、俺はゆっくりと拳を握りしめた。何もつかんでいない空のてのひらに切り忘れた爪が食い込んで、それだけのことがひどく痛かった。


(それでも…)

「なんでないてるの…?」
「どうしてだろうな、別れようって言ったのは俺のほうなのに」

つややかなやわらかい黒髪や、きれいに尖ったあごが、目の前の仔牛に重なって見える。
その小さな唇から、ぎんぱち、と漏れた瞬間、俺は思わず仔牛を抱きしめていた。
乳離れのしていない子どものような、あまい汗の匂いが鼻腔いっぱいに広がる。

「そいつのことが、すき、なの…?」
「うん…、いまも、すきだよ…」
鎖の伸びる肩口に顔をうずめながら、俺は聡い仔牛の頭を撫でた。とうしろうもほそく華奢な腕を精一杯のばして、俺のことを抱きしめ返してくれる。

「ごめん、ごめんな…とうしろう、」
「…」
「とうしろう、十四郎…」

手をのばして財布をとると、その中に後生大事に入れていた鍵を取り出す。
その銀色のちいさな鍵で、俺はとうしろうに付けていた理不尽な枷をはずした。

「ごめんな、とうしろう」
「ぎんぱち…」
「もう好きなとこ、行っていいよ」
「…」
向き合うことを避けていた自分の気持ちが、いたずらにこの仔牛を閉じ込めていた。
傷つくことを恐れて、誰かを傷つけてしまっていた。
それがようやくわかった。わかって、ほっとした。
ほら、と両手を上にあげて見せる。もう何もしないよ、という意思表示のジェスチャを前にしてしかし、とうしろうは動くことなく黙りこむ。
「どうした?もうつないだり、しないよ?」
「いる…」
「…?」
「ここに、いる」
「え…」
「おれじゃ代わりになれないかもしれないけど、でも、おれもぎんぱちが好きだから」
「…っ」
「ここに、いたい」
思わぬ告白に、俺は目を丸くして仔牛を見やる。するととうしろうは、はじめて見せる下手くそな笑顔で、俺にぎこちなく微笑んでみせるのだった。
「とうし、ろう…」
「代わりだってなんだって、ぎんぱちはおれに初めてなまえをくれたから」

ありがとう、とつぶやくちいさな身体をつよく抱きしめる。
喉のおくが急に狭く熱くなって、俺は何も言えずにただちいさな仔牛をかき抱いた。

「ごめんね、ごめんね、」
「…」
「とうしろう、十四郎…」
「ぎんぱち…」
「好きだよ…」


封をした想いはそっとしまって、いまはただ、あまい匂いに融かされるように目を閉じて。

(明日になったら、いっしょにお散歩しようか)


ようやく輝きだした星々が、古いちいさなアパートの一室を照らしていた。



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ぱっうし企画「うちの仔です!」さまに提出させていただきました。

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