つま先立ちの恋
3月の風は生ぬるい優しさで桜の花弁を散らす。 坂田銀時は学校の校庭に植えられた満開の桜の中に佇んで、それが移りゆく様をぼうっと眺めていた。 ばあっと花びらが空に舞って綺麗だなあと思うのもつかの間、空中に放たれた薄桃はそのまま散り散りに消えて、あとには真っ青な空だけが残る。 緩やかに動く雲をじっと眺めること2、3秒。 そのまま視線を下ろすと、再び風に舞い始めた桜の向こうに誰かが立っているのが見えた。 (あ…、) 風にそよぐ黒髪、すっと伸びた背筋、彼方を見つめる澄んだ視線。 間違うはずのない見慣れた姿に、銀時は駆け出して後ろから飛びついた。 「せーんぱい!」 「うわ、ちょ…っ!」 驚いて、数歩よろめいた土方先輩がこちらを振り返ってわずかに顔をしかめた。 「またお前か…」 「俺じゃなかったことってあるんですか?」 「こんなことすんのはお前ぐらいだ。」 「じゃあ振り返らなくてもわかりました?」 「…一応な。」 「わー愛だ愛だ!」 「なわけねーだろ!」 俺がパッと手を離すと、先輩は右手で髪をかきあげながらこちらに向き直った。その仕草ひとつひとつがなんかサマになっている。なんだか少女漫画に出てくる「理想のセンパイ」そのものみたいで、うらやましいなあなんてぼうっと見ていたら、急におでこを突付かれた。 「何人のことじーっと見てんだ。」 「え、いや…何でも。」 「そーか。お前、今から帰るとこ?」 「あ、ハイ。」 「んじゃ、一緒帰るか?」 「あ、それなんですけど…」 「なんだ?」 「あの…今日チャリ友達に貸しちゃったんで、センパイのに乗せてってくれません…か?」 顔色を窺うように躊躇いがちに見上げると、しばらくして溜息とともに返事が吐き出された。 「いーけど、お前が漕げよ。」 「やった!ハイハイ先輩のためなら喜んで漕ぎます!」 じゃ行くかと言いながら、先輩はさっさと歩き出した。俺は何も言わずにいそいそとあとについてゆく。 自転車置き場につくと、先輩はガチャガチャと鍵を外しながらシルバーグレイの自転車を引っ張り出した。俺の泥で汚れたボロボロのやつと違って、まだ真新しいかのようにピカピカと光るのは、きっと先輩がちゃんと手入れをしているからなのだろう。俺はハンドルを握る先輩の手を見ながら、その手が車体を綺麗に磨き上げてゆく様を想像した。先輩の細くて長いゆびが何かをしている様子を思い浮かべると、なぜだか妙に胸がどきどきした。 「おい坂田、ほら。」 「あ、ハイ。」 渡された自転車に跨って、ハンドルを握る。先輩のぬくもりが残っているような気がして、思わずそれをぎゅっと握りしめた。 「よっと…、」 続いて先輩が後ろに足を掛けて、俺の肩に手を載せた。ぐっとかかる先輩の体重。 俺より5センチ背が高いにも関わらず体重は俺よりも軽い位かもなんて想像していたけれど、それでもやっぱり剣道をやっている先輩の身体はしっかりしているのか、肩に感じる重さはそれなりで。 その重さに、先輩が後ろに乗っているということを改めてリアルに感じて、銀時は緩む頬を必死に繕いながらペダルを漕ぎ出した。 *** 先輩と出会ったのは去年俺が入学したての頃。 たまたまアパートの前で同じ制服の生徒を発見して俺が声をかけたのがそもそもの始まりで、同じアパートに住んでいることが発覚して以来、会えば一緒に自転車で登校したり帰ったりしていた。 家族と住んでいる俺と違って先輩は親元を離れてひとりで住んでいるらしいけれど、先輩の家に行ったことは一度もなかった。 それでも俺は先輩の部屋の番号を知っているし、何曜日は部活があって何時に登校して何時に帰るか、大体は把握していた。 初めはその好奇心が、同じ所に住んでいることに由来する親近感や、見かけも頭脳も完璧な先輩に対するただの憧れだと思っていたけれど、それが違うと気づき始めたのは夏を過ぎた頃だったか。当時付き合っていた彼女に振られたといって落ち込む先輩を前にして初めて、湧き上がる想いの本当の意味を知った。 それ以来、自分が抱いている気持ちのもやもやが恋のそれなんだと自覚してはいたけれど、不器用な俺はその想いを伝える術さえ知らずに、じれったい距離を保ちながらここまで何ヶ月もやってきたのだった。 「いつも思ってたけど、お前漕ぐの速いよな。」 「そうですかー?」 「俺お前と走ってるといつも結構ぎりぎりだもん。」 「それって先輩がもう年なんじゃないですか?」 「うるっせーよ!」 ―きっと漕ぐのが速いのは、先輩の隣にいられて嬉しいからですよ。 そう伝えられたらどんなに楽だろう。 でもそんな台詞を口にできるはずもなく、茶化すことばかり得意になった俺はじっと前を見ながらペダルを漕ぐ。 「春だな…」 「春ですねー…」 「別れの季節だな。」 「出会いの季節ですよ。」 出会い、か…と先輩が呟いた。 俺は赤になった信号の前で自転車を停める。 ふいに先輩が身体を屈めて、俺の顔を半ば覗き込むようにしながら尋ねた。 「なあ、お前、彼女とか作んねーの?」 「…なんで、ですか?」 「いやだって、もうそろそろ高校入って一年経つし、お前モテない方でもなさそうだしさ…」 先輩の口から発せられた「彼女」という響きにどきりとして俺は思わず唾を飲み込んだ。ぎゅっとハンドルを握りしめて信号を見つめたまま、俺はぎこちなく言葉を紡ぎだす。 「いや、まだ…わかんないです。」 「ふーん、そんなもんか…」 「そ…、それより先輩こそどうなんですか?」 思わず口をついて出てしまった質問に、言ってから自分でびっくりした。後悔しても時既に遅く、俺は身体を張り詰めたまま、答えを待つ。 「俺?俺は…まだしばらくいいやって思ってたけど、でも確かに卒業まで一年しかねえしな…」 「欲しいんですか…彼女?」 「いや、別に積極的に作りてぇってほどじゃねーけど…」 「じゃあもし…もし告白されたら…?」 「んー…それは場合によるかな…」 ―場合によるって、じゃあもし俺が告白したら、先輩はどうしますか? 「おい、青になったぜ。」 「え?あ、ハイ…」 慌てて返事をして、俺はゆっくりと力を入れて自転車を漕ぎ出す。 出会いの季節。 別れの季節。 俺と先輩が出会って、もう一年。 俺と先輩が別れるまで、あと一年。 (そうか、いまがちょうど曲がり角なんだ。) 折り返してのちの日々が、前と同じように過ぎてゆくという保証はない。この春が先輩に新しい出会いをもたらしてしまうかもしれないし、そうでなくてもいずれ次の春には俺と先輩に別れが訪れる。季節が巡るのは誰にも止められないのだ。 だとすれば、俺は。 「おい坂田、そこを右じゃ…」 「すいません…っ、ちょっと寄り道してもいいですか!」 「あ、ああ…いいけど」 角をまがればアパート、というところで俺は逆にハンドルを切って、全速力でペダルを踏んだ。 戸惑う先輩を後ろに載せて、シルバーグレイの車体は滑るように住宅街をかきわけてゆく。 5分も経たないうちに目の前に小さな公園が現れて、俺は少し入ったところで自転車を停めた。 「…公園?」 はあはあと肩で息をしながら、俺はきょろきょろと辺りを見回す先輩の前を歩いて公園の奥へと向かう。 少し湿った地面の上をしばらく歩くと、急に視界が開けて、小さな池とその周囲に植えられた満開の桜の木々が二人の目の前に広がった。学校に植えられた木々よりも遥かに規模の大きいそれらは、例えようのない力強さと儚さをもって見るものを圧倒する。 「ここ…、」 「すげぇ…」 「お気に入りなんです、俺の。」 「知らなかったわ…すげえ、きれい。」 先輩は目を丸くしながら景色に見入っていた。 ずっとここに住んでいる俺と違って、2年前に越してきたばかりの先輩は知らないかもしれないと思って、どうしても桜が咲き誇っているうちに連れて来たくなったのだった。 「良かった…ずっと見せたかったんです、先輩に。…いや、」 「…?」 急に言葉を途切れさせた俺を、先輩は不思議そうに見つめる。少しずつ高鳴る心臓の音を体の奥に感じながら、俺は大きくひとつ深呼吸をしてまっすぐに先輩を見つめた。 「…見たかったんです…先輩と、一緒に。」 ざあっと風が吹いて、数え切れないほどの薄紅色の雪が二人の周りを舞った。 先輩の前髪が風に揺れて、形のいい眉毛が露わになる。 その下からこちらを見つめる、深海のように澄んだ瞳をじっと見ながら、俺はほぼ無意識のうちに一気に言葉を発した。 「綺麗な桜も先輩と見なければ意味がないです。先輩がいなかったら自転車も速く漕げない。朝も先輩と行けると思うと起きられるし、一緒に帰る放課後が楽しみだから授業も頑張って受けてる。先輩がいない生活なんて考えられないくらい、俺、先輩のことばっか考えてる…」 「…」 「先輩は俺より背も高いしスタイルも顔もいいし、頭が良くて努力家で、まさに理想のかたまりみたいな存在で、だからずっと俺は先輩に憧れてるんだと思ってた。でも…、たぶん、これはただの憧れじゃなくて…」 呼吸の仕方すら忘れてしまったかのように苦しい。煩いほどに鳴る心臓の音がカウントをとるように俺を急かす。 乱れた制服の裾をぎゅっと握りしめると、俺はカラカラになった喉の奥から引っ張り出すように言葉を発した。 「つまり…俺…、センパイのことが、すき、です。」 何も言わずに俺を見る先輩の瞳はすこしだけ驚きを秘めていて、いつもより大きくなった瞳孔に真っ赤な俺が映りこむ。その目が瞬きを2、3度繰り返す間に、俺は居た堪れなくなって視線をそらした。 それでもようやく酸素を取り込むことを思い出した肺は、痺れたゆびの先に確かな感覚を送り込む。 別に、振られたとしても全然良かった。 長い間伝えられなくてもどかしかった想いをようやく口に出来たことの安堵の方が大きくて、受け入れてもらえまいがどうでもいいと思った。 ただ、これでこの穏やかな関係が終わりを告げてしまうとすれば、それはやっぱり悲しかった。 ごくりとひとつ喉を鳴らして最後の審判を待つ俺に、一呼吸置いて先輩が言葉を発した。 「あ、ありがと…」 「…」 「最初すげー驚いたけど、でも、正直なところそう言ってもらえることは嬉しい。…で、お前に言われて初めて気づいたけど…、」 先輩の言葉が耳に届く。 単語ひとつひとつの意味は分かるのに全部を理解するのになぜだか時間がかかって、俺は耳を研ぎ澄ませたままじっと花びらの散る地面を見つめた。 「…俺も、こういう毎日が楽しいのは、お前がいるからなんだと思う。きっと…お前だからなんだと思う。」 おそるおそる顔をあげると目の前には相変わらず先輩が立っていて、いつも鋭い印象を与えるその瞳が、俺を見とめた瞬間にふわりと優しさを帯びた。 言われた言葉をうまく消化できなくて頭が真っ白で、それでも大好きな先輩の初めて見る表情に泣きそうになって、溜め込んだ想いを吐き出すかのように俺は先輩に言葉をぶつけた。 「先輩…っ、俺、」 「うん。」 「先輩のことがホントに好きです…ッ!」 「ああ。」 「先輩の眼も、声も、手も、全部好きです…!」 「はいはい…」 「俺、ホント先輩と付き合いたいです…!」 「好きにしろ。」 「…え?い…いいん、ですか…?ホントに?」 「嘘じゃねぇよ。場合によるって言ったろ?」 「じゃあこの場合は…」 先輩は何も言わずにこくりと頷くと、ぷいと視線をそらした。 真っ赤になったその横顔を見ていたら、抑えていたものが決壊したかのように愛しい気持ちが溢れて、俺は思わず先輩に抱きついた。 「ちょ、おい…っ!」 「先輩!」 「あぁ?」 「だいすきです!」 「わかったって!」 「先輩…じゃあ、」 「なんだ?」 「じゃあ、…キスしても、いいですか?」 驚いたように、ぱちぱちと瞬きをする先輩。 もともと高潮していた頬が更に赤みを帯びて、それが急速に耳まで達した。 「好きに、しろ…」 もういちど同じ台詞を吐いて、先輩は視線をそらそうとする。俺はそれを許すまいと、花のように真っ赤に染まった頬を両手で挟みこむ。ばちりと視線がぶつかって、先輩は観念したように目を閉じた。 「先輩…」 「…」 「だいすき。」 俺は愛しい先輩にそっと口付ける。 届かない5センチの分、すこしだけ背伸びをして。 ざあっとまた風が吹いて、舞い散る薄桃色の花びらが重なった二つの影を隠した。 |