5分で叶う想い
時間というものは誰のうえにも等しく流れる。昔、動物によって鼓動の速さは違うから動物にとっての一時間は等しくないなんて文章を読んだけど、あれは嘘なんじゃないかって思う。やっぱり時間は平等かつ公平なものじゃないですか。だからみんな死に急ぐようにして生きているんだ。 その貴重な時間をだいぶだらだらと過ごしてしまった俺も、なんやかんやで無事に3年生に進級した。 いよいよ受験だなんて周囲は急にあたふたと騒ぎ出したけれども、俺には最近それよりももっと気になることがある。 「ねえ先生…俺たちの関係って何?」 「…先生と…生徒?」 「…ですよねー…」 大きな溜息と共にそう吐き出して、俺はシーツに頭を埋めた。学校の備品だから高級なモノではないけれど、あまり使われることもないそれからはかすかに洗剤の匂いがした。 清潔なイメージを運んでくるその匂いは、なんとなく土方先生を連想させる。とは言っても、休み時間の度にベランダへ出て煙草を吸っている先生が纏うのは、もっぱら煙のそれであることはとっくに知っているのだけれど。 今日、俺は情けないことに5時間目の体育の時間にぶっ倒れた。担ぎ込まれた保健室で片目眼帯の保険医に貧血と診断されて、俺は野菜ジュースをもらって大人しく寝ていることになった。 倒れたのは無論演技ではなかったけれど、しばらく横になっていたら顔色もだいぶ良くなったらしい。授業終了時刻の間際に様子を見に来た土方先生は、起き上がって携帯をいじっていた俺を見るなり盛大に眉を顰めた。 「倒れたって聞いたんだが…」 「うん、そうだよー」 「ぴんぴんしてんじゃねーか」 「疑ってんの?」 「いや、そうとは…」 「ちょっと寝たらよくなったっぽい」 「そうか…疲れか?」 「うーん、昨日からばーちゃんが旅行行っちゃって、お菓子しか食ってなかったからかな」 両親のいない俺にとって、ばあちゃんが昔から母親代わりであった。 その頼みの綱が町内会の旅行で熱海に行ってしまった昨日以降、俺は何も考えずに朝昼夜甘味ばかりを摂取していたのだった。 「成長期なんだからちゃんと食べねーとダメだぞ」 「じゃあ先生が作ってよ」 「無理」 「ひど」 まあ元気そうで良かった、と呟いて、先生はベッドの傍らにひとつだけあったパイプ椅子に腰掛けた。錆びて大分年季が入っているらしいそれは、土方先生の動きに合わせてぎぃと音を立てる。 「なんで先生が来たの?」 「俺さりげなくお前のクラスの副担任だからな」 「まじでか」 「知らねえと思ってたわ…前のショート個人面談とかもそういう理由だぜ」 「え、個人的に俺が気になるとかではなく?」 「ではなく」 あそー、と言って何とはなしに仕切りカーテンのひだに目をやりながら、俺は妙に落胆している自分に気付いた。気付いて、なんだか癪に障った。 それで急にごそごそと布団に潜ってみたりしたけれど、やっぱりなんだか居心地が悪くて、だからしばらく前からもやもやと心にわだかまっていた何かを思い切って確かめようとして、冒頭の台詞を吐いたのだった。 案の定そっけない答えを返してきた土方先生に落胆したのが半分、でもほっとしたのが半分だった。なんとなくぬるま湯のように心地いい、このままの関係を続けていってもいいんだと許された気がしたから。 だから次に先生の方から話し始めた時には、また進路の話かななんて聞き流す気満々で、俺はサイドテーブルに乗った野菜ジュースの紙パックに手を伸ばした。 「あ、あのさ、坂田」 「はい?」 「そのこと、なんだけど…実はそろそろ話さなきゃいけねえかなって…思ってて」 「ん?なにー?」 先生はしばし逡巡するように襟足の毛を触った。俺は二本目のジュースにストローをぶつりと差して、口元に運ぶ。 「お前…さ、俺のこと、好きか?」 「前はどうでも良かったけどいまは違うよ。学校の中では一番…」 「そうじゃなくて、なんつーか…俺が先生じゃなかったとしても、俺のこと、好き?」 「…ッ!」 細い細いストローの先が、ぷちっと唇の裏にあたって痛みが走る。 抗議の声をあげようとして、そう問うた本人の方が俺の何倍も困惑したような表情を浮かべていたから、俺はジュースの紙パックを握りしめたままそれ以上目を合わせられなくなってしまった。 先生の不器用な質問の意図が、自分が最初に訊いたそれと同じであることに気付いたから、その答えを俺から引き出そうとする先生はずるい、と思う。 「そんなの、わかんねえよ…」 「じゃあなんで最初にキスしてきたんだよ…」 「それはっ…なんか、ぐらっと来て…」 「てめえは女子相手にも安易にそうやってすんのかよ」 「そんなことは…ねえけど、でもだって俺付き合ったことないし、ていうかその前に恋したことないし…」 なぜかと問われればそう答えるしかなかった。それでも大分説得力のない理由だ、とは気付いていた。 でもわからないけど、そういう割り切れない気持ちを感じたのは初めてだって、それは確かだったんだ。 「先生はどうなんだよ…何でキスしてくれたの?」 「いや、なんかお前にするキスはさ、親子のスキンシップ的なアレで…お前のことは我が子のように見ていたというか」 「んじゃその『子供』にケツ掘られてよがってるお父さんってさ…」 「うわああそれを言うな…!」 「先生って超変態」 「それはお前が…」 「俺のせいー?」 「…」 先生は返す言葉を見つけられずにむっとした顔のままおし黙った。平均を遥かに超えてモテる先生は、きっと普通の恋愛もしたことないんだろうななんて予想はついていた。しかし、それでも何となく、俺たちのこの関係を形容する言葉が果たしてあの甘酸っぱい一文字に似たものなのか否かということを少し確かめたかっただけだった。それだけだった。 だからもしこれが本当に、先生への憧れとかおふざけとかほんのちょっぴりの敬意とか諸々を飛び越えるような気持ちなんだとしたら、どうしたらいいのかわからないのはお互い様なのかもしれなかった。 「ごめんな、いろいろ」 「え?」 「俺、教師なのに、こんなはっきりしねー態度でお前困らせてたな」 「…それは」 「俺、昔もおんなじようなことあって、結局何にも言わないままずるずる関係だけが続いてさ…俺はあのとき若かったし、繋がってる証が欲しいとか本当は思ってた。でも本気で相手に惚れてたからさ、余計何か言って関係崩れるのが怖くて、言い出せなかった。だから相手の気持ち確かめることもできねーで、ただ温い関係に甘えてた。そんなんだから、卒業と同時にその教師ともお別れしちまって…」 「…」 「だけど、お前にはそんな想いさせたくねーんだって、気付いた」 数式を解説するときの淡々とした調子ではなく、ひどく真剣な面持ちで先生は俺を見つめる。 合わさった視線を外せなくて、鼓動だけがやたら速くなって、一気に血流が上昇してゆく。こんなに顔に血が集まったら、とうとう下半身なんか貧血でやばくなんじゃねーのなんてことを熱い頭の端の端で考えていた。 先生が短く息を吸った。 「俺は、お前が好きだよ」 「…っ」 「大切にしてやりたいと、思う」 「…」 「これが父性愛だって勘違いしたこともあったけど、でもたぶん、違う」 「…せんせい」 「お前のことが、好き」 先生の言う「好き」が、俺の脳内のそれとカチリとはまる音がした。 憧れとかおふざけとかほんのちょっぴりの敬意とかもあるけれど、それ以上に俺を捕らえて離さないのはもっと違う感情なんだって、ようやくそれがはっきり分かった。 「せんせい、」 「うん」 「俺も先生が、好き、です」 「…うん」 「先生は俺の世界に急に入ってきて、退屈だった毎日を変えてくれて、どうでもいいとか思ってた未来も先生のおかげでちょっとは期待できるようになった」 「…そうか」 「だから、そんな先生ともっといろんなものを見てみたいって、そう思う」 めったに笑うことのない先生が、眼鏡の奥で嬉しそうに目を細めるのが見えた。そんな些細な変化に気付けるほど、先生のことを見ていた自分にも同時に驚く。 「坂田」 「はい」 「お前に会えて、良かった」 「お、俺だって…先生に会えてよかっ…」 ぎぃ、とパイプ椅子が鳴る。 言いかけた最後の一音は、重なった唇のあいだに吸い込まれた。 俺の両肩に置かれた先生の手のひらから伝わる脈拍は、俺のと同じくらい速い。 なんだか今までにしたどのキスよりも緊張して、心が通い合った行為はこんなにも照れくさいものなのだと生まれて初めて知った頬に、またざっと赤みが差した。 「せんせい」 「ん?」 「俺早く大人になりたい」 「焦んなくても俺は逃げたりしねーよ…」 「でも…」 「大丈夫。ちゃんとここで、待ってるから」 「…うん」 「すきだよ、先生」 「俺も、すき」 もう一度、吸い寄せられるように口付けをした。 苦くてあまい、まだ知らぬ大人の味がした。 きっと、想いは5分で叶う。 おわり! →おまけ |