コンコン、とふたつだけノックを鳴らす。
んー、と気だるげに間延びした声が部屋の外に聞こえて、土方はゆっくりとドアノブを押した。
静かにドアを開いた先には、いつも通り机に向かってうずくまる坂田の姿。

(相変わらず集中すんときはすげえなあ…)

原稿に向かったままこちらを振り返りもしない坂田に、ふっと息を漏らして笑った。
こうやって、ぴくりとも動かない背中を眺めるのがすきだ、なんて言ったら坂田はどんな顔をするだろう。
土方は持ってきたふたり分のコーヒーと手土産のシュークリームを低いテーブルの上に置いて、すらすらとそこだけ滑らかに動く坂田の右手をじっと眺めた。


(アイラブ)
ユア・インスケイプ


坂田と土方は、いわゆる作家と担当という関係にある。

週に何度かはこうして坂田の家を訪れて、仕事の進み具合を見たりアドバイスをしたりしている土方は、甘党の担当作家のために新しいスイーツをチェックしたりするのもすっかり習慣になった。
6畳一間のアパート暮らしが長かった坂田にとって、いま彼が住んでいる神楽坂の2DKのマンションは、ひとりで住むには余りあるとしょっちゅうぼやいてはいるものの、最寄り駅や出版社からも近く、尚且つ築5年という綺麗な物件は土方にとってはうらやましいぐらいの好条件であった。
ゆえに、居心地の良さから土方はいつもついつい長居をしてしまう。

書いているところを見られるのをあまり好まない坂田なので、彼の仕事中はなるべく邪魔をしないようにはしている。
それでも、休憩までの少しの時間入ることを許された部屋で、こうして彼の背中を見ているのは土方にとって密かな楽しみであった。



恥ずかしながら、小説家を志していた時期が土方にもあった。
いま思えばまるで幼稚で中身のない文を書きながら、なんとなく何かを生み出している自分自身に酔っていたようなところがあった、と思う。

大学の文芸サークルでは、自分の文章を読んで褒めてくれたり意見を述べてくれる仲間もいたし、年一回の学園祭で本という形にして出す機会もあった。そんな日々の中で、なんとなく物書きになりたいなあなんて青臭いことを夢見て、人知れず書き溜めた小説は、ついに日の目を見ることなく引出しの奥のノートの中にいまもぐっすりと眠っていたりする。
そんな自己満足で馴れ合いばかりの生温い日々を卒業して、うじうじと甘い夢を捨てきれないまま仕方なく就職した先の小さな出版社で、土方は坂田に出逢った。

今でもはっきりと覚えている、初めて彼の文章を読んだときの不思議な感覚。ほんの数行読み進めただけで、坂田が創り出す世界にすうっと飲み込まれてしまって、気が付くと息継ぎも忘れて夢中になって文字の海を泳いでいた。
気まぐれに満ちたその脳内からいとも自由に紡ぎ出される言葉は、紙の上をゆったりと揺蕩うように或いは踊るように流れて、読むものを一瞬にして引き込む何かを、持っている。

坂田の文章に出逢ったその日から、土方はすっかりその虜になってしまったのだった。

どこかの小さなコンテストで賞を取ってこの世界に入ったという坂田は、それでも当時まだほんの駆け出しで、出版社の持つ定期刊行誌に短い文章を書き下ろす程度の活動しかしていなかった。
ようやく初めての単行本を出すという段になって、これまた入社2年目のひよっ子である土方が担当に抜擢されたのは、文芸部門に新風を求めた上の意向らしい。とにかくにも、それによって俄然やる気の出た土方は、入社以来失いかけていた文章への情熱を取り戻して仕事に励んだ。

初めて担当として坂田と会った時、彼の文章がどんなに素晴らしくて、自分が如何にそれを好きかを本人の前で恥ずかしげもなく語ったら、坂田は苦笑いを浮かべながらもありがとう、と照れくさそうに呟いた。

その日から二人三脚でやってきて、早三年。
坂田のことを幾分か知ったいまでは、その照れた顔がいかに貴重なものかがわかるものだから、たった一瞬だけ見せたあの表情をもう一度この目に焼き付けたくって土方は今日もせっせと彼の世話を焼く。

いまも、これからもこいつの文章が世界一だと言えるくらい、自信を持って土方は坂田の文が好きだった。



コトリ、とペンを置いた坂田がうぅんと唸りながら両手をあげて伸びをした。振り返り、土方に向ってにへらと笑う。
割ときっちりとしたその文章から想像される真面目そうな人物像とは裏腹に、実際の坂田はまるで天衣無縫のペガサスのような男だったので初めは驚いたが、今ではそんなだらしない笑みまで好きだと思える自分は末期かもしれない、と土方は笑った。

「とりあえず一章おわったー…」
「おつかれさまです。コーヒーと、あと食べたいっておっしゃってたシュークリーム買ってきたんで」
「まじで!土方くんちょう優しい〜ありがと〜!コーヒー、砂糖いっぱい入れてくれた?」
「…一袋持ってきたんで好きなだけ入れやがってください」

えー自分で入れるのぉと言いながら、それでも坂田は嬉々として砂糖の詰まった袋に手を伸ばす。極度の甘党である坂田が糖分というガソリンでどんどん動いてくれるのなら、そんなものいくらでもくれてやろうと土方は思っていた。

溶けきれないほどの砂糖が入れられたコーヒーを一口飲み、坂田はほっと息を吐いた。仕事の間だけかけているというそのメガネは、淹れたてのコーヒーの湯気ですぐに曇る。坂田は白くぼやけた視界に気付いて、思い出したように眼鏡を外した。


「うま…っ!このシュークリームうまっ!」
「ほんとどうして甘いもの食べながらそんな甘いモン飲めるのか不思議でしょうがないんですけど…」
「俺はコーヒーをブラックで飲めるやつの気が知れないね」
「それ嫌がらせですか?」
「いや、違うの違うの…存在を認めてはいるけど、理解はできないって言ってんの」
「それはこっちの台詞ですよ…ていうか、俺はそもそもあんなにたくさんの砂糖を入れる人間が存在することをいまだに認めがたいです」
「ええー、糖分は必要でしょう!糖分ないと頭動きませんって…」

言いながら、坂田は右手に持ったシュークリームにかぶりつく。
かじった瞬間にクッキー生地から漏れでたクリームが口端を伝って、坂田はそれを急いで舐め取った。ついでにゆびについたクリームも舐める仕草なんかはだいぶ子供っぽい、と土方は思う。

それなのに、その糖分脳のどこがどうやって動くのか、坂田が編み出す文章は知性と透明感があって美しく、まるで精緻に書き込まれた絵画のように凛として気高い。
土方はそれを目の当たりにするたびに、芸術家とは理解しがたきものなり、という誰かの言葉を思い出した。


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