音楽室の扉が開いたのは、ちょうど最初の譜読みが終わったときだった。
顔を出した鳳君が、こんにちは、とほほえんで挨拶をくれる。

「こんにちは、鳳君。テストはどうだった?」
「手応えはあるよ。瀬田さんは?」
「古典がちょっと自信ないなあ。言葉自体は話の筋とかでわかるんだけど、文法がちょっと」
「ああ、わかる。難しいよね」

今日まで、中間テストがあった。
弾く手を鈍らせたくなくてテスト期間中もここには来ていたのだけれど、鳳君はここには来なかった。
きっと、テスト勉強に集中していたんだろう。
鳳君のクラスとは階が違うからここ以外に鳳君と会う機会はほとんどなくて、だから鳳君と会うのは久しぶりだ。

「新しい譜面だね。次はこれを歌うんだ?」
「うん。6月の最後の方に、コンクールがあるんだ。それの課題曲」
「コンクールのピアノを任されたの?すごいね」
「えへへ……。といっても、課題曲だけなんだけどね。でも3年生の先輩も、私が弾いた方がいいって言ってくれたんだ」

合唱部には、私もふくめて『歌うことよりも伴奏がメインで合唱部に入った』という部員が何人かいる。
普段の練習はローテーションだけど、コンクールの時はその何人かから代表がえらばれる。
私は今回、そのうちの一人に選ばれたのだ。

「でも分かるよ。この曲、とっても瀬田さんに似合うなって聞いてて思ったから」
「えっ、さっきの聞いてたの?」
「うん。途中からだったから、入ってジャマしちゃ悪いなって思って外で聞いてたんだ。優しくてあったかくて、すごく瀬田さんに合ってると思うよ」
「あ、ありがとう……」

ほほえむ鳳君にほめられて、思わず顔が熱くなる。
「音が優しい」とか「温かくていい」っていうのは父さんや母さん、先輩にもそう言ってほめられたけれど、やっぱり何度言われてもうれしくて恥ずかしい。
むずむずするのと同時に、胸の奥があったかくなるこの感じは嫌いではない。

「でも、先輩みたいにどんな曲にも合わせられるようにしないと。頑張らなくっちゃ」

照れかくしに口にした言葉は、でも本心だった。
もう一つの自由曲の方は暗めの、厳しくてテンポの速い曲。
課題曲と印象をガラッと変えた方が審査員も聞きやすい、という意図があってそうなったらしいのだけれど、そうなると私の音では合わない。
だから自由曲は、例の私を課題曲に推してくれた先輩が弾くことになっている。

その先輩は、力強い曲もあったかい曲もなんでも弾きこなせるすごい先輩だ。
最近はこうして合唱曲の伴奏をしたり演奏会に出るくらいだけれど、昔はピアノのコンクールにも出ていて、賞を沢山とっていたらしい。
きらきらしていてやさしくて、私のあこがれの先輩だ。

「俺も、頑張らないとな」

隣に椅子を置いて座った鳳君が、ぽつりとそう言った。
なんだかその音も鳳君の横顔もさびしい感じがして、私は気になってしまう。
と、私の視線に気づいたのか、鳳君はとりつくろうように笑って見せた。

「ゴメン。なんか、暗くなっちゃった。そんなつもり、無かったんだけど」
「ううん、いいよ。それより、どうかしたの?私で良かったら聞くよ?もしかして、テニス部でなにかあった?」

そう言うと、鳳君は目を丸くする。
どうして分かったの、とたずねる鳳君に、だって、と言いかけて私は返答に詰まってしまった。
そんな私を見て、鳳君は不思議そうな顔をする。

「瀬田さん?」
「……あー…えっと、あの…。私、鳳君のことってピアノかテニスくらいしか知らないから……」

鳳君とはこの音楽室で何度か互いのピアノを聴いたり、他愛もない話をしたりしている。
でも今こうして改めて考えてみると、鳳君のことってピアノとテニスくらいしか分からない。
なんだかそれが悪いことのような気がしたけれど、鳳君は気にした様子もなく「そういやそっか」と笑った。

「いや、大したことじゃないんだけどさ。テニス部って人数が多いから、一年生は部活中はボール拾いと体力作りしかさせてもらえないんだ。瀬田さんはコンクールでピアノを弾く大役を任されたっていうのに、俺はまだラケットすら部活で持たせてもらえないのかって思ったら、ちょっとね」
「……うーんと……、私と比べちゃダメなんじゃないかな、それ……」

数人の中の一人の私と、200人以上の中の鳳君じゃ天と地ほどの差がある。
だけどそうは言ったものの、「それはそうなんだけどね」と眉を下げて力なく笑う鳳君の気持ちはよく分かった。
『仕方ない』と分かっていても、悔しいものは悔しいんだ。

(うーん、なんとか励ましてあげられないかな……)

気落ちしている鳳君に元気になってほしくて、いい言葉はないものかと考え込む。

(大丈夫だよ?まだまだこれからだよ?)

色々思い浮かびはするのだけれど、どれもなんだか取ってつけたような言葉に聞こえる気がして、なかなか「これだ!」という言葉が見つからない。
そうして思い悩んでいると、不意にトンッと眉間に何かがぶつかって、思わず目をつむった。

(な、なに?なに!?)

その「何か」は、ぐいぐい力を入れて眉間を押してくる。
体が倒れないように力を入れて耐えていると、不意にその「何か」が離れて、代わりに横からこらえるような笑い声が聞こえてきた。

そっと目を開けると、私の顔の前に手があった。
横を見てみれば、そこには片手で口元を覆いうつむいて肩を震わせている鳳君。

どうやらさっきまで私の眉間を押していたのは、鳳君のようだ。
それは別にいいのだけれど……。

「えっと……鳳、君?」
「ご、ごめんごめん。瀬田さんが、あんまり真剣に悩んでるもんだから、つい」
「つ、つい……?」

つい、でどうしてああなるのか正直よくわからない。
「ごめんね、いたずらして。痛くなかった?」とたずねる鳳君に、ちょっと困惑しながらも頷いた。
一方の鳳君はどうにもツボにハマッてしまったようで、それからまた、今度は私に体ごと背けて肩をふるわわせる。

「お、鳳君?その……大丈、夫……?」
「う、うん、大丈夫……」

笑いをこらえながら答えると、鳳君は大きく数回深呼吸をする。
それから顔を上げて、目の端に浮いた涙を拭いながら私の方に向きなおった。
そ、そんなにおかしかったのか……。

「……はー。ごめんね、急に」
「いや、うん。私は、いいんだけど。……あの、私こそごめんね?」

そう言うと、「何が?」と鳳君はきょとんとする。
情けなさに私は小さくなりながら、口を開いた。

「なにかこう、鳳君の力になれればと思ったんだけど、何も思い浮かばなくって……」
「なんだ、そんなこと。気にしないでよ。俺の為に瀬田さんがあんなに真剣に悩んでくれたって、それだけで俺は……」

そこまで言って、鳳君はまた笑いそうになったらしくあわてて口元をおさえる。
ごまかすように咳払いを一つすると、「気を取り直して」と言葉をつづけた。

「瀬田さんが俺のために、あんなに真剣に悩んでくれたって、それだけで十分。ありがとう、瀬田さん」

そう言って、鳳君は私にほほえみかけた。
途端にすごく恥ずかしくなって、それなのに私は何故か鳳君のほほえみから視線が外せなくなってしまった。

なにか魔法にかけられたように、気持ちがどこかふわふわする。
だけどふと心臓がすごくドキドキしているのに気付いて、そこでようやく私は鳳君から視線を外して少しうつむいた。

「ど、どういたしまして」

何か言わなくちゃ、と思った口から出たのはその一言がせいいっぱい。
対して鳳君は、うん、と頷くと続けざまに「そうだ」と少し慌てたように口にすると、私の方に顔を近づけた。

「さっき俺が言ったこと、日吉には絶対内緒で。こんなことで悩んでたなんて知られたら、カッコ悪いからさ」

私と鳳君以外誰もいないのに周囲をうかがいながら、口の端に手をそえてひそひそ声で鳳君はそう言う。
日吉君というのは幼稚園舎からの鳳君の友だちで、一緒にテニス部にも入っているらしい。
一度だけこの音楽室にも来たけれど鳳君とはまた違ったタイプの真面目な人で、たぶんああいうのを『ストイック』って言うんじゃないかな、と思う。

それはさておき、突然のことにびっくりして、私はの心臓は更にドキドキと大きくさわぎだした。
言葉が出ない代わりに無言でこくこくと頷けば、鳳君は「良かった」とうれしそうに笑った。

「じゃあ絶対、俺と瀬田さんだけの秘密だからね」

人差し指を口元に添えて、鳳君は口元に笑みをうかべる。

なんだか、鳳君の周囲にキラキラとしたフィルターがかかっているように見える。
私はやっぱり何も言えないまま、ただひとつ、ゆっくりと頷いた。


***


秘密だからね、と告げれば瀬田さんはどこか必死な顔でゆっくりと頷く。
なんだかその様子がかわいくてながめていると、瀬田さんは困った風に少しだけ顔を赤くして譜面の方へ視線をうつした。

――さっきの、真剣な表情。
両親以外で誰かに、そんな風に真剣に自分のことを考えてもらったのは初めてだった。
とは言っても、そもそも俺自身こんな風に悩んだことなんてなかったから、当たり前なのかもしれないけど。

(あ。でも日吉は割とバッサリ切り捨てそうというか、アッサリしてそうだな)

日吉は基本的に迷いがないからなあ、と幼稚園舎からの友人に思いをはせる。
まあさっき瀬田さんに「日吉には内緒」って言った通り、こんなこと、日吉に話す気はないんだけれど。
なんというか、たぶん、ほぼ確実に怒られる。

(それにしても、なんかいいな、こういうの)

上手くはいかなくても、俺の事を真剣に考えて、どうすれば俺の力になれるだろうかって悩んでくれる人がいる。
それだけで本当にうれしかったし、それだけでなんだか、元気が出てきた。
心がとても、あったかくなった。

(眉間に皺を寄せて、あんなに悩んで――)

と、思い出したところで慌てて口に手を当てる。
するとそれに気づいた瀬田さんが、不満気な視線を俺によこした。

「鳳君、まだ笑ってる」
「……ごめん」
「もー!早く忘れてよぉ……」

少しだけ唇を尖らせながら眉を下げて困った表情を浮かべる瀬田さんに、がんばるよ、とは言うものの本当は忘れる気なんてさらさらない。
だって本当に、すごくうれしかったから。

(……それはそうと)

一つだけ、気になることがあった。
それは、瀬田さんが申し訳なさそうに口にしたあの言葉。

『私、鳳君のことってピアノかテニスくらいしか知らないから……』

あの時は流してしまったけれど、こうしてひと段落してみると確かにと思う。
俺も瀬田さんの事は、ピアノと合唱部くらいしか知らない。というかもう、ほぼピアノのことしか知らない。

クラスも違うし、学校生活を送る階もちがう。
5月頭にあった遠足は同じ班になるはずもなく、ルートが全然ちがったのか班行動の時間にはちあわせることもなかった。
俺と瀬田さんは、水曜日にこうして音楽室で会う程度のかるい仲だ。

でも、と思う。
お互いに好きな『ピアノ』でつながったせっかくの縁だ。
瀬田さんとはどうせなら、今以上にもっと仲良くなりたいとは思う。

けど、いざそうしようと思うとなかなか難しい。
果たして俺は彼女に対して、どこまで踏み込んでいいんだろうか。
相手が男子なら多少アレでもいいだろうけど、瀬田さんは女の子だしなあ……。

参考にはならないだろうと思いつつ、日吉と友だちになった時のことを思い出そうとしたけれど、あまりに昔のこと過ぎて本当に参考にもなんにもならなかった。
これまでに女の子の友達がいなかったわけじゃないけれど、誰も彼も『クラスメイト』や『ピアノ教室の生徒』の領域を抜けなくて、要するに日吉みたいな『友達』はいなかった。

「鳳君?どうかした?」
「えっ?」
「いや、なんか急に難しそうな顔してうなってるから……。あ、もしかしてまだ悩んでることあるとか?」

心配そうな表情で「私でよければいくらでも聞くよ?」と瀬田さん。
そんな彼女に俺はあわててそうじゃないんだと告げると、とりつくろうための話題を必死に考えた。

あ、そうだ。

「そういえば、えっと……瀬田さんって、なんでピアノを始めたの?」

一番無難で話題が広がりそうな質問。
我ながら、なかなかいいチョイスだと思う。

一方で瀬田さんは俺の突然の質問に少し戸惑った様子を見せたけれど、すぐに少し考えてから口を開いた。

「えっとね……私の家、音楽一家なんだ」
「音楽一家?」
「そう。母さんがピアノで、父さんがバイオリンとか弦楽器。お爺ちゃんとかお兄ちゃんとかもみんな楽器をやってて、よく演奏会とか演奏旅行とかに行ってるんだ。実は今も、父さんと母さんはウィーンに短期滞在でリサイタルに行ってたりして……」
「えっ、すごいね」
「うん。二人とも、すごいんだ。音がすごい華やかで、曲も、ラヴェルみたいな激しくてむずかしいのもサラッて弾いちゃうし……。炎みたいに情熱的な曲も、冬の夜みたいに静かな曲も、なにを弾いてもすっごく素敵なんだ」

二人の音を思い出しているのか、楽しそうな笑顔を浮かべて瀬田さんは話す。
そして、「だから私がピアノを始めたのも、当然の流れっていうか、そんな感じかな」と照れくさそうに続けた。

「私が弾こうとしてもカエルみたいな音しかでないのに、母さんが弾くと星がきらめくみたいにきらきらしたメロディーが生まれていって……。特に、きらきら星は素敵だったな。砂糖菓子みたいに、音がきらめきながら転がるの」

そう言ってほほえみながら、瀬田さんは続ける。

「それが小さい頃魔法みたいに思えて、私もやりたい、いつかこんな風に弾けたらって思ったの」

きっと瀬田さんにとって、そのきっかけは宝石みたいに大切な思い出なんだろう。
そう思えるくらい、話しながらほほえみを浮かべる瀬田さんは幸せそうだった。

「鳳君は?」

不意に、瀬田さんがそうたずねる。

「俺?」
「そう。鳳君が、ピアノを始めたきっかけ。私も聞きたいな」
「俺は、お稽古ごとの一つだったのがきっかけかな」
「お稽古ごと?」

復唱してたずねる瀬田さんに、うん、と頷いてつづける。

「たしなみ、みたいな感じで結構いろいろお稽古ごとやってたんだ。もちろん、体験だけして終わりってのも結構あったけど。ピアノはその一つ。だから、瀬田さんみたいに大したエピソードはちょっとないかな」
「大したエピソードだなんて。たまたま家族が音楽やってただけみたいなもんだよ」

そう言って瀬田さんは否定すると、あわてて両手を振る。
それを見てると少しからかいたくなって、「いやいやかなり大したエピソードだったと思うよ?」と口にすれば「そんなそんな……」と更に瀬田さんはちぢこまる。
小さくなってはにかむ瀬田さんが妙にかわいく思えて、ついもうちょっとからかいたいような気分になったけれど、それよりもひとつ思い出して「そういえば」とそれが口をついて出た。

「俺も、魔法にあこがれたのかも」
「え?」

俺の言葉に、瀬田さんがきょとんとした表情を浮かべる。
自分でも言葉が唐突すぎたのに気付いて、ごめん、とあやまると俺は言葉をつづける。

「ピアノの話。通ってた教室の先生がさ、男の人だったんだけど、すごく綺麗な音を弾く人で。ピアノ弾いてる時、すごくカッコよく見えたんだ。それで、俺もこんな風になれるかな。なれたらいいな、って」
「そうなんだ……」

その人はもともとオーストリアから来ていた先生で、俺が中等部に上がるよりも前に家の事情で国に帰ってしまった。
それと同時にピアノ教室もおしまいになってから他のピアノ教室には行っていないけれど、それでもあこがれたまま、ピアノを続けている。

「一緒だね」

ふと、瀬田さんがそう言った。
そして柔らかく、ふんわりとほほえむ。

その笑顔から、何故か目がはなせなかった。
胸がドクンと大きく脈打って、少しびっくりする。

「私と鳳君、おんなじようにあこがれて、ピアノに触れて。一緒だね」

なんだか、うれしい。
そう言って、ほんの少し照れくさそうに、そしてとてもうれしそうに瀬田さんはピアノに触れながらほほえんだ。

その笑顔がすごくまぶしくて。心臓の音がうるさくて。
なんとかピアノの方へ視線をそらしながら「うん、俺も」と、そう答えるのが精いっぱいだった。




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