仁王に背中を向けてフェンスに寄っているのは、今日はあの恋人だった少女ではない。
それでも、今回は仁王ではなく朝美が呟いた『綺麗』という言葉が、それほどの響きを持っていないのは、今日も同じだった。

ふと、朝美が振り返る。
たとえ二人きりの空間であっても、その表情や雰囲気は校内と同じものだ。

「仁王君、私……戻らないと、切原君が」
「OKするつもりは無いんじゃろ?」

朝美の言葉に被せるようにそう返すと、それは、と朝美は口をつぐむ。

演技をしていても、根本的な考え方は家の中の彼女と同じ。
だとすれば、少なくとも大学に上がるまでは『特定の誰か』というものを彼女は存在させる気はない筈だ。
無論、そうでなくても赤也の告白を受けるとは、仁王は思っていない。

「でも、返事はちゃんとしないと」
「まだあいつは、ちゃんと言っとらん。じゃから、返事はまだ無くて構わんはずじゃ」

仁王の言葉に、朝美は少し眉根を寄せる。
しかしそれは、彼女の素が出たわけではなく演技の範囲。その表情は、子供の悪戯に困る母親か何かのように見えた。



「ずっと、考えちょった」

唐突に、仁王はそう言った。
小首を傾げる朝美に笑みをこぼすと、お前のことじゃ、と告げる。

「会えん間、ずっと。気づいたらお前のこと考えとった。メール来んじゃろか、とか、次いつ会えるんじゃろ、とか」

ぱちぱちと、朝美は目を瞬かせた。
仁王は笑みを濃くすると――はたして、その笑みはどうとられただろうか――「で、思ったんじゃけど」と言葉をつづけた。

「俺との未来、考えてみんか」

その言葉に、朝美は目を丸くする。
笑みを浮かべる仁王からは、その言葉が本気かどうか傍目には分からないし、大多数の人間は冗談だと取るだろう。
それでもなんとなく、言われた朝美には本気なのだと分かって、だからこそ彼女は呆けたように数秒ほど目を丸くしたまま黙っていた。

「……えっ……と?」
「えっとも何も。まんまプロポーズじゃ、プロポーズ」
「あ、うん。や、そうじゃなくて。仁王君、私たちまだ高校生……」
「心配せんでも、来年には結婚式はあげられるきに」
「……」

論点のズレを指摘する言葉は、朝美から返ってこなかった。
困った微笑みを浮かべる彼女はつとめていつもの彼女で、それでもなんとなく、そうさせた仁王にはそれが家の中の彼女と同意識なのだと分かって、だからこそ仁王はつとめていつもの仁王のまま、笑みを崩さなかった。

「分かっとると思うけど、本気じゃきに。っちゅうても、お前さんにも世間体っちゅうもんがあるじゃろうし。今すぐに、とは言わん」
「え、えっと、仁王君?悪いけど私、そういう考えはこれっぽっちも――」
「じゃが『候補』にも入っとらん男に、『裏も表も』なんて見せんじゃろ?」

朝美の表情が、僅かに変わった。
『いつも』の後ろから、『家の中』が薄らと顔をのぞかせる。

――それは、最初から思っていたことだった。
たとえ『そうする必要のない相手』だったとしても、彼女の未来にいない男ならば自身の本性を見せる必要はまったく無い。

一つ、と仁王は人さし指を立てる。

「お前さんは、俺の事を悪く思っとらん」

二つ、と中指。

「俺も、お前さんの事を悪く思っとらん」

三つ、と最後に薬指を立てて。

「俺達は要するに、相思相愛」

つまり、と指を下ろして。

「悪い話では……ないじゃろ?」

仁王の言葉を、朝美は黙って聞いていた。
しかし不意に、上目がちに仁王の顔を探るように見て。
それから小さく溜息をついたかと思えば、その口元にほほ笑みを浮かべた。

「……仁王君って、案外子供なのね」
「実際、年齢的にはまだ子供じゃからの」

じゃけど、お前さんとあんま変わらんと思うぜよ。
仁王がそう言えば、そうかな、と呆れたふうな表情。
それでも消えぬ微笑みに、仁王は手を差し出す。

「まあとりあえず、『裏向き』これからもよろしく、っちゅうことでどうじゃろ?」
「お友達なら、大歓迎よ」

にこりと笑うと、朝美は差し出された手を取った。
屋上に伸びた黒い影は、横に並んで二つで揺れる。そうして、屋上を後にした。

***

「ごめんね、切原君。その……切原君の事は、『可愛い弟』とは思えるんだけど……」
「……そッスか……」

翌日。
改めて赤也からの告白を受けた朝美は、予定通り断った。
昨日、朝美が仁王に連れ去られてから部室でその話をし「それでも、断られていたとは思うぞ」と柳に言われていた赤也は『可愛い弟くらいにしか思われていない』という点までしっかりと当てられて、内心ひどく項垂れていた。
それでも出来るだけ『大丈夫だ』という顔を健気にしてみせる赤也に、ごめんね、を交えた苦笑を朝美は浮かべる。

「あの……やっぱり、仁王先輩ッスか?」
「え?」

だって昨日、と口にしようとする赤也に、違うよ、と朝美はきっぱりと否定する。

「確かに、告白はされたけど……でも、断っちゃった。私、仁王君の事は何も知らないしね」

へへ、と困ったように笑う朝美を見て、少しだけ赤也はホッとした顔を見せた。
良かったッス、と口にする赤也に、なにが、と朝美は小首を傾げる。

「なんてーか、こう……………。……まあいいや。俺、朝美先輩の事やっぱり好きッス」
「あれ、教えてくれないの?」
「大したコトじゃないッスもん。それより先輩、またテニス部とかちょくちょく来てくださいよ」
「うん、行くよ」

意外とアッサリ、何の気兼ねもなくそう言われて、赤也は少し呆ける。
しかし「赤也君に、英語教えなきゃだからね」と付け足されれば、げっ、と眉をひそめた。

そしてすぐに、二人して笑い合う。
まるで、告白など無かったかのように。



「先輩!俺、絶対先輩に惚れさせてみせますから!覚悟しといてくださいよー?」
「うん。カッコよくなる赤也君、期待しとくね」

笑いあい、ただの先輩と後輩の様に会話しながら二人はテニスコートへと向かう。
と、建物の蔭からひょっこり現れた人影。

「何を期待しとるって?」

仁王君、と朝美。
あっ、と声をあげた赤也は、仁王から朝美をガードするように立ちふさがる。

「だめッスよ!仁王先輩は、朝美先輩の半径三メートル、近寄るの禁止!」
「あ、赤也君?」
「なんじゃ、変な番犬がついたのう」

そう言うと仁王は、赤也をからかうようにその額をつっつく。
対する赤也は、不満げに唇を尖らせると、誘拐とかマジ止めてくださいよね、と眉根を寄せる。

「もうせんわい。だいたい、昨日こっぴどくフられたしのう。……っちゅうか、お前もフられたクチじゃろうに」
「うっ……」
「そうじゃろう、そうじゃろう。ワシは昨日、ちゃーんと『お友達から』って約束したきに」
「ええっ!?ほんとッスか、朝美先輩!?さっき断ったって……!」
「言ってない言ってない!『お友達なら大歓迎』って言っただけだよ……」

「もう、仁王君」とたしなめる朝美。
「赤也は可愛いからからかいたくなるんじゃ」と笑う仁王。
「心臓に悪いッスよ……」と苦い表情をする赤也。

仁王先輩置いて行きましょう、と朝美の腕を赤也が引っ張る。
走り出す赤也――それは、昨日の仁王のマネのつもりなのだろう――に合わせて、赤也君、と慌てた声をあげて走り出す朝美。

「あっ、後でね、仁王君!」
「プリッ」

振り返る朝美に、仁王はそう冗談めかして返す。
交わした視線は『いつも』のそれだったが、それでも昨日までの『いつも』とほんの少し違っているのはお互いだけの秘密。



青空を、鳥が横切る。
雲ひとつない空は、どこまでも澄んで美しかった。




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