その日、仁王は一度も朝美の姿を見かけなかった。
その日は朝美のクラスは移動教室があって下の渡り廊下を朝美も通る筈であるのに、何故かその日は彼女の姿が何処にも無く、はて、と仁王は思う。

この間指に口づけたのを彼女が怒ったとき、それを仁王は謝っていなかった。
彼女と視線があった事は無いが、渡り廊下を通る彼女を仁王が見ているのに朝美が気付いていないとは思えない。
一瞬、見ているのを知っているから通る場所を変えたのだろうかと思ったが、朝美に限ってそれは無いと仁王は思い直した。
勿論あの渡り廊下を通らなくても目的地へ行く事は出来るが、彼女はそこまで、というよりも仁王の前での顔を学校に持ち込んでくる事は絶対に有り得ない。

(じゃとすると、休みか)

カゼでもひいたのだろうか、と思った。
最近急に肌寒くなった事と、彼女の生活習慣を考えれば無い話では無い。
あれで意外と、朝美は朝から夜まで毎日忙しい。


そう思って、仁王は朝美の家に向かった。
連絡は入れていない。どうせ家にいるのだからと思って、いつものように足を運んだ。
しかしインターホンを押してみても彼女が出てくることは無く、仕方なく出てくる人間とすれ違って中に入れば、彼女の家のドアの前で出くわしたのは全身黒を身に纏った彼女の姿だった。

「……」
「……」

お互いに無言で、視線を合わせる。
テニスバッグで仁王だと解ったらしい朝美は一瞬睨みつけたが、小さく溜息をついたかと思うと開いたドアに「どうぞ」と仁王を招き入れる。



「葬式か?」

開口一番、仁王はそう尋ねた。
朝美は、「三回忌」と短く告げて、顔でリビングの横にある小さな部屋を示す。そこは、彼女の母の写真が置いてあった部屋だった。

はい、と仁王の目の前にコップが置かれた。
ふと香るのは線香の匂いに相違なく、その香りを纏って朝美は奥の部屋へと足を向けた。
着替えてくるからと言われて、はあ、と仁王は曖昧に返事をする。

することもなく、仁王は部屋を見回す。
常に、ではあるが朝美の部屋に入るのは久々だった。
しかし今回は、見回してもいつもなら何ら変わることのないその部屋の変化が、ふと目に止まった。

ソファの横に立てかけるように置かれた紙袋。
中に詰められていた本を手に取って見れば、それは所謂『学習参考書』だった。

何のために、と仁王は思う。
立海大は大学附属で、そのままエスカレーターで入るとするなら、今の朝美の学力は何ら問題ない。
何処か外部へ進学するのだろうかとも思ったが、彼女の考え方や経済的な事を考えればそれも有り得ない。
では何故。そう思っていると、向こうの方で扉の開く音と足音が聞こえた。

顔を上げると、着替えた朝美が見えた。
着替えるの早かね、と告げれば、別に、といつもと変わりのない返答。

「これ、なして?」

キッチンへ向かおうとする朝美に、手にした参考書を掲げて尋ねた。
朝美はそちらへ目をやると、ああ、と頷いて口を開く。

「暫く、会えなくなるから」
「は?」
「だから、冬くらいまで暫く会えないから」
「え、いや、話が見えんのじゃけど」

明らかに、間に入るべき会話を朝美は端折っていた。
そのせいで全く意味が解らない仁王は、それで会話を終わらせようとする朝美にストップをかける。
朝美は、面倒くさそうに息を吐いた。

「奨学金制度。お金返さないでいいのは、ハードル高いのよ」
「ああ……」

「それ、端折ったら話通じんぞ」と言う言葉を心の中に引っ込めて、仁王は納得の声をあげた。
確かに、彼女の経済状況なら奨学金も取れる。しかし、奨学金は通常『貰える』ものではなくて『借りる』ものだ。
いずれは返さなくてはいけないものが多い中でいくつかある『貰える』タイプの奨学金は、その金額が高いものほど成績審査のハードルが高い。

「暫く集中したいから。だから、会えない」
「……ん」

驚く程あっさりと、了承の返事が自分の口から出たことに、仁王は内心首を傾げた。
それは朝美も同じだったらしく、彼女が一瞬目を僅かに丸くしたのを見逃さずに「どうかしたんか」と尋ねると、しかし彼女は「別に」と平静として返した。



「なあ、聞いてよか?」

パスタを巻く手を止めて仁王が尋ねると、朝美は顔をあげる。
何、と口を開く彼女に、前に聞き損ねたあの事を仁王は口にした。

「二重人格、やっとる理由」

それを聞くと朝美は、溜息に似た息をついた。
仁王はそれを聞いて、またはぐらかされるのだろうか、と視線を朝美にやる。
肩を下げて後ろへ体重を掛けて座った彼女は、そんな仁王の視線に気付くと、くす、と笑った。

「冗談冗談、教えるって」

そう言って笑うと朝美は座り直して、ついた両肘に顎を乗せる。

「そもそも私の母親って、ロマンチストな上に自分に正直な人でね」

いきなり母親の話をし始めた朝美に、仁王は僅かばかり面食らう。
それに気付いた朝美は、前置きとして必要だから、と付け足すと話を続けた。

「一目惚れした男に遊ばれて、それを知っても私を生んで、生活に窮しても一目惚れした男がいつか帰ってくるからって思い続けて頑張って、結婚したいって言ってくれる人まで足蹴にして、最後には車に轢かれてあっけなく死んじゃうような人だったの」

あの頃は本当に苦しかったわ、と朝美は、しかし何処か平然として息をついた。
父親のいない貧乏な子供に向けられる目など決まっているもので、学校の子とも近所との折り合いも上手くいかず、向けられるのは同情か差別の目。
自分もそれに外れず、酷い子供時代だった、と朝美は話した。

「食べるものも着るものも、生活費切り詰めながら必死に暮らすの。それでもあの人にも、それを我慢してた私にも、幸せは訪れなかった」

それってすごく不幸だと思わない、と朝美は自嘲気味に笑った。
そして、だから私は決めたの、と口を開く。

「大人になったら、絶対に幸せになってやるんだ、ってね」

食べるものにも着るものにも困らない生活。
生活を保障してくれる人間が隣にいて、誰からも同情も卑下もされない生活。
大人になったらそういう生活をすると決めたのだ、と朝美は言った。

「それで、仁王君の質問の解答に入るけど」

やっと本題かと思いながら、ああ、と仁王は僅かに身を乗り出した。
立てた人差し指を仁王に向けて差すと、朝美はそもそも、と告げる。

「人には大抵、『理想の異性像』ってのがあるじゃない?」

仁王君だってあるでしょ、と朝美が言うのに、仁王はまあの、と頷く。

「だけど、理想の異性なんて早々いるもんじゃない。その理由は、あげる理想の潜在意識におけるハードルが高いから。で、そうやって高すぎるハードルを誰もが跳べないでいると、人って『仕方ない』ってそれを下げるのよ」

要するに、妥協するの。目を細めて笑みを浮かべながら、朝美は言った。
確かにの、と仁王は頷いて先を促す。

「理想、っていうのはそもそも、標準があってこそ成り立つの。標準より上のレベル、標準の一部分が突出したもの、個人個人で差違はあれど、標準がもとになってるのは一緒」
「成る程」

そこまで聞いて、仁王は心得た。
朝美の言葉に続けるようにして、口を開く。

「つまり、標準の上の上におるお前さんは、下げたハードル全てに引っかかってくるわけじゃな」
「理解が早くて助かるわ」

そう言って、朝美は笑んだ。

「高校生での出会いなんて、それが将来に続く確立はたかが知れてる。第一、高校時代に出会った人間が将来どうなるかなんて解らないじゃない?」

将来落ちぶれるかも知れない。
逆に将来、未来を約束されるような位置につくかもしれない。
高校生といっても、人生はその先の方が長いのだ。
勿論、【大人】になってからでもそれは変わらないのだが、安定感が違う。

「今っていう時は、私にとって将来への保険の一つに過ぎないの。今の印象が良ければ、将来誰かが下げたハードルに引っかかりやすいからね」

望むのは、何にも困らない安定した生活。その為の演技。誰にも嫌われない女の子は、誰からも好かれる女の子と言う事。
今はそういう感情が無くとも、社会に出て再び会えば、確実にそれは深い好意に変えられる。
朝美はそう言ってから、これが私の計画、と言葉をしめた。

何かの小説のようだ、と仁王は思った。
誰にも嫌われない為に笑顔を振りまく少女の話を、ずっと昔に読んだことを仁王は思い出す。
それを思い出した仁王はふと、心にも無いことを、つまりは、その小説に出てきた、将来そのヒロインと結ばれる少年が放った一言を、自らも口にした。

「お前さんは、それでええのんか」

思ってもいないことに頷いて、笑って。
そうして嘘をついてまで好かれて楽しいのか。それで幸せなのか。
そう尋ねると目の前の朝美は少し驚いたように目を見張って、それから眉を顰めた。

「私の幸せは、安定した生活なの。自分に正直に生きる事じゃないのよ」

まさか貴方の口からそんな言葉を聞くなんてね、と残念そうに朝美は溜息をついた。
仁王はそれを聞いて、小説の台詞を言うたまでじゃ、とすぐに返す。
素敵な小説ね、と朝美は言った。




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