かくして、仁王にとって短い夏は終わった。 勿論、あの少女との関係はまだ終わっておらず、今さっき「おやすみ」と最後のメールを送った携帯を閉じて枕元に置く。 が、ふと思い出して再び携帯を開いた。 暗い室内でぼんやり光る携帯のボタンを操ってメール画面を呼び出す。 送信履歴を辿れば、その名前はもう大分下にあって、「ああ、そうか」と仁王は思った。 夏休みの間中、一度も朝美にメールを送っていなかった。無論、電話もしていない。 彼女が、「ヒマがない」と言っていたのは確かに一因だったが、それ以前にそうしようという気が全く起きなかったからだ。 あの日、遊園地でバッタリと出くわした日に限っては、夜になってからふとメールを送ろうとしたのだが、それも結局文面が思いつかずに止めたのだ。 書こうと思う事は、頭の中にあったというのに。 今もそうだった。 メールの画面は白いまま、打ち込む言葉が見つからない。書きたいことは、決まっているというのに。 そのうちバックライトが消灯して、部屋の灯りも消える。 上げていた腕を脱力させると、仁王は天井を仰いだ。 暫くそのままの状態でぼんやりと見上げて、ふう、と息をつくと再び腕を上げる。 携帯の画面が、再び明るくなる。 そこへゆっくりと文字を打ち込むと、仁王は送信ボタンを押した。 *** 意外にもアッサリ返ってきた返信に、仁王は一瞬呆気にとられた。 頭をがしがしと掻いて携帯を手に取ると、文面に息をつく。 『明日は無理だけど、明後日ならいい』 他に文字は無かった。 問うたのはそれだけなのだから当然なのだが、久々のメールだというのにあまりにも簡素な返信に苦笑すら零れる。 もちろん、仁王自身も『明日はどうじゃ』と一行だけで送信したのだが。 始業式から一日を経て、久方ぶりのその日はやって来た。 今日は帰りに用があるから先に帰るように少女に告げて、それじゃあまた、と疑う素振りも見せずニッコリと笑う彼女に手を振った。 夏休みの間に、抱きしめて手を繋いでキスをした。 大会が終わったあとの少ない時間を、全て恋人たるあの少女との為に使っていた。 周りからは『ベタ惚れ』だと称されて、自分もその評価を特に間違っていると感じる事は無かったし、実際はどうあれ否定する気も無かった。 しかし、それより上へレーティングを進めることは――つまりは、家へ呼ぶだとか呼ばれるだとか、そこで体を重ねるだとか――それは何故か、いつまでたっても不可侵領域なのだという漠然とした感覚が仁王にはあった。 ゲームのコマを進めるように、仁王は朝美のもとへ辿り着く。 いつもの様に辿り着いて、ドアを閉めた途端の冷めた色をした目。 『久しぶりだ』などと思いながらそれと視線を合わせれば、皮肉気な笑みをちらりと溢し踵を返して、リビングへと進む朝美が発したのは思いもかけない言葉だった。 「あの女の子、可愛いわね」 笑うような声で発せられたその言葉に、仁王は驚いた。 朝美が自分から仁王のプライベートな部分、特に人間関係につっこんでくることは今まで無かった。 もちろん、こうして二人きりの回数が少ないことも関係しているだろう。 しかしそうでなくとも、朝美は元来他人にあまり興味がない質のようで、二人で部屋にいても仁王から話かけなければいつまでも黙々と自身の作業をやっているような人間なのだ。 そんな彼女が、あの少女の事を持ち出してくるとは。 目をぱちくりとさせて立ち止まれば、返答の無い仁王に不思議そうに眉根を寄せて、どうしたの、と朝美は振り返った。 「いや……お前さんがそんな事聞くん、珍しい思うての」 「私にだって気になる事くらいあるわよ。今までずっとフリーだったくせに、『あの仁王君に本命出来てベタ惚れなんだって』って噂になってるんだもの」 どこか小馬鹿にするように笑って、朝美は再び足を進めた。 仁王もそれに続いていつものようにソファに腰を沈めると、いつもと違ってしっくり来ないそれに首を捻る。 「で、本命なの?」 「は?」 「こないだ遊園地で見た子。本気なの?」 「なして」 そんな事を聞くのか、と仁王は問うた。 朝美がここまでつっこんでくるなど、本当に珍しい事だったのだ。 いつもと違って深く問いこみながらも、その言葉の奥に話の早急な完結を望む意を込めて。 そうして紡がれる言葉に予感を覚えながらも返答を待つ仁王に、朝美は背を向けたまま言葉を投げた。 「もう、うちに来ないでほしいから」 本気なら、ね。 そう言った朝美の背中を見つめたまま、仁王は言葉を発しなかった。 そんな仁王へ、請われるでもなく発した朝美の理由は至極納得出来るもので、『面倒事に巻き込まれたくない』だった。 最後まで突き通せる嘘など、そうそう無い。 自分一人だけについている嘘ならそれも可能だろうけれど。 「修羅場の原因にされるのは御免だわ」 苦笑混じりの口調で、朝美はそう言った。 仁王は黙り込んだまま、首を前に向ける。視線を何処へやるともなく漂わせて、いつものように背後の音を聞いていた。 耳をつんざくような音は、うとうとしはじめた時に聞こえた。 ハッと目をあけて振り向けば、食器棚の近くで朝美が軽く手を挙げて下を見下ろしているのが見えた。 見張った視線の先には、砕け散ったコップと思しきもの。 スッと屈んだ朝美はそこへ手を伸ばし、仁王があっと思った瞬間パッとその手を引いた。 アホ、と叫ぶように発してソファからぱっと腰をあげる。 普段は特に意識もしないで一度脱いだら脱ぎっぱなしのスリッパを履くと、近寄って腰を屈める。 「割れたガラスに素手で手伸ばすアホが、何処におるんじゃ」 「……」 仁王が窘めれば、朝美は唇を噛んで悔しげに顔を顰めた。 抑えた右手の、人差し指から鮮やかな赤をした血がすうっと溢れて指を伝う。 それを見た仁王の頭に、何かが浮かんだ。こぼれ落ちる赤色が、その衝動を叶えてしまえと告げる。 貸しんしゃい、と朝美の手を取ると仁王は赤い指を自身の口に含んだ。 朝美がはっと息を飲むのが僅かに聞こえるのも、驚いて腕を退こうとするのも無視してしっかりと掴むと、鉄の味のするそれを吸い上げる。 朝美が一度、大きくゆっくりと呼吸する。傷口をぺろ、と舐めて「もう大丈夫じゃ」と返せばその手が大きく仁王の手を振るって、次の瞬間、仁王の頬に衝撃が走った。 一瞬状況が把握出来なくて、ただ力に沿って食器棚の方を向いたまま仁王は目をまたたく。 叩かれたか、と思ったのは少ししてからで、じんじんと痛み出す頬にしかし『真田といい勝負だ』などと冷静にも考えてみたりする自分がいるのことに気付いて、仁王は内心で呆れたように笑った。 朝美は、ただ仁王を睨んでいるだけだった。 その目に込められている感情が読めずに、仁王は閉口する。 朝美は、なにも言わなかった。 ただ諦めたように視線を外すと、無言のまま立ち上がって自身の作業を再開する。 「これ、片付けは」 「そのままでいい」 仁王の厚意とも言える言葉につっぱねて返すと、朝美は流しの水を勢いよく流した。 |