「阿部」
「おー」
「今日どこだっけ」
「5Fの自習室」
「阿部準備オセー」
「水谷ウゼー、先行きゃいいだろ」

部活の無い、テスト期間の放課後。
赤点を回避せねばならない部員を抱える野球部員たちが向かうのは、部員総出の勉強会。

同じクラスだからと阿部や水谷と連れ立って行く道すがら、ふと阿部の隣の席にまだ座って帰る準備をしている菜々美に花井は気付く。

『フツーに幼馴染!家が向かいにあんの』

それを聞いてゴールデンウィークが明けてからというもの、菜々美のことを何となく気にしてちらちらと変に思われない程度に見ていた。

花井の目に映る相沢菜々美という人間は、とにかく大人しい女生徒だった。
何もなければ一日中、教室の隅でじっとしている。
ただ、寂しそうだとか、愉しそうな周囲を見て羨ましがっているとか、混ざりたそうだとか、そういった雰囲気は感じない。ひたすら小さくなって、息を潜めて、陰を薄くして、そうすることで人と関わるのを、というよりも人の意識に入るのを極端に避けているように感じた。
自分の周りの世界に、必要以上に怯えているように感じた。

(田島とは正反対だな……)

見れば見るほど田島とは正反対で、誰かと言えば三橋に似ていた。
こちらが何もしないうちから怯えてびくびくしている様子は、野球部のグランドで初めて出会った時の三橋によく似ている。

(まぁでも、だから田島とは上手くやれてんのかね)

と思いつつも田島と菜々美が上手くやれているのかは知らないし、田島と彼女が話しているのも見たことはないが、普段の田島と三橋のやりとりからなんとなく想像する。尻ごみをする菜々美を、ぐいぐい引っ張っていく田島の姿はなんとなく予想がついた。

(けどそしたら、昔からだろ?こんな今でもビクビクすっかな……)

田島がちょくちょく架け橋になるおかげで、三橋はクラスにも馴染めているし当初の印象よりは明るくなっている。
ならそれより前から田島と一緒にいる菜々美だって、もう少しどうにかなっていそうな気もするが。

(そういや、田島がウチのクラス来たことねえな)

合わせて、田島が合宿の時に菜々美が自身の幼馴染であることを告げるのを一瞬躊躇したことを思い出す。

(もしかして、相沢のことを避けてんのか?)

田島が?まさか。
一瞬思いついた考えを、即座に否定する。男女の幼馴染が成長するごとに恥ずかしくなって距離を置くことはよくある話だが、花井の知る限り田島に限ってそれはない。

(ということは、避けてんのは相沢か。っつーか、だとしたらアイツもちゃんと空気は読めるんだな……)

意外だ、と想像の結果に勝手に驚く花井の背中を、ふと誰かがつんつんとつついた。
花井、と潜めた声で名前を呼ばれる方へ向けば、そこに居たのは水谷。心底気まずそうな表情を浮かべた水谷に、なに、と尋ねれば、なにって、と水谷は「わかってないのか」とでもいった風に口を開く。

「なにさっきから、相沢さんのこと睨みつけてんの?めっちゃビビッてるよ、相沢さん」
「は?別に睨ん――」

「睨んでいない」と言いかけて、はたと花井は気付く。

睨んではいない。確かに、全く睨んではいなかった。ただ、ひたすら凝視していたように思う。
確信は無いがそういえば阿部の準備が待つ間、意識を目の前の相沢菜々美という女子に向けていたような気がする。

百歩譲って睨んでいなかったと認められたとしても、おそらく凝視はしていた。それに気づいた瞬間、サアッと顔から血の気が引いたと見せかけて次の瞬間に熱が上る。

一方、当の菜々美はと言えば完全に手が止まっていた。
もとい、動いたら殺されるとでも言わんばかりに、全身を硬直させていた。顔を俯かせて、ひたすら石のように固まっている。表情はうかがえないが、田島の言葉を借りるのであればきっと「死にそうな顔」をしているのだろう。

「え、えーと……ごめんね、相沢さん!」
「ッ!」

思わず黙り込んでしまった花井の代わりに、場を和ませようと明るい声を出しつつ、水谷が謝りながらその視線を菜々美に合わせるようにしゃがみこむ。しかし和むどころか肩をびくりと大きく震わせた菜々美は、息を急激に吸い込むように「ヒッ」と、ごく小さな風の音を鳴らした。
小さな小さな悲鳴に、女子にそんな反応をこれまでされてきたことのない水谷は、内心傷つきながら苦笑を浮かべて「ご、ごめん、驚かせて……」としどろもどろに再び謝る。

「あ、あの……えと、私、も……ごめん、なさい」

その『ごめんなさい』は、恐らく水谷に向けられたものだろう。
視線は全く向いていないが、かろうじて顔が水谷に向けて上げられている。

顔を上げてようやく見えた菜々美の顔は、見るからに怯えていた。
机の上で重ねられた手は、上の手がずっと下の手の甲を不安げにいじっている。

「ほら、花井も」

控えた声で、しゃがみこんだままの水谷が肘で花井の脚をつつく。
それでようやく、花井はそもそもの原因を思い出した。

「あー…その、ごめん。睨んでたわけじゃなくって、ただちょっと見てただけっつーか、その……」

ちゃんと謝れよ、とひそひそ声を下から寄越す水谷に、うっせ、と同じく声をひそめて返せば、そのやりとりにも菜々美の表情が緊張に固まるのが分かって、二人は同時に「しまった」とばかりに表情を強張らせた。

「っつーか、オレ先行っていいか」

二人の背後からそう声をかけたのは、先刻から一人待たされていた阿部だった。
助け舟というには及ばないが、それでも場を切るきっかけには十分だ。

そうだったそうだった、と天からの助けとでも言わんばかりに口にして立ち上がる水谷。
対して花井はホッとしながらも、やはり、と思い直して再び菜々美に向き直る。

「えーと、相沢さん。さっきは、ほんとごめん」

そう告げれば、「いえ、あの、べつに……」と蚊の鳴くような声が返ってきた。
視線は相変わらず花井の方には向かず、下へ下へとひたすら下げられている。それを見ながら、緊張にごくりと喉を鳴らすと「で、あの」と花井は言葉をつづけた。

「オレら、これから上の自習室で野球部みんな集まってテスト勉強するんだけど、良かったら相沢さんも来ないかな、って……。その、田島も、いるし……」

田島、という単語にぴくりと菜々美が反応する。
しかし花井の問いから少し間を置いて一瞬開かれた口は、やっぱりダメ、とでもいうようにキュッと閉じられた。

「……あ、の…私、家の手伝い、が、あるので……ごめんなさい…」

結局、震えた声が紡いだのは『NO』だった。
出来るだけ気にしない風に見えるよう気を付けて「そっか。それじゃまた明日」と花井は言葉を落とすと、なにを余計なことをしてるんだ、と言わんばかりの顔をしている水谷を連れてその場を後にした。(阿部は焦れたのか、先に教室を出てしまっていた)

「はー、もォ。花井のせいで冷や汗かいたー。っていうか、マジでなんで睨んでたの」
「睨んでねえっつの!イロイロ考えてたんだよ」
「ナニソレ。あっ!もしかして、セーシュン的な話?」
「ちげえ!そうじゃなくて、なんつーかだな……ほら、田島と三橋ってよく居んだろ」

唐突に田島と三橋を持ち出した花井に、水谷は疑問符をだしながら頷く。
話し始めた花井も、今更ながらに何故自分がそんなことを気にしているのかと疑問に思いつつ、それでも話を続けた。

「三橋と相沢さ、結構似てんじゃん?」
「あー、わかる!阿倍にビクビクしてるのとかチョー似て……!……チョー似てる……」

合点に指した水谷の人差し指が、先ほどの自分に怯えた菜々美の姿を思い出して、しゅんと力を無くす。
気落ちしているレフトのフォローはなおざりに、花井は二の句をつぐ。

「三橋はさ、なんだかんだで結構すぐオレ達には慣れただろ?クラスの奴らのことも平気っぽいし。でも相沢はあの通りだろ?だから、なんでだってちょっと疑問に思っただけだよ」

「ほらもう、早く行こうぜ」と言いながら振り向けば、花井の目に映ったのは足を止めている水谷。
その顔は苦笑のような、おかしすぎて今にも吹き出しそうな、そんな何とも言えない表情をしている。なに、と怪訝に眉をしかめて尋ねれば、オレさ、と水谷は口を開く。

「花井のこと、ぶっちゃけなんとなく『っぽいなー』と思ってキャプテンに推したけどさ。今なんか、ものスゲ納得したよ……」
「はァ?なんだよそれ、」
「いやいや、花井キャプテンで良かったって話。ってか、マジで急ごうぜー」

一人けらけら笑いながら、階段を駆け上がる水谷を花井は追う。
自習室にたどり着けば、「相沢を睨んでた」と阿部によって報告された田島によって二人が最初の3分間、妙にしつこく言及されたのは言うまでもない。

***

「ハァ……」

大きなため息が、室内に響く。
進まない問題集を前にシャーペンをテーブルに転がすと、菜々美はごろりと仰向けに寝転がった。

「あー、もう……。意気地なし……」

力無くそう呟いて、ため息をもう一つ。
テスト前にも関わらず課題に身が入らないのは、今日の放課後の事が後悔として心に残って仕方がないからだった。

(せっかく誘ってくれたのを断っちゃうし、水谷君には謝らせちゃうし……)

両手で顔を覆うと、三つ目のため息がこぼれた。

水谷も花井も、彼らが、もとい田島が所属する野球部の面々も、怖くないことは分かっている。
それは分かっているのだが、それでも心の奥底の恐怖心が彼らを拒否してしまう。

言葉を交わして、接して、その結果どう思われるのかが怖い。
喋り方で、仕草で、相手に不快感を与えてしまうのが怖い。
田島が隣にいれば、それが少し平気になった。何かあれば、いつでも田島がフォローしてくれるからだ。

けれど中学の三年間を終えて、それに甘えることも他人からの不興を買うことを知った。
特に、同性よりも異性と深く関わることは、同性の不興を強く買うことを知った。

『あの子さぁ、田島君の幼馴染だからって調子に乗ってるよね』
『こっち何もしてないのにびくびくしてさあ。あのブリッ子マジうざいわ』
『あたしらがちょっとハブッたら、案の定、男子にこびまくってさあ』
『田島君も、よくあんなのに付き合うよねー』
『っていうかあたし、こないだ杉原に「お前、相沢にもうちょっと優しくしてやれよ」とか言われてさあ。してるっつーの!あっちが勝手にビビッてんだっての!』
『うーわ、マジそれサイアク。男子だまされすぎ』

不意に中学の頃に聞いてしまった女生徒たちの会話を思い出して、菜々美は騒ぎ出す胸を押さえる。
ゆっくりと息を吸って震える呼吸を整えると、傍にあったクッションに顔をうずめた。

今の自分が、このままで居ては駄目なことは、自分でも理解していた。
しかしそれ以上に、怖いのだ。

(怖い。誰かに嫌な思いさせるのも、自分が嫌な奴に思われるのも、なにもかも)

その怖さが先立って、どうしても前へ進めない。
自分からは、一歩も動けない。
だからといって、田島を頼るわけにもいかない。

結果、誰とも関わらないようにひっそりと学校生活を送ることにした。

(だから、それじゃあダメなんだってば……)

ぐるぐると堂々巡りをつづけながら、クッションを握りしめる。
丁度その時、机の上の携帯が夕食の準備の時間をつげるアラームを鳴らした。

重い体を起こすとアラームを止めて、菜々美は四つ目のため息をついた。

***

「悠くん、ここ。係数も2乗するの忘れてる。あとここは、マイナスマイナスだからプラスに変わるよ」
「ぐっ……」

夕食を終えて、普段は二人でのんびり談笑している時間は、テスト期間ともなれば勉強の時間に変わった。

難しそうに眉根を寄せて唇を尖らせると、小さく唸りながら消しゴムを片手に問題集に向かう田島。
対して学業面に今のところ不安の無い菜々美は、早々に課題を終えて田島の教師役に徹していた。

野球においては天才的な能力を発揮する田島は、それを離れると途端に理解力が下がる。
そんな田島に根気強く教える傍ら、ちらりと時計に目をやった菜々美は、勉強を始めてから一時間経っていることに気付くと、携帯のアラームをセットして「ちょっと休憩しよっか」と声をかけた。

「は〜〜〜〜、疲れた!!!!」
「お疲れ様」

クッションを下敷きにして勢いよく仰向けになる田島に、菜々美はにこりと笑いかける。

「基本さえ押さえればだいたい半分はとれるから、とりあえず今日は数学をもうちょっとガンバろっか。明日は、英語やろうね」
「んー」

気乗りのしない返事をしながら、寝返りを打った田島はクッションへ顔をうずめた。
がんばれがんばれ、と菜々美はくすくす笑いながら、そんな田島の頭をぽんぽんと優しく叩く。

「テスト、赤点とらなかったら何かご褒美あげよっか」
「! ゴホービ!!」

『ご褒美』の言葉に反応して、田島がうずめていた顔をがばりと上げた。
その勢いとキラキラ輝く目に思わず条件反射で少しのけぞりながらも、「そう、ご褒美」と菜々美は頷いて続ける。

「私ができる範囲で、なんでも。どうかな、やる気出た?」
「めっちゃ出た!おっしゃー、ゲンミツに赤点回避!!!」

ぐんっと起き上がると拳を突き上げて宣言した田島を見て、よかった、と笑う。
そんな菜々美へ、不意に田島が何か言いたそうに視線を寄越すのに気付くと、菜々美は首を傾げた。
「何がほしいか決まった?」と告げるも、「いや、そうじゃなくってさァ」と返した田島は、言いにくそうに唇を尖らせる。

「……菜々美さあ」
「ん?」
「なんで今日、花井が誘ったのに来なかったの?」

瞬間、菜々美の表情が固まった。
それを見た田島の表情も、言ったことを後悔するような、一方で不満を押し込めたような、なんとも言えない表情に変わった。
自然、菜々美の視線は田島から逸れて下へと落ちる。

「だっ…だって、し、知らない人、いるし……」
「俺がいるじゃん」
「……ご、ごめん……」
「……なんの『ごめん』?」

そう問われて、菜々美は答えられなかった。
黙り込んで下を向きながらも、つむじに田島の重い視線を感じる。

「……――」

田島が何か言おうと息を吸う。
身構えて、視線を下に落としたまま菜々美が唇をきゅっと噛む。

アラームが鳴ったのは、ちょうどその時だった。

「……あ……」

田島の視線を避けながら菜々美が携帯に手を伸ばしてアラームを止めるのと同時に、「よッし!」と田島が気合の入った声をあげる。

「菜々美、次ココ!」
「えっ?」

先ほどの問いも、流れた気まずい空気も無かったもののように声をあげる田島に、菜々美は拍子抜けして目をぱちぱちと瞬いた。
そんな菜々美のことなど気にするそぶりもなく、田島は問題集の問いを指さす。

「ここ!解き方がさー、よく意味わかんない」
「う、うん、ちょっと待って、見るから……」

少し気おくれしながらも、菜々美は問題集を覗き込む。

(……悠くん、なに言おうとしてたんだろう)

つつがなく再開された勉強会。
田島が問題を解くのを見守りながら、心の隅で菜々美はアラームがなる瞬間に田島が言おうとしていた『何か』をひそりと気にする。

けれど、結局聞くことは無かった。
あのやりとりを蒸し返してまで問いたくはないし、十中八九、聞いたところで自分が返答に困る内容だ。

(甘えてるなあ、私)

田島の優しさに甘えて、成長の無い自分に菜々美は胸を痛ませる。

(ごめんね、悠くん)

もうちょっとだけ、をあと何年続ける気だろう。
数時間して、携帯のアラームが0時を告げる。

今日の勉強会は、これにてお開き。
玄関まで見送って、「また明日な」と笑う田島へ「うん、また明日ね」と菜々美は手を振る。

そして、玄関の扉が閉まったのを確認してから一際深いため息をついた。




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