ふと仁王が気付いたときには、初めて朝美の家で食事をしてから二週間ほど経っていた。 考えても見れば、学校に来てしまえば彼女との接点は無いに等しいうえ、声をかけようにも常に周りに誰かが居る彼女には近付く事すら難しい。 マンションの前で待っていても良いが、それだと色々面倒くさい事になる事も予想される。 「ケー番くらい聞いとくべきじゃったの……」 「は?」 「いや、こっちの話」 呟いた言葉に首をかしげた丸井へそう返すと、気怠げに小さな息をつく。そして、そう言えば朝美の教室はあの辺か、と校舎の方へふと目をやった時だった。 窓際にいる誰かに気付いて、こんな時間に、と思った次の瞬間「あっ」と仁王は思った。 ――朝美だ。 それに気付いた途端、意識はずっとそちらへ向けていた。 しかしあくまで冷静を装って、休憩時間に入ると汗を拭きドリンクを口に含み、呼吸を整えると時間が余っているのを確認すると、仁王は教室へ向かう。 そして、そっと中をうかがって、彼女以外に教室に人がいないことと、同じフロアに誰も居ない事を確認すると、笑みを浮かべて顔を出した。 「藤沢サン」 呼びかけると、分厚い本をかたわらにノートへ書き付けていた彼女は顔を上げ、仁王の方へ顔を向けた。 それから、仁王君、と少し驚いたように口にすると、部活?と微笑んで尋ねる。 「そ、部活。休憩時間まで真田のムサ苦しい顔見るんが嫌で、抜け出して来たんじゃ。藤沢サンは、勉強?」 「うん。なんだかんだで、もうすぐテストでしょ?」 台本のような台詞回しに、仁王は笑い出しそうになるのを抑える。 まるで、ドラマか何かを演じているようだと思いながらも、次の言葉を放った。 「もうすぐ、って。まだ二週間以上も先の事じゃろ?」 「そうなんだけどね。でも、今日はバイトも何も無いし、母さん達も出かけてるから、ご飯も自分で作らなきゃだし」 家に帰ってもダレちゃうだけなんだよね、と苦笑する朝美。それにピンと来たのは仁王で、なるほど、と内心で納得し頷いて、しかし念のため確認を取るべく口を開く。 「ほう、自分で作るんか。んで、今日のメシは何にすうつもりと?」 「うーん……あっ、そうだ」 仁王君だったら、何が食べたい? そう尋ねた朝美に、仁王は推測の域だったものを完璧なる確信に変える。やはり彼女は「待っていて」くれたのだと。 「そうじゃなあ。今日は喰うとしたら、チャーハンじゃな」 「チャーハン、か。いいね、それもらった!」 そう言って朝美はニッコリと笑って。 その完璧な笑顔は、さて何処から出てくるものかと、見ているのが彼女だけであるのを良いことに、仁王は皮肉気な笑みを浮かべる。 「そいだら俺は、もう一頑張りしてくるかのー。藤沢サンも、勉強頑張れや」 「うん、ありがとう。頑張ってね、仁王君」 手を振る彼女にひょいと手を挙げて返し、仁王はテニスコートへと歩みを進める。 初めての体験に、自然と頬が緩んだ。 あんな会話は、未だかつてした事がない。『新鮮だ』と思うと共に『意外と面白いものだな』と、その目には嬉々とした色を浮かべる。 それは自分が思っている以上に表情に表れていたらしく、おかげでコートに帰れば丸井に「ゲッ、仁王がキモイ笑い方してる」と言われ、柳生には「また何か変なことでも企んでいるんですか」と呆れたように言われる始末。 しかし仁王の頭の中は、すでに先程取り付けた約束の事でいっぱいだった。 *** テニスバッグに、部室のロッカーの中へ放り込んでいた変装道具をいくつかコッソリ詰め込むと、仁王は挨拶もおざなりに駐輪場向かい自転車に乗ってマンションへ向かう。 朝美が帰っていくのは、部活の途中にしっかりと確認した。 たまたまフェンスの傍に居た柳に何やら話しかけて「それじゃあね」と手を振れば、後方に居た赤也とその隣に居た自身へも手を振って、その場を後にした。 公園の公衆トイレで変装し、再び自転車を走らせる。 マンションにつくと、周囲に人がいないのを確認してからオートロックのボタンを押して朝美の部屋番号を入力する。 ありきたりなインターホンの音に暫く待てば、はい、という明るい声に、藤沢ですけど、と朝美の苗字で返してみる。取り付けられたカメラが光るのに目をやれば、すぐに明るい調子で、ちょっと待ってくださいね、と言う言葉が返されてドアが左右に消滅していった。 どうも、と手を軽く挙げると仁王は中に入り、非常階段を上がって三階まで上がる。 エレベーターを使っても構わなかったが、彼女の考え方からすればこっちの方が好まれるだろうと思っての事だ。 目的の部屋番号が書かれたドアの前で立ち止まると、インターホンを押す前にドアが開く。 どうぞ、と笑顔と共に促されれば、お邪魔します、と足を踏み入れ、そして被っていた帽子をヘアウィッグと共に取り去った。 「なあ、ケー番教えてくれん?」 「開口一番それもどうかと思うんだけど……」 ややだらりとした口調でそう告げると、リビングへと向かっていた彼女は呆れた様に返した。 肩越しに向けた顔に笑顔の類は一つもなく、ただ冷めたような色がその目に浮かべられている。 「言うても、失敗したなー、とずっと思っちょったんよ」 「そうでもないでしょ。何だかんだでこの二週間は、私ずっとバイト入ってたし」 「そうなん?忙しいんじゃの」 「まあね」 はいどうぞ、と用意していたらしいお茶をテーブルの上に置いて、座って待ってて、と指示する朝美に仁王は、おう、とソファへ腰を沈める。 いくら、と尋ねれば、500円、と返って来たのにカバンから財布を出してコップの横に硬化を一枚並べた。 「今日は私服なんじゃの」 「時間あったからね」 ふと思い出して、背後の朝美に目をやると、仁王は声をかけた。 袖が七分丈の黒いトップスに無彩色のショートジーンズを合わせたシックなスタイル。普段『女の子』を全力でやっているような彼女からは、容易には想像しがたい。 「普段の様子からじゃ、イメージできない?」 飛んできた声に、仁王は僅かに目を丸くする。 心を読んだかのような絶妙なタイミングで投げかけられたその言葉に、まあの、と返して、でもそれより、と言葉を続ける。 「エプロン姿ってのも、なかなかイイもんじゃな。ピンク色は計算か?」 「さあ、どうだろう?」 ふふ、と笑う声と共に、レタスを刻む音が聞こえてくる。 一定のリズムでゆっくりと刻まれていくその音は妙に耳に心地よく、『このテンポも計算なのだろうか』と思いつつ仁王は耳を傾けて、そしていつしか、そっと目を閉じた。 「……君……仁王君、」 「…………」 呼ばれる声にうっすらと目を開けると、意外と近くにあった朝美の顔をぼんやりと仁王は見つめる。 いつの間に眠っていたのか、と思いながらそのままボンヤリと片手を伸ばして、触れたのは朝美の頬。 思っていた以上に朝美の温度が低いのか、それとも自身の手が熱いのか。 よくは解らなかったが、とにかくも温度差のあるその頬へ熱を移すように手の甲で触れたり首筋に手を移動させたりさせる。 「私は冷却装置じゃないんだけど」 そう言って、「ほら、起きなさい」と朝美に額をノックするようにコンと軽く叩かれれば、照れるかと思っていた彼女の顔に普段通りの冷めた表情が浮かべられているのを見ながら、もうちょい優しゅうしてほしいの、と仁王は苦笑して見せた。 ご飯出来たよ、と告げる朝美の後ろには、湯気を立てるチャーハン。 既製品の様な出来映えに、流石、と溢せば、当たり前、と照れもしない声が返ってきた。 「500円、受け取ったから」 「ああ、うん」 硬化を見せて再びポケットに滑り込ませる朝美に、仁王は頷く。 ずるりとソファから下りてその場へ座り込み、そして、手を合わせた。 |