「柳君、いますか?」 次の日の早朝。 朝練中のテニス部へ顔を出した朝美に、一番初めに反応したのは、声をかけられた柳ではなく、珍しく遅刻しなかった赤也だった。 ぱっと顔を明るくすると、藤沢先輩、と嬉しそうに声を上げて駆け寄っていく赤也に、反対側のコートでサーブを打ち込もうとしていた仁王は手を止めてそちらに目をやる。 「昨日来たのに俺だけ会えなくて、マジへこんでたんスよ!」 「あはは、嬉しいな。今日は英語の予習、ちゃんとやったの?」 「今日はやりました!」 「今日『は』じゃ、ダメだろう?」 子犬か何かの様に――もし彼に尻尾が付いていれば、ちぎれんばかりに振っているのであろう赤也の後ろから、そう言って現れたのは柳。 うおっ、と驚いた声をあげる赤也を放って、教室で良かったのに、と朝美が持つノートを見やる。 「今日、一時間目からでしょ?単元の所まではやってあったけど、柳君ならもう一度目を通しておきたいだろうな、と思って」 「心遣い痛み入る、といったところか。悪いな」 「ううん、こっちこそ有り難う。柳君のノートは字も綺麗だし、纏め方が解りやすいから助かっちゃった」 実はちょっと解らないところあって困ってたんだよね、と苦笑をひとつ。 本当にありがとう、とノートを返す朝美に、役に立てたなら光栄だ、と柳も微笑んで受け取る。 「俺も三年だったら、藤沢先輩にノート貸せたのになー」 「切原君、このノート英語だよ?」 「他の教科ッスよ、他の教科!!」 「ごめんごめん、解ってるって。私も二年生だったら、切原君に英語のノート貸してあげられたのにな」 そう言ってくすくす笑う朝美に、「えっ。じゃあ今度、フツーに英語教えてくださいよ」と赤也が頼めば返答はOKで、しかしガッツポーズで喜ぶ赤也に降り注ぐのは、「じゃあ今度、テニス部で勉強会でも開くか」という柳の声。 えーっ、と不満げに声をあげる赤也を見ながら、朝美は再びくすくす笑う。 クラスメイトと後輩を交えての、談笑する朝の一風景。 なんてことないワンシーンは、しかし、仁王の目には他と明らかに違って見えている自信があった。 微笑ましい光景に目を細めていると見せかけながら、内心では『その笑顔は偽物だぞ』とせせら笑う。 学校では必要以上に接触しないという条件下、その輪の中へ割り込もうとはしなかったが、そもそもする気はないし、それよりもこうやって傍観に回っている方が有意義に思えた。 自分以外は誰も知らない彼女の本性を知っているという優越感。 彼女の手の上で踊っているつもりながらも、もしかしたら踊らされているかもしれないという緊張感。 握る秘密は、切り札どころか弱みにもならないというのに、不思議なほどに心は小躍りすらしていた。 「仁王君?」 ふと、声をかけたのは柳生だった。 一点を見つめて面白そうなものを見る目をしている仁王を不審に感じたのか、それともただ単に気になったのか、顔を向けてやれば、どうかしたんですか、と心持ち不思議そうに尋ねる。 「いや、別に。赤也が犬みたいじゃ、と思っただけじゃ」 「そう、ですか」 「それと、」 藤沢サンは可愛いな、との。 そう言ってニヤリと口の端を持ち上げれば、柳生が少しきょとんとした顔をする。 「珍しいですね。貴方が、そんな風に女性に関心を持つなんて」 「……まあ、そうじゃのう」 「口出しはしませんけれど、下手な扱いはしないように気を付けてくださいね。ましてやペテンにかけるなど、もってのほかですからね」 あの花開くような笑顔が消えてしまうのは悲しいですから、と告げる柳生に、そんな女じゃなかよ、と口をついて出そうになるのを食い止めて口を噤んだ。 代わりに、前方へ目をやる。 そこにはもう朝美の姿は無く、代わりに異様に元気になっている赤也がラケットをぶんぶんと振り回して、「仁王先輩、サーブ!!」と叫んでいた。 *** 一時間目を終えた休み時間。 次の授業の準備をしながら朝美は、傍に寄ってくる柳に気がついてカバンの中へやっていた視線をあげた。 柳は朝美と視線が合うと、軽く手を挙げて前の席へ腰を下ろす。 「さっきの授業は寝なかったようだな」 「朝から寝たりはしませんよー。それより、どうしたの?」 口元に手を添えてくすくす笑ってからニコリと微笑みを口元に浮かべる朝美はそれから小首を傾げるも、柳が「今朝の事なんだがな」と口を開けば、すぐに「赤也君の事?」と尋ねた。 朝美の言葉に、察しが良いな、と柳は嬉しそうに微笑む。 「勉強会の事なんだがな。お前さえ良かったら、本気で開きたいと思うんだが」 「え、本当に?開くんなら、参加するよ」 「そうしてくれると有り難い。お前が居ると、赤也のモチベーションが上がるんでな」 そう言って微笑む柳を見て、朝美は少し驚いたように目を見張るとぱちぱちと瞬いた。 その様子に、どうかしたか、と柳が問えば次の瞬間に朝美は肩を竦めて吹き出すようにフフッと笑った。 「柳君は、切原君が好きなのね」 「は?」 「『お前が居ると、赤也のモチベーションが上がるんでな』って……なんだか子供の心配する、お父さんみたい」 「そ……そうか?」 首を捻る柳の目の前で、朝美は「そうだよ」とくすくす笑う。 藤沢が言うのならそうかもしれないな、と柳が少し落ち込んだような溜息を吐けば、そういう柳君も素敵だと思うけどなあ、と朝美。 柳はその言葉に、そうか?と少し呆れたように言いながらも、その顔には満更でもない微笑みを浮かべた。 チャイムの音に、それじゃあ、と柳は席を立って自分の席へ戻っていった。 代わりに帰ってきた本来その席に座っている女生徒が、去っていく柳の後ろ姿と席に残る温度に恋心を顔に浮かべながらも、何話してたの、と興味ありげに話しかけるのに、勉強会をしないかって話、と朝美は答える。 「勉強会?うわー、やっぱ柳君とだとそういう話になるのかー」 「そうでもないよ?普通の話題振ったら、普通に返してくれるって。今度話しかけてみなよ」 「ええっ、出来ない出来ない!」 「大丈夫だって!あ、ほら。それか、会話が苦手なんだったら、綺麗に纏められてるって私に聞いたから、とかなんとかいって、ノートとか借りてみたらどう?」 「ぐっ……が、がんばってみる……」 まだ何も始めていないというのに、頭の中でシミュレーションをしただけで緊張した面持ちを見せる女生徒に、朝美は「応援するからいつでも言ってね」と笑いかける。 女生徒がそんな彼女に「朝美はほんと、良い子だよねえ」と言った時、教室へ入ってきた教師に、委員長の起立の声が響いた。 |