流れ込んできたビジョンに、ユキは目を見開いた。 体中の血がすっと引いて、嫌な汗が背中を伝う。 「ルキ、ア……?」 耳に届く自分の声が、震えているのをユキは聞いた。 心臓が、大きく脈を打つ。 何かにすがるように、祈るような気持ちで、ユキはルキアの霊圧を探った。 しかし探り取った霊圧は、その魄動は、ユキの祈りに反して小さく、弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。 刹那、動転する。 震える手を、もう片方の手でテーブルの上に押さえつけた。 かたかたと、テーブルの四足が微かに音を立てる。 (どうしよう、どうしよう……!) ルキアが、死んでしまう。 大切な友人が、己の為に死んでしまう。 (落ち着け、落ち着け、落ち着け……!) 例えようのない恐怖の前に、冷静さが失われていくのを必死に食い止めるように、ユキは自身へ言い聞かせる。 飛び出しそうになる足を踏ん張って、今にも鬼道を放って部屋の壁へ大穴を空けそうになる手を押さえつけて、詠唱しそうになる口を引き結んで、必死に耐えた。 今すぐ飛び出して、ルキアの下へ駆けつけたい。 だが今飛び出しても、ただの犬死にだ。 ――コンコン 衝動と理性の間で揺れるユキの耳に、部屋の扉がノックされる音が届いた。 一瞬アパッチかと思ったが、その割にはノックの音が大人しいことに気付く。 同時に、霊圧を探れば知らない相手と察してユキは途端に警戒を飛ばした。 「……誰?」 恐る恐る声をかけると、きぃ、と静かな音と共に扉が開く。 その向こうに現れたのは、一人の若い女。 薄い金色のロングヘアーに、赤い瞳。 前髪は左側だけ長く、彼女の左目を覆い隠している。 その頭部には、小さな牙を模したような白い仮面がついていた。 大きく開かれた胸元からは豊かな谷間が覗き、短いタイトなスカートからは美しい足がすらりと伸びている。 蠱惑的な体つきをしたその女は、ユキを見てにっこりと微笑む。 「初めまして。私、レイール・ディ・ファブリスと申します。第8十刃、ザエルアポロ・グランツ様の従属官ですわ」 ザエルアポロ、という名前に、ユキは尚更警戒を強めた。 それを見てレイールは、困ったように眉を下げて苦笑を浮かべる。 「ザエルアポロ様から、お話はうかがっております。お気持ちは分かりますけれど、でもどうか、そう警戒なさらないでくださいな。私は、ザエルアポロ様の命令で、貴方の脱出に協力しに参りましたの」 そう言って女が背後から取り出したのは、一振りの刀。 青藍色の柄巻きを見て、ユキは途端に気付いた。 「それ、」 「ええ、貴方の刀です。勿論、本物でしてよ」 さあ、お受け取りになって。 そう言ってレイールは刀を差し出したが、受け取ろうと一歩踏み出したユキは、しかしすぐにその足を止めた。 レイールという目の前の女はさておき、ザエルアポロという彼女の上司には前科がある。 となれば、それに忠誠を誓っているらしきこの女にも、不用意に近づくわけにはいかない。 ほんの一瞬解けたユキの警戒がすぐに戻ったことに気付くと、レイールはくすりと笑う。 「分かりましたわ。では、失礼かとは存じますが……」 言うなり、レイールは数歩ユキへ歩み寄ると、しかし傍まで寄ることはなくある程度離れた距離で止まり、その地面へユキの刀をそっと置く。 そして自身は再び、部屋の扉のところまで下がって両手を上げた。 「これで、お受け取りいただけますかしら?まだ心配なのでしたら、私を貴方の鬼道で縛ってくださっても構いませんわ」 「……いえ、結構」 そう答えながらも、ユキは警戒を弱めない。 見知らぬ人間から餌を得る猫のように慎重に刀に近づくと、手に取った瞬間に後ろへ退がる。 (……蒼焔、聞こえる?) (――聞こえている) 刀は、果たして本物だった。 心の内で呼びかければ、返ってきた声にユキはホッとして息をつく。 それを見て、「信じていただけましたかしら?」とレイールはゆるりと首を傾げて尋ねた。 しかしユキは厳しい視線のままに、いいえ、と口にする。 「正直、信用することは出来ない。……でも、斬魄刀を取り戻してくれたことは……それは、ありがとう」 レイールが、その返答に気分を害された様子はなかった。 それで構いませんわ、とその顔に彼女はただ微笑を浮かべる。 「では、参りましょう。途中まで、お供させてくださいな。貴方が無事、お仲間と合流できるのを確認できなければ、ザエルアポロ様にお叱りを受けてしまいますので」 「……どうして、そこまで?私を逃がせば、あなたたちの仲間を裏切ることになるんじゃないの?あなたの上司が私に力を貸す理由は聞いているけれど、私はその条件を飲んでいないし」 「簡単なお話ですわ。私達は、貴方に恩を売りたいんですの。貴方はザエルアポロ様にとって、非常に気になる【珍しい存在】であることは、聞き及んでいらっしゃいますわよね?そんな貴方に、ご自身を検体として差し出していただけるのなら、研究者として身の危険など大したことではありませんわ」 「……なんだか勝手に盛り上がっているようだけれど、私はあなたたちの実験だなんだに関わる気はないから」 「あら、そうですの?でも、貴方も知らない、貴方自身に隠された謎……自分の正体が何なのか、貴方は知りたくはございません?」 「……」 問われて、ユキは思わず押し黙ってしまう。 気にならない、わけではない。 けれど。 (……ユキ) 心の内に、誰かが呼びかける。 それは、手の内の蒼焔だった。 (とりあえず、この女の戯言は放っておけ。今はここを出るのが先、そうではないのか) その言葉に、ユキは眉根を寄せる。 そうだ、迷っている場合ではない。 こうして話しているうちにも、ルキアの魄動がどんどん弱まっていく。 霊圧を探る限り、斬魄刀を手にした今、目の前の女は自身の力で倒せない相手では無い。 何かを企んでいるなら、企みを明かした瞬間に斬り伏せればいい。 斬魄刀も戻った今であれば、憂慮なくそれが出来る。 「……条件を飲んだ気はないってこと、忘れないで」 「ええ、構いませんわ」 ユキのすげない返答にも、レイールはつとめて愛想の良い笑顔を返してみせる。 そして、「密かに逃げるならこちらですわ」とユキを廊下の先へと誘った。 *** レイールの手引きのおかげで、ユキは難なくハリベルの宮を抜け出せた。 宮を離れて大分経つが、ハリベルやアパッチ達が追ってくる気配は今のところない。 レイール曰く、斬魄刀のところには同形状の模造品を、ユキがいた部屋にはユキと同じ霊圧を放つ発生器を置いたのだという。 それらの全てをザエルアポロが用意したのだということを、レイールはうっとりとした様子で話した。 ユキにすれば気味が悪く、そして恐ろしい話だった。 ダミーを用意できたということは、それだけユキについて調べ上げられているということだ。 今は味方であるから良いが、いつ敵に寝返るかわからないということを考えれば、彼女の話すあれこれは脅威でしかない。 (とにかく、今はルキアの救出に専念しよう) 誠意はあると言い難いがその代わり、彼女や彼には傲慢なる理性がある。 そして今のユキには斬魄刀と、奥の手として己自身というカードがある。 自身の身を【検体】として所望している以上、下手に手を出してはこないだろう。 加えて、見る限り彼女はザエルアポロと同様、戦闘が得意なタイプには見えない。 ユキにとって、少なくとも最悪の事態は避けられる筈だった。 (ルキアの救出が、何より最優先。万が一何かあっても最悪、私を交換条件にルキアだけでも助けてもらえればいい) 彼女がユキに何か手出しをするとすれば、それはユキが最も安心しきっている時。 すなわち、ルキアの安否が確認できた時だ。 そう思っていたのだが。 「9番宮に入るなら、あそこからがよろしいですわ」 ふとレイールが、前方の白い建物を示す。 ただルキアのか細い霊圧を辿って、自分がどこに向かっているかなど分からなかったが、どうやらその【9番宮】へ向かっているらしい。 確かにルキアの霊圧は、その向こうから感じる。 急ごう、と地面を強く蹴ったその時だった。 「なッ…!?」 突如として、地面が大きくへこんだ。 否、沈み込み、そのまま吸い込まれる。 人一人が通れる大きさに空いたそこへ、ユキが消えて行ったのを確認すると、その淵に立って眺めていたレイールは、にこりと笑って自分もそこへ飛び込んだ。 彼女の金糸が闇の中へ消えると、ぽかりと空いた穴はふさがる。 そして何事も無かったかのように、その場に静寂が訪れた。 周りは闇で、なにも見えない。 ただそう広い空間ではないことは、なんとなくうかがえた。 傾斜のかかったその空間は、重力に従ってかなりの速度で、進入者を下へ下へと運ぶ。 そのうち光が見え、かと思うと突如として、ユキの体は広い空間へ放り出された。 空中に投げ出されている自分に気付くと、とっさに受け身をとって、衝撃もなく地面へ着地する。 「まあ、素敵」 パチパチ、と一人分のゆっくりとした拍手が響いた。 しかし賞賛の言葉は、単語本来の意味とは異なり嘲る色を浮かばせている。 室内を見回すよりも先に、ユキはそちらへ鋭い視線をよこした。 「あらやだ、怖いお顔。ふふ、ごめんあそばせ。朽木ルキアのもとへは、行かせなくってよ」 「……騙した、ということ?」 「ええ。貴方が私達のことを『信頼』してくださって、幸いでしたわ。警戒しすぎて、逆に油断しましたわね」 嘲笑の形に目を細めるレイールを見て、ユキは奥歯を噛みしめる。 確かに、最初からレイールの言葉を信じずに警戒していれば、こんな罠にはきっと引っかからなかっただろう。 馬鹿正直にも彼女の言葉を鵜呑みにしたうえで思考を巡らせた自分に、ユキは眉根を寄せる。 一方で、それならそれで、とその手はすぐに刀の柄を握る。 瞬間、レイールはその笑みを深くした。 「蝕め、蒼焔!」 その名を口にすれば、異変はすぐに起こった。 否、起こらなかった。 「!?」 何も反応を示さない斬魄刀に、ユキは顔をしかめる。 心の中で繰り返し呼びかけてみるが、普段ならある筈の返事は全く返ってこなかった。 おかしい。 ついさっき言葉を交わしたこれは、確かに自分の斬魄刀の筈だ。 それを蒼焔と確かめたのはレイールから受け取った後の話で、以降ずっと自分が握っていたそれをレイールがすり替えられた筈がない。 だというのに、何度呼びかけても蒼焔は反応を示さなかった。 「無駄でしてよ」 そのうち、余裕たっぷりにレイールの声が響いた。 険しい表情を浮かべて視線をよこすユキを見て、レイールはにっこりと笑うと言葉を続ける。 「残念ですけれど、この部屋では貴方の刀は使えませんわ。刀なんて物騒なものを振り回されて、怪我でもしたらたまりませんもの。ですから、封をさせていただきましたわ。……そうそう、それから――」 ならばと掌を向けるユキに向けて、レイールは冷静に言った。 「鬼道も、封じさせていただきました」 破道の三十一、赤火砲。 紡いだ言葉はしかし、力となって掌から放たれることはなかった。 くすくすとレイールの笑う声が、室内に響く。 「ザエルアポロ様に触れられて、ただで済むとでも思ってらして?あの方が貴重な検体を前に、何もしないで去るなどと……。もちろん、ちゃあんと仕掛けていらっしゃってましてよ。あなたの霊圧は既に解析済みです。故に、あなたに流れる霊圧が、この部屋でエネルギー体として放出されることはありませんわ」 哀れむような視線をユキへ寄越すと、レイールはその胸元から何か白い、円柱形のものを取り出した。 それを顔の横あたりまで持ち上げると、レイールはユキへ見せつけるようにその天辺についたボタンを沈ませる。 かち、と音が鳴った瞬間、ユキは焦燥と共に身構えた。 上も下も横もなく、四方八方から現れたのは沢山の破面。 レイールとはことなり、人間的なスタイルから離れて奇妙な姿形をした彼らは、あるいはレイールを護るように、あるいはユキを囲むように、室内へ展開し位置取った。 「無駄な抵抗はお止しになって……と言ったといったところで素直に聞き入れてくださるとも思えませんでしたから、強制手段の準備に抜かりはありませんわ」 あなたの素体のデータも事前にいただいておきたいですし、と付け加えてレイールは口元へ艶めかしく指を添える。 そして室内の破面達を一瞥すると、その視線を再びユキへと戻して二の句を継いだ。 「さあ――遊んでさしあげて」 赤い瞳が、好戦的に光る。 レイールの言葉を合図に、取り囲む破面達が一斉にユキへ襲いかかった。 とっさに飛び上がってそれを避ければ、上から飛びかかってきた数匹へ冷静に太刀筋を浴びせる。 (……よし……!) ユキにとって幸いだったのは、彼らの鎧皮がユキの物言わぬ刀の刃でも通してくれることだった。 どうやら彼らのそれはアパッチたちのそれとは異なり、硬度はかなり低いようだ。 背後からの強襲を瞬歩で避けると、相手の背へ試しに一撃蹴りを入れた後、ユキは後方へ距離を取って位置取る。 (今使えないのは、鬼道と蒼焔。瞬歩は使える、この硬度なら白打もある程度問題ない。蒼焔だって始解が出来ないだけで、刃をなくしたわけじゃない) まだ、戦う術は十分に残っている。 あとは相手の数。 そして、レイールの存在。 ざっと見て、数は30。 スピードは圧倒的にユキが有利だが、今のユキはとにかく決定打に欠ける。 そしてこの数を倒し尽くしたとしても、後にはレイールがいる。 ユキが消耗しきったところで捕らえる算段をしながら、彼女は悠々とした様子で笑みを浮かべていた。 白い異形達に守られて微笑むその姿は、まるで女王のようにも見える。 されど、頭を垂れるわけにはいかない。 ルキアのもとへ、一刻も早く向かわなければならない。 密集する破面達の霊圧が邪魔して、部屋の外の霊圧が一切窺えない――ルキアの霊圧も魄動も一切窺えないことに不安を覚えながらも、ユキは目の前の敵を見据え、刀を構えた。 (素通り……は、させてくれそうにないな) この部屋の唯一の出口には、女王自らが立ちはだかっている。 そしてそこへ続く道には、沢山の破面達がざわめいていた。 襲いかかってくる数体を避け、時に同士討ちへ持ち込ませながらユキはレイールへとその距離を縮めていく。 消耗を狙っているなら尚の事、彼女を早々に倒せるのであればそうしてしまった方が早い。 勿論、容易くそれを許してくれるような相手と状況では無いが。 (せめて、どっちかだけでも使えれば……) それだけで、状況はあっという間に変わるのだが。 そう思った時、ふと思いついたことがあった。 『あなたの霊圧の流れ、その量は既に解析済みです』 先刻、レイールが放ったその言葉。 (……試してみる価値はあるかも) 一つの推測に、ユキは左耳につけた石を外す。 データを取るためにそうしたのか、それとも出来なかったのかは不明だが、霊圧を封じられたわけではないのはユキにとって幸運だった。 あとは今手にしているこれがザエルアポロの意識から外れていて、且つ、それがレイールにとっての不運であることを願うばかりだ。 ユキのこめた霊圧に反応して、石を縁取る銀の縁飾りが壊れる。 石だけになったそれをユキは口に含み、そして飲み込んだ。 その不可解な動作に、レイールは僅かに眉をひそめる。 (何をする気ですの?) 些細な動作に目を留めた目敏さは流石にザエルアポロの助手をつとめるだけのことはあったが、その後の予想がつくほど彼女は研究者ではなかった。 何より、ザエルアポロのことを盲信している。 だからこの部屋で、ユキに何か出来るなどとは微塵も思っていない。 しかしその端正な顔は次の瞬間、驚愕の形に歪められた。 ザエルアポロによって特殊な改造を施されたその瞳が、ユキの霊圧が突如として劇的に上昇していく様を計測する。 「ッ、押さえ込んで!早く!!」 レイールが慌てて出した命令に、破面達がいっせいにユキへと飛びかかる。 しかしその指先がユキに届くよりも、ユキが詠唱を終える方がずっと早かった。 「破道の六十三、雷吼炮」 電撃を帯びた霊圧の塊が、ユキの掌から放たれる。 すぐ前方にいた破面は防御体勢も取れぬままに、真正面からそれを受けた。 ユキの倍はあるその巨体が、エネルギーに押し負けて軽々と吹き飛ばされる。 それにぶつかって数体が、後背へと一緒に吹き飛ばされた。 吹き飛ばされた破面達を見て、レイールの顔が引き攣る。 突然の事態を目の前に、焦りを帯びた赤い目がユキを睨みつけた。 「あらやだ、怖い顔」 優位を得た声が、レイールの前方から響く。 吹き飛ばされた同胞に動揺した破面達は、警戒するかのようにユキの周囲に間合いをとって展開していた。 周囲を破面に囲まれながら、ユキはレイールへ笑みを差し向ける。 「悪いけど、通してもらうからその心算でよろしく」 皮肉を含んだその言葉に、レイールは歯噛みする。 ――果たして、ユキの幸運はレイールの不運となったのだった。 |